第二話:帳面(ちょうめん)
マルタは、村の冷たい納屋に投げ込まれていた。
扉の外では、嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、村人たちの怒りが松明の炎のように揺らめいている。
「魔女め!」「アンナを返せ!」
昨夜まで彼女の手を「神の手」と崇めていた者たちが、今やその手を「悪魔の手」と断罪していた。
夫ハンスの狂気に満ちた告発は、村人たちが抱えていた「説明のつかない死」への恐怖に、完璧な「出口」を与えてしまった。アンナの死産と、その後の産褥熱による死。そして、赤ん坊に浮かび上がった「青い痣」。
三つの不可解な「死」が、マルタという一点に集約され、彼女の「聡明さ」と「高すぎる成功率」こそが、悪魔と取引した何よりの証拠とされた。
私刑が始まるのは、時間の問題だった。
納屋の扉が開き、松明の光と共に数人の男が入ってくる。ハンスだ。その目は憎悪と狂気に濁っていた。
「マルタ…」ハンスは、手に持った農具(熊手)を震わせた。「アンナに…詫びろ」
「待て!」
その時、男たちを押し分けるようにして、一人の若者が飛び込んできた。
修道士トマスだった。
「ハンスさん、正気ですか!」「皆さん、お鎮まりください!」
トマスは、マルタの前に両手を広げて立ちはだかった。
「神は、我々に私的な裁きを許されてはいない! もし彼女が魔女であるならば、それは教会法に基づき、神の代理人によって裁かれねばならない!」
「どけ、トマス! そいつは魔女だ! お前も惑わされているのか!」
「だからこそです!」トマスは叫んだ。「だからこそ、正式な裁きが必要なのです! 私が、都市の修道院から、師であるグレゴール様をお呼びします。彼こそは、悪魔を見抜く目を持つ、高潔な異端審問官です!」
トマスの必死の説得は、マルタを救うための、彼なりの時間稼ぎのつもりだった。
彼はマルタが悪魔などではないと心の底で信じていた。高名なグレゴール様ならば、きっとマルタの無実を、その合理的な「知」を理解してくれるはずだ、と。
ハンスと村人たちは、トマスのその言葉に、かろうじて理性を繋ぎ止めた。
「…審問官様が、来られるのか」
「そうだ。それまで、マルタには指一本触れてはならない。これは、神の命令だ」
男たちは、熊手を下ろした。
マルタは、納屋の藁の上で、トマスの背中を見つめていた。
(…ああ、トマス。あんたは、一番、呼んではいけないものを呼んじまったよ…)
マルタは、自らの「知」が、教会の「正義」とは決して相容れないことを、本能で理解していた。私刑という「熱狂」は、トマスの介入によって避けられた。だがその代償として、彼女は、より冷徹で、より体系化された「狂気」のレールの上に乗せられてしまった。
三日後、師グレゴールは、二人の屈強な助手を連れて村に到着した。
グレゴールは、かつて家族をペストで失い、それを「神の沈黙」ではなく「悪魔の介在」と確信した男だった。彼にとって、悪魔は比喩ではなく実在する敵であり、それを狩り出すことこそが、神から与えられた「神学的正義」のすべてだった。
彼は、ケルンの高名な神学者インスティトールが執筆中であるという『魔女に与える鉄槌』の噂を耳にし、それを心待ちにしている、熱心な「現場の信奉者」でもあった。
「尋問」は、村の小さな教会で行われた。
グレゴールは、マルタの前に座った。その目は、フリードリヒのような政治的な冷徹さでも、マシューのような金銭的な欲望でもなく、ただひたすらに「魂の救済」を信じる、純粋な炎に燃えていた。
「マルタ。お前を悪魔の支配から救うために来た」グレゴールの声は静かだった。
「…私は、悪魔なんぞに会ったことはありません」
「嘘をつくでない。ハンスの妻アンナを殺し、その赤子に『徴』を刻んだのは、お前の仕業であろう」
「あれは!」マルタは、最後の理性を振り絞って訴えた。「あれは呪いではない! 『鉛』です! 私が薬草をすり潰すのに使っていた、あの鉛の鉢が…!」
「鉛、だと?」グレゴールは眉をひそめた。
「そうです。あの鉢を使い始めてから、死産が増えた。赤ん坊に『青い痣』が出始めた。あの鉢から溶け出した毒が、水か薬に混じり、母親の腹の中で赤子を蝕んだのです。アンナの死は産褥熱。あれは…私にも分からない。だが、悪魔の仕業ではない!」
マルタの合理的な説明。それこそが、グレゴールが最も警戒する「悪魔の詭弁」だった。
「…哀れな」
グレゴールは、深くため息をつき、十字を切った。
「悪魔はかくも巧妙か。神の御業である『病』を、ただの『鉛』のせいにするか。神の摂理である『死』を、お前ごときの『技術』で覆せると、本気で信じているのか」
「私は…!」
「それこそが!」グレゴールは声を荒げた。「神の領域を侵そうとする、人間の『傲慢』そのもの! それこそが、悪魔が最も好む『罪』の姿なのだ!」
「違います!」
その時、戸口で尋問記録を取っていたトマスが、思わず叫んだ。
「師よ! マルタの言う通り、古代ローマの書物にも、鉛の管が水を甘くし、人を病にすると…!」
「黙れ、トマス!」グレゴールが、弟子を睨みつけた。「貴様も、この女の『合理』という名の毒に惑わされたか! 悪魔は、そのようにして神の奇跡を『自然の原因』と偽り、我々の信仰を試すのだ!」
尋問は終わった。マルタの「合理性」は、彼女を断罪する最大の「証拠」となった。
マルタの処刑は、三日後の日曜日と決まった。
処刑前夜。
トマスは、師の目を盗み、マルタが拘束されている納屋へ、震える足で向かった。彼は、信仰と、マルタへの尊敬の間で引き裂かれていた。
「マルタ…」
牢の格子越しに、トマスは泣き崩れた。
「なぜ、告白しないのです。師も言っておられた。今からでも、悪魔との契約を告白し、悔い改めれば、あなたの魂だけは、神が救ってくださると…!」
マルタは、藁の上からゆっくりと顔を上げた。拷問こそなかったものの(グレゴールは『自白』よりも『論破』を優先した)、その顔は絶望ではなく、不思議なほどの静けさに満ちていた。
「…トマス。あんたは、本当に賢い子だ。だから、あんたには分かるはずだ」
「何がです…」
「私が『告白』したら、何が起きる?」
「あなたは…救われます」
「違うよ」マルタは、弱々しく首を振った。「私が『告白』すれば、アンナを殺したのは『悪魔』ということになる。そして、あの『青い痣』も『呪い』ということになる。そうだろ?」
「…それは…」
「そうなれば」とマルタは続けた。「あの『鉛の鉢』は、これからも使われ続ける。そして、この村で生まれてくる赤ん坊は、これからもずっと、『青い痣』を浮かべて死に続けるんだよ」
トマスは、息を呑んだ。
マルタは、自らの「魂の救済」よりも、未来の赤ん坊の「命」を選ぼうとしていた。
「マルタ…あなたという人は…」
「トマス。私の小屋の、あの石壁の、三段目の右から五番目の石。それを取ってくれ。裏が、緩んでる」
トマスは、衛兵の目を盗んでマルタの小屋へ走り、言われた通りの石を動かした。
その裏には、油紙に包まれた、一冊の小さな「帳面」が隠されていた。
それは、マルタがトマスに文字の基礎を習い始めてから、この数年間、拙い文字と、薬草や赤ん坊のスケッチで書きためていた、彼女の「石の記録」の集大成だった。
トマスは、帳面を手に納屋へ戻った。
マルタは、格子越しにそれを受け取ると、愛おしそうに撫でた。
「私は、文字がろくに読めない。だから、これが何と書いてあるのか、本当には分からない」
マルタは、その帳面をトマスの手に押し返した。
「だが、あんたなら読める。そして、分かるはずだ」
「マルタ、これは…!」
「私の『手』だ。私が何十年もかけて見て、触って、確かめてきた、全部だ」
「持って行きな。そして、生き延びな」
トマスは、その帳面の重みに、指が焼けるのを感じた。これは、マルタの命そのものだ。
「…必ず」トマスは、涙をこらえ、その帳面を自らの修道服の奥深く、聖書よりも大切なものとしてしまい込んだ。
翌朝、マルタは火刑台へと引かれていった。
村人たちが、もはや憎悪ではなく、恐怖に満ちた目で見つめている。
師グレゴールが、彼女の魂を救済するための最後の祈りを捧げている。
その炎の中で、マルタは、群衆の中に立ち、帳面を握りしめ、自らの師グレゴールを疑いの目で見つめ始めた、たった一人の弟子、トマスの姿を、確かに見届けた。
マルタの「知」は、灰となった。
だが、「鉛の毒」という具体的な謎と、「記録し、疑う」という理性のバトンは、二冊目の聖書として、修道士トマスの手に、確かに渡されたのだった。
(続く)




