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第十二話:残響

挿絵(By みてみん)

法廷は、沸騰した鍋のように混乱していた。

「審問官様が異端者だと!」

「あの女医は無罪だそうだ!」

「神よ、我らをお救いください…!」

そのカオスの中心で、二人の人間が静止していた。

一人は、今や「被告」となったエルンスト。彼は、自らを拘束する衛兵の手を、まるで待ち望んでいたかのように受け入れていた。

もう一人は、「無罪」とされたドクトル・エレオノーラ。彼女は、目の前で起きた「奇跡(あるいは論理的帰結)」に、まだ呆然と立ち尽くしていた。

エルンストは、衛兵に引き立てられ、地下牢へ向かう通路で、エレオノーラとすれ違った。

言葉は交わされなかった。

ただ、エルンストは、かつて自分がトマスに向けたことのない、深い贖罪しょくざいと尊敬の念を込めた一瞥いちべつを彼女に向けた。

(…頼む。その『手』を、止めるな)

エレオノーラは、その視線を受け止め、静かに、深くうなずいた。

エルンストは、彼がトマスを処刑した、あの暗く冷たい地下牢の一番奥に入れられた。

扉が閉まり、完全な闇が訪れる。

彼は、鎖の重みを感じながら、冷たい石の床に座り込んだ。

彼は、かつて家族をペストで失い、その「不条理(悪魔)」と戦うために、インスティトールの『鉄槌』を手に取った。

彼は、弟子トマスの「合理(真実)」を、自らの「正義」を守るために握り潰した。

そして今日、彼は、エレオノーラの「技術(知)」と、ルーカスの「本(虚構の暴露)」によって、自らが憎んでいた「悪魔」とは、真実から目を背けた自分自身であったことを、公に認めた。

彼は、異端者として、自らが育てた「システム」によって裁かれ、火刑に処されるだろう。

だが、エルンストの心は、不思議なほどに静かだった。

数十年間、彼を苛み続けてきた「なぜ神は沈黙するのか」という問い。その答え。

(…神は、沈黙などしていなかった)

(神は、マルタの『観察』として、トマスの『論理』として、そしてエレオノーラの『手』として、ずっと語り続けていた)

(ただ、私が、耳を塞いでいただけだった)

エルンストは、薄暗い牢の中で、数十ぶりに、安らかな眠りに落ちた。

一方、法廷から解放されたエレオノーラは、混乱する群衆を抜け、自らの施療院へと戻った。

助手たちは、彼女が二度と戻らないものと思い、恐怖に怯えていた。

「先生! ご無事だったのですか!」

「だが、審問官様が捕らえられたと…! 町は、あなた様を『審問官を惑わせた大魔女』だと噂しています! すぐに逃げなければ!」

エレオノーラは、法廷でエルンストが落としていった、あの焼け焦げた禁書――ルーカスの『魔女裁判の虚構』――を、作業台に置いた。

そして、戸口に殺到する、助けを求める疫病患者たちを見た。

「逃げて、どうなる」

彼女は、助手たちに背を向けたまま、井戸水で手を洗い始めた。まだ一般的ではなかった「洗浄」という行為。

「私たちがここで逃げれば、エルンスト様の『告白』は、ただの狂人の戯言たわごとになる」

彼女は、メスを煮沸するため、火にかけた鍋に放り込んだ。

「だが、私たちがここで一人でも多くの命を救えば、彼の『言葉』は『真実』になる」

彼女は、血と膿に汚れたリネンを手に取り、最も苦しんでいる患者の元へ向かった。

「仕事に戻る。私たちには、やるべきことがある」

彼女の「手」は、もはや一人の医者のものではなかった。マルタの「観察」、トマスの「論理」、ルーカスの「告発」、そしてエルンストの「贖罪」。そのすべてを背負う「知のバトン」そのものとして、再び動き始めた。

【数ヶ月後。二つの「狂気」の反応】

ケルンでの「審問官の反逆」のニュースは、ルーカスの本と同様、印刷術によって瞬く間にヨーロッパ全土に伝わった。

アウクスブルクにて。裁判官フリードリヒ。

彼は、その報告書を読み、激怒した。

「愚か者めが!」

彼は、書斎でワイングラスを壁に叩きつけた。

「あの感傷的な馬鹿エルンストが、すべてを台無しにしおった!」

彼が怒っているのは、エルンストが「間違っていた」からではない。エルンストが、自らの「秩序」を、個人の「良心」ごときもののために放棄し、社会を「パニック(獣)」に叩き込んだからだ。

「こうなれば、より強固な『法』で縛るしかない」

フリードリヒは、新たな法令の起草を始めた。

『魔女裁判の虚構』を「国家転覆扇動の書」として正式に指定し、所持するだけでなく、「読むこと」すら禁ずる、と。

そして、ドクトル・エレオノーラを、「魔女」としてではなく、「社会秩序を著しく乱した危険人物」として、帝国の名の下に改めて指名手配した。

彼の「社会的正義」は、より強固に、より冷徹に、そのシステムを維持しようと適応した。

ドイツ某所にて。“魔女狩り将軍”マシュー。

彼は、酒場でその噂を聞き、腹を抱えて笑った。

「傑作だ! 審問官様が、自分たちこそ悪魔だったとよ!」

周りの客たちが、恐怖に顔を引きつらせている。

「おい、聞いたか。教会そのものが、悪魔に汚染されちまったらしいぜ」

マシューは、これが千載一遇の「商機(金脈)」であると瞬時に理解した。

彼は立ち上がり、酒場のテーブルの上に乗った。

「諸君、恐怖することはない! 教会が腐ったのなら、誰が君たちを守る? 弱い領主か? 腐った審問官か?」

彼は、胸を叩いた。

「この俺だ! 誰にも雇われない、独立した『専門家プロ』! 本物の悪魔を見抜き、本物の魔女だけを狩る、この“魔女狩り将軍”マシュー様だけだ!」

人々の目が、新たな「救世主」を見る目に変わっていく。

「ただし」とマシューは笑った。「専門家の技術は、安くはないぜ?」

彼の「利己的正義」は、時代のカオスを栄養に、さらに大きく膨れ上がった。

【そして、数十年後。17世紀、ライデン(オランダ)】

狂気の炎は、まだ消えてはいない。フリードリヒとマシューの「正義」は、今なおヨーロッパのどこかで、無実の人間を焼き続けている。

だが、確実に、何かが変わった。

北の自由都市、ライデンの大学。

その片隅の学生寮で、一人の若き哲学者が、一冊の古びた本を閉じた。

それは、ルーカスがアウクスブルクで刷った『魔女裁判の虚構』の、海賊版の、さらにそのオランダ語訳だった。

彼は、マルタの「観察」に震え、トマスの「論理」に頷き、そしてエルンストの「葛藤」に、自らの信仰を揺さぶられた。

彼は窓の外の、合理的に設計された運河の街並みを見た。

(悪魔とは何か)

(神とは何か)

(そして、私が「確かに知っている」と言えるものは、何か)

彼は、ペンを取った。

そして、新しい時代の扉を開く、最初の一文を、自らの研究ノートに書き記した。

『我思う、故に我あり(Cogito, Ergo Sum)』

マルタが川辺で拾った、あの小さな「石(記録)」。

それは、トマスの「ペン」となり、クノの「金」となり、ルーカスの「紙」となり、エレオノーラの「手」となり、エルンストの「鏡」となった。

そして今、それは「理性」そのものとして、新しい時代のいしずえとなった。

知のバトンは、無数の犠牲の果てに、確かに未来へと渡されたのだった。

【完】




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