第三話:声
修道士トマスは、罪を犯していた。
それは、教会の教えに背くという罪ではない。彼が学んできた神学の、その根幹を疑うという罪だった。
マルタが灰となってから三ヶ月。
彼の修道服の奥には、今や二冊の「聖書」が隠されていた。一つは神の言葉。もう一つは、マルタが血と経験で記した「帳面」。トマスは夜ごと、この二つをロウソクの光の下で突き合わせていた。
マルタの帳面は、悪魔の契約書どころか、あまりにも理性的で、悲しいほどの「観察」に満ちていた。
『鉛の管。甘い水。青い痣』
『秋の長雨のあと、黒穂のついたライ麦。これを食べたマティアスの家、一家全員が火の玉を見る(幻覚)。痙攣』
トマスの指は、マルタの拙い文字から、自らが学んだ神学の書庫へと導かれた。
彼は、修道院の図書館の、埃っぽい棚から古い医学書を漁り始めた。本来なら神学の徒が触れるべきではない、アラビアの医師アヴィセンナの翻訳書や、古代ギリシャのヒポクラテスの文献の断片。
そして、見つけてしまった。
アヴィセンナの『医学典範』の記述。
『…鉛は内臓を蝕み、精神を狂わせ、血を黒くする…』
ヒポクラテスの『神聖病について』の記述。
『…「神聖病」と呼ばれるものも、他の病と何ら変わらず、脳に由来する自然の原因を持つ…』
トマスの手が震え、ペンが羊皮紙にインクの染みを広げた。
マルタの「鉛」が、赤ん坊の「青い痣」と「出血(アンナの死)」という“症状”を引き起こしたように。
マルタの記した「黒穂のライ麦(麦角菌)」が、「幻覚」と「痙攣」という“症状”**を引き起こしたように。
彼は、自らの聖書を開いた。
マルコによる福音書、九章。
『…イエスが“霊”に、「汚れた霊よ、この子から出て行け」とお命じになった。すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせ、出て行った。その子は死んだようになった…』
激しく引きつけさせ…。
ヒポクラテスの言う「てんかん」と、何が違う?
マルタの村で見た、パン屋の息子の発作と、何が違う?
トマスの脳裏で、恐ろしい仮説が形を取り始めた。
「悪魔憑き」とは、神罰や悪意の介在などではなく、ただの「病」の症状なのではないか。
マルタの言う「鉛の毒」のように、それは「環境」に起因するのではないか。
あるいは、ヒポクラテスの言うように、それは「脳」に由来するのではないか。
彼は、自らの研究ノート(新たなバトン)に、震える手で書き記し始めた。
『ならば、「魔女」とは何か?』
『彼女たちは、悪魔の僕ではない。彼女たちは、救われるべき“病人”ではないか?』
『我々が行うべきは、拷問による「悪魔祓い」ではない。マルタが行ったような「観察」と、ヒポクラテスが試みたような「治療」であるはずだ』
彼は、自らの結論に戦慄した。
もし、これが真実なら。
師グレゴール(エルンスト)が、そして教会が「神の正義」として行ったマルタの処刑とは、いったい何だったのだ。
それは、病人を拷問し、火刑台で焼き殺すという、地上で最も残忍な「悪魔の所業」そのものではないか。
トマスの異変に、師である異端審問官エルンストは、すぐに気づいた。
エルンストは、トマスを自らの弟子として、誰よりも目をかけていた。
彼自身、かつて家族をペストで失い、それを「神の沈黙」ではなく「悪魔の介在」と確信することで、自らの信仰を保ってきた男だった。彼は、師である老審問官グレゴールから拷問による「魂の解放」を学び、それを自らの「神学的正義」としてきた。
だが、マルタの処刑は、エルンストの心にも消えない「棘」を残していた。
あの産婆の最後の目。それは狂信者の目ではなく、あまりにも理性的で、自らの「知」に殉じる覚悟の目だった。
そして今、最も信頼していた弟子トマスが、あのマルタと同じ「合理」という名の毒に侵され始めている。
「トマス」
エルンストは、夜の書庫で研究に没頭するトマスに声をかけた。
「近頃、お前の顔色は悪い。何に惑わされている?」
「師よ…」トマスは、慌ててノートを隠した。「いいえ、ただ神学の壁に…」
「嘘をつくな」エルンストの目は鋭かった。「お前は、あの魔女の言葉にまだ囚われている。悪魔は、そのようにして神の摂理を『自然の原因』と偽り、知性ある者の傲慢を誘うのだ。マルタの帳面はどこだ。証拠として焼却したはずだが」
「…! 焼却しました。すべて、師の仰せの通りに」
トマスは、生涯で初めて、師に対して完璧な嘘をついた。
エルンストは、その嘘を見抜いていた。だが、彼はまだ弟子を信じたかった。
「…トマス。疑念は、信仰を試す神の砥石だ。だが、その先に悪魔の領域があることを忘れるな。明日のミサまでに、自らの魂を浄化せよ」
その夜、エルンストは自室で祈りながら、かつて師グレゴールに教わった言葉を反芻していた。
『肉体の破壊は、魂を浄化するための聖なる手段である』
彼は、愛する弟子トマスのために、その「聖なる手段」を使わずに済むよう、神に祈った。
しかし、トマスの知的好奇心は、師の警告では止まらなかった。
彼は、自らの仮説を証明するため、さらに危険な領域へと足を踏み入れた。
修道院の最奥、異端として厳重に封印された「禁書庫」。
彼は、マルタの処刑以来、世話を焼いていた牢の看守アントン(娘がてんかん持ちだった)に頼み込み、その鍵を夜半だけ借り受けた。
彼が探していたのは、一つの「判例」だった。
『ジャンヌ・ダルク異端裁判記録』の写本。
およそ二十年前、フランスで「魔女」として焼かれた、あの乙女の記録。
トマスは、その裁判記録を読み進めるうちに、マルタの帳面を読んだ時と同じ戦慄を覚えた。
表向きの罪状: 「神の声を騙る」「男装」「異端」。
審問官の誘導: 「その『声』は、悪魔の声ではないか?」「お前はサバトに参加したのではないか?」
ジャンヌの応答: 「私に聞こえるのは、聖ミカエルと聖カタリナの声です」
トマスは、自らの研究ノートに書き殴った。
「…待て」
「もし、マルタの言う『鉛』が、人の体に『青い痣』を作ったのなら」
「もし、医学書の言う『麦角菌』が、人に『幻覚』を見せるのなら」
「このジャンヌという少女の聞いた『神の声』とは…」
「あるいは『悪魔の声』とは…」
「それもまた、何らかの『病』、あるいは、常人には理解できない『精神の症状』ではなかったのか?」
トマスは、この物語で初めて、最も恐ろしい一線を超えてしまった。
「魔女は病人だ」という仮説から、さらに一歩進んで「聖人さえも、病理(あるいは未知の現象)で説明できるのではないか?」という、神学の根底を覆す結論に手をかけてしまったのだ。
その瞬間、禁書庫の扉が、地獄の門が開くかのように開いた。
松明の光の中に立っていたのは、師エルンストだった。
彼の顔は、怒りよりも深い、絶望に歪んでいた。看守アントンが、良心の呵責に耐えかね、すべてをエルンストに告白したのだった。
エルンストは、トマスが書き殴ったノート(ジャンヌの記録と、マルタの帳面が並べて開かれていた)に、ゆっくりと歩み寄った。
「…トマス」
エルンストの声は、氷のように冷たかった。
「貴様は…なんということを…」
「師よ! 違います、これは研究です! 真実を…!」
「真実だと?」
エルンストは、トマスのノートを掴み取った。
「神の聖女を、『病』だと? 神の奇跡と、悪魔の業を、マルタの言う『鉛』や『腐ったパン』と同じ『症状』だと?
「貴様は…!」エルンストは絶叫した。「貴様は、神も悪魔も、すべてを否定する気か!」
トマスの「合理」は、エルンストにとって許容できる一線(マルタへの同情)を完全に超えていた。
これは、信仰への「疑念」ではない。
これは、信仰そのものへの「冒涜」であり「反逆」だった。
「…貴様は、もはや私の弟子ではない」
エルンストは、トマスのノートを掲げた。
「これは、悪魔の理論に魅入られた、最悪の異端の書だ」
「衛兵!」
トマスは捕らえられた。
「師よ! なぜです! なぜ真実を見ようとしないのですか!」
エルンストは、背を向けたまま答えた。
「真実から目を背けているのは、お前だ、トマス。お前は、家族を失った私の苦悩も、神の御業の偉大さも忘れ、人間の『傲慢』という悪魔に、その魂を売り渡したのだ」
拷問は、エルンスト自らの手によって行われた。
彼は泣いていた。愛する弟子の肉体を破壊しながら、その魂を「救済」しようと、必死に祈っていた。
「告白しろ、トマス! 悪魔の言葉であったと! そうすれば、お前の魂だけは…!」
だが、トマスは、もはやエルンストの「神」を見てはいなかった。
彼は、マルタの「知」を見ていた。
トマスは、最後まで「悪魔との契約」を自白しなかった。
彼は、砕かれた指で、牢の石壁に一つの単語を書き続けようとした。
『L…E…A…D…(鉛)』
彼は火刑に処された。マルタと同じ場所で。
彼の「研究ノート」とマルタの「帳面」は、証拠物件として焼却されることになった。
その任に当たったのは、あの看守アントンだった。
アントンは、トマスが捕らえられてから、彼の身の回りの世話をしていた。
アントンには、時折「聖なる病」の発作を起こす娘がいた。彼は、娘が悪魔に憑かれていると信じ、鞭打つことで悪魔を祓おうとしていた。
牢の中のトマスは、死の直前、アントンに言った。
「…アントン。娘さんを、叩いてはならない。それは病だ。発作が起きたら、火から遠ざけ、柔らかい布を頭の下に敷いてやれ。それは呪いではない。彼女は、何も悪くないのだから…」
アントンは、トマスを「悪魔に魅入られた哀れな男」と侮蔑しながらも、その言葉に従ってみた。
発作が起きた娘は、トマスの言う通りにすると、ただ静かに眠りについた。
アントンは、焼却場へ向かう途中、トマスの遺品である二冊のノートを、その汚れた手で握りしめた。
彼は文字が読めない。
だが、このノートが、自分の娘を救ってくれた「何か」であることだけは分かった。
彼は、薪の中に、別の古い台帳を投げ入れた。
そして、マルタの「帳面」とトマスの「研究ノート」を、自らのぼろ着の下に隠し、足早に牢獄を後にした。
知のバトンは、今や二重の厚みを持って、再び闇の中へと隠された。
(続く)




