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第十三話:遺産

挿絵(By みてみん)

エルンストが「異端者」として火刑台の灰となってから、数十年。

世界は、すぐには変わらなかった。

ルーカスが放った百の火種(『魔女裁判の虚構』)と、エルンストの衝撃的な「告白」は、確かにヨーロッパの知識階級の水面下で波紋を広げていた。だが、地上では未だ「狂気」のほうが優勢だった。

特に、ドイツ(神聖ローマ帝国)を三十年戦争(1618-1648)という本物の地獄が引き裂くと、人々の理性は再び麻痺した。ペスト、飢饉、傭兵による略奪。フリードリヒが恐れた「パニック」が、国中で目を覚ました。

そして、「獣」は、常にはけ口(=生贄)を求める。

【フリードリヒの遺産:『秩序』の崩壊】

1631年、マクデブルク。

三十年戦争のさなか、プロテスタントの牙城であったこの都市は、カトリック皇帝軍の凄惨な略奪(マクデブルクの劫掠)に晒されていた。

廃墟と化した市庁舎の地下室で、一人の老人が息絶えようとしていた。

かつてアウクスブルクで冷徹な「秩序」を支配した、元裁判官フリードリヒだった。

彼は、エルンストの「反乱」の後、自らの「社会的正義」をより強固に信じ、法と権力による秩序の維持に後半生を捧げてきた。

だが今、彼の目の前にあるのは、秩序の完全な崩壊だった。

彼が幼少期に見た「農民一揆」など、ままごとに過ぎなかった。本物の「獣」――戦争という名の大義名分を得た、制御不能な暴力――が、すべてを喰い尽くしていた。

「…法、だと…?」

フリードリヒは、血痰を吐きながら自嘲した。

「…秩序、だと…?」

彼が一生をかけて築き上げた「システム」は、この巨大な狂気の前で、何の意味もなさなかった。

彼が「秩序」のために火刑台に送った、あの老婆ウルズラや、何百人もの「魔女」たち。その犠牲は、この結末を防ぐために、何の役にも立たなかった。

彼は、自分が「獣」を抑え込もうとして、自らが最も効率的な「獣」になっていただけだったことに、死の寸前に気づいた。

「…クラウス…」

彼は、幼き日に見た、熊手で刺し殺された老執事の名を呟いた。

フリードリヒは、誰に看取られることもなく、自らが守ろうとした「秩序」の瓦礫の下で、冷たくなっていった。

【マシューの遺産:『金脈』の枯渇】

1650年、イングランド。

“魔女狩り将軍”マシューも、また老人となっていた。

だが、彼の「ビジネス」は、ここ数年、すっかり立ち行かなくなっていた。

三十年戦争が終わり、人々は「悪魔」よりも「現実の政治(国王と議会)」に目を向け始めていた。

そして何より、ルーカスが放った「火種」が、世代を超えて知識人たちの「常識」を変えつつあった。

「いいか、諸君!」

マシューは、とある田舎町の酒場で、かつてと同じように芝居がかった口上を述べていた。

「この町の凶作は、悪魔の仕業だ! だが、この俺様が、その魔女を見つけ出してやる!」

彼は、インスティトールの『鉄槌』のボロボロの英訳本を掲げた。

だが、集まった農民たちの反応は、かつての熱狂とは違っていた。

「…ほう。それで、どうやって見つけるんだね?」

声を上げたのは、町の治安判事だった。オックスフォードで法律を学んだ、若い男だ。

「決まっている!」マシューは叫んだ。「『魔女のしるし』を探すのだ! 奴らの体には、悪魔が触れた、痛みを感じない場所が必ずある!」

治安判事は、冷ややかに言った。

「その『徴』とやらが、ただの古い傷跡や、ほくろではないと、どう証明するのかね?」

「なっ…」

「それに、我が国のコモン・ローでは、拷問による自白は証拠として認められん。ましてや、あんたが使うという『水審(※)』など、ただの殺人に過ぎん」

(※水に浮かべば魔女、沈めば無罪だが溺死する、という神判)

「貴様…! 悪魔の理論に惑わされているな!」マシューは、最後の切り札を使った。

「『悪魔の理論』?」治安判事は、一冊の小さな本を取り出した。「私が読んだのは、これだがね」

それは、アムステルダムで秘密裏に増刷された、ルーカスの『魔女裁判の虚構』だった。

「その本にはこうある」と治安判事は続けた。「『恐怖は最高の商材だ』と。あんたの仕事は、悪魔祓いじゃない。詐欺だ」

マシューは、青ざめた。

「追い出せ!」治安判事が命じた。「二度とこの町に現れたら、詐欺師として鞭打ちの上、投獄する!」

マシューは、かつて自分が「英雄」として讃えられた群衆に、今や「詐欺師」として石を投げられながら、町を追われた。

彼の「利己的正義」は、時代の変化という、彼には理解不能な「不景気」によって、完全に破産した。

【ルーカスとエレオノーラの遺産:『手』から『手』へ】

1645年、アムステルダム。

自由と、何よりも「印刷」の都。

その裏路地で、ルーカスは、小さな印刷所を営んでいた。

彼は、アウクスブルクから逃亡した後、その生涯を「紙」に捧げてきた。

彼は、もう自らの「本」を刷ることはなかった。その代わり、彼は禁書とされたヴェサリウスの解剖学書、ガリレオの地動説に関する論文、そして、あのライデンの若き哲学者デカルトの『方法序説』の海賊版を、命懸けで印刷し、ヨーロッパ中に流し続けた。

彼こそが、「知のバトン」を次に渡す、最も重要な「中継人ランナー」となっていた。

その日、ルーカスの元に、南フランスのマルセイユから、一通の手紙が届いた。

差出人は、施療院の修道女からだった。

『…ドクトル・エレオノーラは、昨日、主の御許に召されました。

彼女は、ケルンでの裁きの後、フリードリヒの指名手配を逃れ、各地を転々としながら、その『手』を決して止めませんでした。

最後は、この港町で発生したペストの治療にあたり、自らも感染しました。

彼女は、最期まで患者の手を握り、『恐れるな。これは呪いではない。ただの病だ』と言い続けておられました。

彼女の遺言に従い、彼女が最も大切にしていた『お守り』を、アムステルダムの印刷工、ルーカス様にお送りします…』

手紙と共に、小さな包みが入っていた。

ルーカスが震える手でそれを開くと、中には、羊皮紙の粗末な切れ端が数枚入っていた。

それは、百年の時を経て、インクが滲み、カビ臭くなった、あの**産婆マルタの「帳面」**の原本だった。

(エルンストが、処刑される前に、エレオノーラに密かに渡していたのだ)

ルーカスは、その羊皮紙を顔に押し当て、声を殺して泣いた。

マルタの「観察」。トマスの「論理」。クノの「現実」。エルンストの「贖罪」。そして、エレオノーラの「実践」。

そのすべてが、今、この手の中にある。

「…師よ」

ルーカスは、若い徒弟を呼んだ。

「これを。私が死んだら、これを、お前が持っている『虚構』の初版本に挟み込め」

「これは…?」

「我らの『聖書』だ」

ルーカスは、咳き込みながら(印刷工の職業病である鉛中毒が、彼の肺を蝕んでいた)、徒弟の手に、マルタの帳面を握らせた。

「いいか。読むな。祈るな。ただ、刷り続けろ。真実を、紙に乗せて、世界中に撒き散らし続けろ。それだけが、我々の戦いだ」

【エピローグ:最後の火刑(1782年、スイス)】

ルーカスも、フリードリヒも、マシューも、この世を去ってから、さらに百年以上が過ぎた。

インスティトールの『鉄槌』は、もはや大学の書庫で埃をかぶる「歴史的奇書」となっていた。

1782年、スイス、グラールス州。

ヨーロッパで「最後」とされる魔女裁判が行われようとしていた。

被告は、アンナ・ゲルディ。雇い主の家の子供に「呪いをかけた(針を飲ませた)」と告発された。

これは、もはや宗教的な裁判ではなかった。中世の私刑のように、地域の権力者が、都合の悪い女を「魔女」のレッテルを貼って排除しようとした、最後の断末魔だった。

法廷で、一人の若い弁護士が、必死に弁論を行っていた。

「裁判長! この裁判は、啓蒙の時代にあるまじき愚行である! 拷問による自白に証拠能力はなく、また、呪いなるものの存在自体が証明されていない!」

彼の弁論は、三百年前、マルタが叫んだ「あれは鉛だ!」という言葉と、本質的に何も変わらなかった。

だが、その弁護士の手には、マルタの「石」ではなく、分厚い「法典」が握られていた。

彼の論理は、トマスの「研究」ではなく、ヴォルテールやルソーの「啓蒙思想」に裏打ちされていた。

彼の戦術は、ルーカスが夢見た「適法手続き(デュー・プロセス・オブ・ロー)」そのものだった。

結果として、アンナ・ゲルディは処刑された。古い「狂気」は、最後の最後で、理性に勝利した。

だが、この「不当な処刑」は、印刷術(新聞)によって、瞬く間にヨーロッパ中の知識階級に知れ渡った。

「時代遅れだ!」「野蛮だ!」

激しい非難が、グラールス州に殺到した。

この処刑を強行した裁判官たちは、フリードリヒのように「秩序を守った」と讃えられるどころか、「啓蒙の時代の汚点」として、歴史にその不名誉な名を刻まれることとなった。

これが、本当の「最後の魔女裁判」となった。

「狂気」のシステムは、ルーカスが放った「紙」によって、その正当性を完全に失い、ついに機能不全に陥った。

マルタが川辺で拾った、あの小さな「石(知)」。

それは、トマスの「ペン」となり、クノの「金」となり、ルーカスの「紙」となり、エレオノーラの「手」となり、エルンストの「鏡」となった。

そして今、それは、名前もなき無数の人々によって受け継がれ、我々が生きる現代の「法」と「理性」という、当たり前の「遺産」となっていた。

(完)



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