第四話:金(きん)
クノは、死体と金の匂いしか信じない男だった。
その哲学は、彼がまだ十五の傭兵見習いだった頃、フランスのルーアンで確立された。
1431年。彼は、火刑台の煙が渦巻く広場で、古参兵ゲルハルトの言葉を聞いていた。
「見ろ、小僧。あれが『戦争』だ」
焼かれていたのは、フランス軍の旗印だった「乙女」。
「あの女は、フランスの王太子にとっては『聖女』である必要があった。だから『聖女』になった」
ゲルハルトは、群衆の熱狂を冷めた目で見ながら続けた。
「そして、イングランドの旦那方にとっては『魔女』である必要があった。だから『魔女』として焼かれた」
「どっちが真実かじゃねえ」と老兵は、クノの胸を突いた。「どっちが『都合がいい』か。そして、どっちが『金』になるかだ。戦争ってのは、そういうルールのゲームさ」
クノは、その「ゲーム」のルールだけを忠実に守り、生き抜いてきた。
それから二十年近くが経った、1450年代末。
百年戦争は終わりを告げ、クノのような傭兵たちは仕事にあぶれていた。剣の腕を売る市場が縮小した代わりに、新たな「市場」が生まれつつあった。
「恐怖」を扱う市場だ。
クノは今、ある都市の異端審問所の「嘱託」として日銭を稼いでいた。
彼の仕事は、神学論争でも魂の救済でもない。拷問官の助手を務め、尋問室の血と汚物を「掃除」し、そして時には処刑人として、断罪された者の首を刎ね、あるいは火刑台の薪を組むことだった。
彼は、誰よりも「舞台裏」を知っていた。
彼は、地下牢で繰り返される茶番劇に、冷めた侮蔑の目を向けていた。
「悪魔と契約したのは、いつだ!」
審問官が、水責めで半死半生になった女に怒鳴る。
(違うな)とクノは心の中で嘲笑う。(三日前にあんたの宿舎にいた、あの貴族の旦那が、そう叫べとアンタに指示していた)
「黒い山羊に跨り、サバトへ飛んだな!」
(それも違う。五日前の男も、十日前の老婆も、全員『黒い山羊』だ。お前たちの想像力は、その拷問具と同じで、錆びついている)
クノは見抜いていた。
「自白」とは、絶望的な苦痛の中で、拷問官が望む「答え(台本)」を、被告が必死に読み上げるだけの、粗末な芝居であると。
彼にとって、この「魔女狩り」は、かつてルーアンの広場で見た「聖女」と「魔女」のレッテル貼りの、小さな小さな焼き直しに過ぎなかった。正義の執行者たちを、あの頃の古参兵ゲルハルトよりも愚かで、狂信的で、そして何より「金にならない」人間だと軽蔑していた。
その日、クノは仕事の報酬を受け取りに、牢獄の管理室を訪れた。
そこには、古株の看守アントンが、小さな薬包を握りしめ、金貸しに頭を下げているところだった。
「頼む! あと銀貨一枚だ! これがないと、娘の薬が…!」
「知るか。お前の娘が『神聖病』持ちだろうと、俺の知ったことじゃない」
クノは、そのやり取りを面倒くさそうに眺めていた。看守アントン。娘が「悪魔憑き」だと触れ回っていたが、最近は「病気だ」と言い張り、高価な薬草を買い漁っている、少し頭の足りない男だ。
金貸しが帰った後、アントンは床に崩れ落ちた。
「…おい。金が要るのか」クノが声をかけた。
「…傭兵殿。あんたこそ、こんなところで何を」
「仕事の報酬だ。だが、審問官様は『後払い』がお好きでな。少し足りん」
クノは、アントンの絶望的な目を見た。これは「儲け話」の匂いがした。
「何か売るモンでもあるのか。お前が拷問で『没収』した遺品とかな」
「そ、そんなことは!」アントンは慌てたが、娘の薬包を握りしめ、意を決したように立ち上がった。
「…ある。文字が読めるあんたなら、価値が分かるかもしれん」
彼が牢の床石の下から取り出してきたのは、油紙に包まれた、カビ臭い二冊の「ノート」だった。
「…何だこりゃ。聖書か?」
「いや…違う。昔、俺が世話した哀れな修道士の遺品だ。そいつが『娘を救う知恵だ』と言っていた。だが、俺には読めん。あんたなら、これが『知恵の書』だと分かるはずだ」
クノは、ノートを無造作にめくった。
一冊目(マルタの帳面)は、子供の落書きのような拙い文字と、植物や赤ん坊のスケッチ。
二冊目は、整然としたラテン語だが、内容は支離滅裂に見えた。「鉛」「てんかん」「麦角菌」「ジャンヌ」…?
(くだらん。狂人の日記か)
だが、クノは表情一つ変えなかった。
「これが知恵の書だと? アントン。お前の娘の病は、お前の頭からうつったらしいな」
クノは、わざとらしくノートを放り投げた。
「銀貨二枚だ。紙の無駄遣い代としてな」
「に、二枚!? これは、あの修道士様が命を懸けた…!」
「じゃあ銀貨一枚だ。それで薬を買うか、この紙クズと心中するか、選べ」
「…わ、分かった! 二枚で!」
アントンは、クノから銀貨二枚をひったくると、薬屋に向かって走り去っていった。「知のバトン」は、こうして史上最低の価格で、史上最も不似合いな男の手に渡った。
その夜。酒場でエールを飲みながら、クノは「戦利品」を広げた。
最初は、ただの紙の無駄だと考えていた。
だが、文字が読める彼は、傭兵稼業で培った「情報分析能力」で、その二冊のノートに記された、恐るべき「体系」に気づき始めた。
一冊目。産婆マルタの、拙い文字とスケッチ。
『鉛の管。甘い水。青い痣』
『秋の長雨のあと、黒穂のついたライ麦。これを食べたマティアスの家、一家全員が火の玉を見る(幻覚)。痙攣』
二冊目。修道士トマスの、整然とした筆跡。
『聖書における「悪魔憑き」の記述と、「てんかん」の症状の酷似』
『麦角菌(黒穂)による幻覚症状。これが「サバトで空を飛ぶ」ことの正体か?』
『鉛毒による神経症状と青痣。これが「呪いの徴」か?』
クノの唇が、ゆっくりと冷たい笑みの形に歪んでいった。
「……はっ。くだらない」
彼は、自分が「茶番」と見抜いていたものの「タネ明かし」を、今、手にしてしまった。
「悪魔」の正体は、錆びた鉛管と、腐ったパン。
「魔女の徴」は、ただの毒物反応。
「悪魔憑き」は、ただの病気。
彼が毎日「掃除」している、あの血まみれの尋問室。あの場所で、何百人もの人間が、この「タネ」のために、拷問され、焼かれてきた。
ジャンヌ・ダルクの時代から、何も変わっていなかった。
「馬鹿馬鹿しい。何たる壮大な、時間の無駄だ」
彼は、そのノートを懐にしまい込んだ。もはや単なる紙クズではない。これは、この世で最も滑稽な「喜劇の台本」であり、そして、使い方次第では「武器」になるかもしれない。
その時だった。
酒場の扉が開き、絹の服を着た、明らかに場違いな男が入ってきた。男は、部屋を見渡し、傭兵の格好をしたクノを見つけると、まっすぐ歩み寄ってきた。
「傭兵クノ殿か」男は、声を潜めた。「我が主、ボルジア伯爵が、貴殿に『仕事』を頼みたいと」
「伯爵様が、俺に?」
「貴殿は、審問所の『やり方』に詳しいと聞いている。そして、口が堅く、腕が立つ、と」
クノはエールを飲み干した。
「話が早そうだ。内容は?」
男は、さらに声を潜め、ずっしりと重い金貨の袋をテーブルの下でクノの手に握らせた。
「伯爵の政敵、ヘス男爵を、公的に『消して』いただきたい」
「…暗殺か」
「いや」男は、貴族らしい冷たい笑みを浮かべた。「あの男は…魔女なのだそうだ。伯爵は、それを『証明』したいと仰せだ」
男は、もう一つの羊皮紙の束をクノに渡した。
「これが、伯爵がお調べになった『証拠』の写しだ。いわば『台本』だな」
クノは、その羊皮紙を開いた。
そこには、ヘス男爵がいかにして「黒い山羊と契約」し、「サバトで饗宴」を繰り広げたかが、クノが地下牢で聞き飽きた言葉と寸分違わず、克明に記されていた。
「報酬は、前金で金貨500枚。成功すれば、さらに500だ」
「話が早い」クノは金貨の袋を受け取った。
男が満足そうに酒場を出ていく。
クノは、一人残ったテーブルで、二つの「書物」を見比べた。
片方は、ボルジア伯爵が金で買った、完璧な「嘘の台本」。
もう片方は、マルタとトマスが命懸けで記し、アントンが銀貨二枚で売った、完璧な「真実のタネ明かし」。
彼は、懐の「タネ明かし」のノートを叩いた。
(…あの老兵ゲルハルトは言ったな。「ゲーム」だと)
(そして伯爵は、俺に「台本」を渡した)
クノは、二十年前、ルーアンの広場で感じたのと同じ、冷たい興奮を覚えていた。
(だが、伯爵。あんたは間違えた)
(このゲームの「配役」を決めるのは、あんたじゃない)
クノは、エールをもう一杯注文した。
この「台本」を、どう書き換えれば、一番「面白く」なるか。
そして、一番「金」になるか。
彼の、現実主義者としての「戦い」が、今、始まろうとしていた。
(続く)




