第十一話:手
1540年、ケルン。
異端審問所の法廷は、疫病の恐怖で満ちていた。
人々はマスク越しに咳き込み、互いに距離を取り、この都市を蝕む「目に見えない悪意」の正体を求めて集まっていた。彼らが求めているのは「真実」ではない。「生贄」だ。
被告席に、その女は静かに立っていた。
ドクトル・エレオノーラ。
彼女は、都市の施療院で働く女医だった。この時代、大学(医学部)が女性の入学を認めることはなく、彼女の知識がどこで得られたものかは謎だった。
だが、彼女の「手」は、この数ヶ月で、高名な大学教授(内科医)が見捨てた患者を何十人も救っていた。
黒死病そのものは治せずとも、彼女は高熱の患者の体を酒精で冷やし、膿が溜まった腫瘍(リンパ節)を、焼いたメスで躊躇なく切開し、排膿させた。
その「外科的処置」は、神の領域を侵す「冒涜」と見なされた。
そして、彼女が「救う者」と「救えない者」を選別する姿(※)が、「悪魔との契約だ」と告発されたのだった。
(※実際には、近代医学のトリアージ=治療優先度の選別に近い合理的な判断だった)
裁判長席に座る男の名は、エルンスト。
彼は、かつて家族をペストで失い、悪魔を憎むことで自らの信仰を保ってきた、高位の審問官。
しかし今、彼の内面は崩壊していた。
法衣の奥深く、聖書と並べて隠し持った一冊の禁書――ルーカスが著した『魔女裁判の虚構』――が、火傷のように彼の胸を焦がしていた。
(トマス…)
彼は、目の前の女医エレオノーラの、理知的な瞳の中に、かつて自らが「異端」として処刑した愛弟子、トマスの面影を見ていた。
「被告エレオノーラ」エルンストは、努めて冷静に、尋問を開始した。
「お前は、神の摂理に反し、死すべき運命にあった者を、不当に現世に引き戻した。その『奇跡』の力は、どこから得たものか。神か、悪魔か」
法廷が息を呑んだ。
エレオノーラは、エルンストを真っ直ぐに見据え、答えた。その声は、広場の熱狂とは無縁の、冷たい水のようだった。
「私は、奇跡など使っておりません。審問官様」
「ほう。では、あの者たちはなぜ助かった」
「『技術』です」
「技術だと?」
「はい」エレオノーラは、自らの両手を掲げてみせた。「この『手』と、メスと、煮沸したリネンと、薬草の知識です」
「お前は、あの男の腫れ上がった体を切り裂いた。それは神が与えたもうた肉体を毀損する、悪魔の所業ではないか?」
「神が与えたもうた肉体が『病』に蝕まれている時」とエレオノーラは即座に返した。「その『病』を取り除くことこそ、神の御心にかなうと信じます。私は、ヴェサリウス師(※)がブリュッセルで示されたように、神の最高傑作である人体の『構造』に従い、それを『修復』しているに過ぎません」
(※アンドレアス・ヴェサリウス。この数年後、1543年に解剖学書『ファブリカ』を出版する)
法廷がざわめいた。ヴェサリウスの名は、教会の権威に逆らって死体を切り刻む「冒涜者」として、インスティトールの理論を信奉する者たちには知れ渡っていた。
エルンストは、目眩を覚えた。
(…トマス…! お前が研究していたのは、これだったのか!)
トマスのノートにあった「病理学」。マルタの帳面にあった「観察」。それらが今、目の前の女医の中で、一つの「医学」という体系として完成している。
「…黙れ、魔女め!」
傍らの若い審問官(エルンストの新しい弟子)が、インスティトールの『鉄槌』を叩きつけて叫んだ!
「この聖なる書によれば、女が医術を行うこと自体、異端の兆候なり! お前は、神の罰である疫病を妨げ、悪魔の治癒によって人々を惑わしている!」
「惑わしている、と?」
エレオノーラは、初めてその若い審問官を見た。その目は、憐れみに満ちていた。
「では、お尋ねします。この都市で疫病が始まって三ヶ月。あなた方は、広場で祈祷を捧げ、聖者の遺骨を行進させ、そして『魔女』を告発した。その結果、疫病は鎮まりましたか?」
「なっ…」
「鎮まるどころか、火葬場の煙は一日も絶えたことがない。あなた方の『祈り』は、この疫病という『本物の悪魔』の前で、あまりにも無力だ」
「貴様…!」
「審問官様」と、エレオノーラは再びエルンストに向き直った。「あなた方は『悪魔』を狩ると言う」
彼女の声が、静まり返った法廷に響き渡る。
「だが、疫病という『本物の悪魔』が、赤子も司祭も等しく殺しているこの時、あなた方は祈るだけで、その『悪魔』とは戦おうとしない」
「それどころか」
彼女は、自分を拘束する鎖を、誇るかのように持ち上げた。
「人を救える『技術』を持つ者を恐れ、その手を縛り、見殺しにし、あまつさえ『魔女』として火刑台に送ろうとしている」
エレオノーラは、一歩前に出た。
彼女は、エルンストの瞳の奥にある深い「葛藤」と「罪悪感」を、正確に見抜いていた。
「審問官エルンスト。それこそが、本物の『悪魔の所業』ではないのですか?」
その言葉は、杭となった。
エルンストの脳裏で、二十数年前の記憶が蘇った。
地下牢で、「神よ…お許しください」と呟いて息絶えた、あの拷問された少女の顔。
石壁に『L…E…A…D…(鉛)』と書き遺そうとした、愛弟子トマスの、砕かれた指。
(…ああ…トマス…)
(お前が正しかった…)
(そして、私は…私は、この手で…)
エルンストの「神学的正義」は、今、完全に崩壊した。
彼が長年信じてきた「悪魔」とは、目の前の女医ではなく、インスティトールの書物でもなく、自らの信仰を守るために「真実」から目を背け、弟子を殺した、自分自身だった。
若い審問官が叫んだ。「師よ! 判決を! この女は、自ら悪魔の理論を語りました! 火刑に処すべきです!」
群衆が、それに呼応して叫び始めた。「火刑だ!」「魔女を焼け!」
エルンストは、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、法衣の奥から、一冊の書物を取り出した。
人々は、それが『魔女に与える鉄槌』か、聖書だと思った。
だが、エルンストが掲げたのは、表紙が焼け焦げた、禁書だった。
ルーカスの『魔女裁判の虚構』。
「…静まれ」
エルンストの声は、もはや審問官のものではなかった。一人の、罪を告白する男の声だった。
「この書物にある」と彼は、震える声で読み上げた。
「『拷問とは、被告の口から真実を引き出す道具ではない。拷問官の望む虚構を、被告の肉体に刻み込む道具である』」
法廷が、水を打ったように静まり返った。
若い審問官が、顔面蒼白で叫ぶ。
「師よ!何を! それは禁書です! 異端の…!」
「異端は、どちらだ」
エルンストは、その本を祭壇に叩きつけた。
「私は、長年、悪魔と戦ってきたと信じていた。だが、私はただ『虚構』を追いかけていただけだった」
彼は、エレオノーラに向き直った。
「私は、かつて、お前と同じ『知』を持った男を、この手で火刑台に送った。彼もまた、『病』だと言った。『毒』だと言った。私は、それを『悪魔の詭弁』と断じた」
エルンストは、自らの首から、審問官の権威を示す十字架を外し、判決台に置いた。
「…もう、終わりだ」
彼は、法廷全体に向かって、最後の力を振り絞り、宣告した。
「被告エレオノーラ。彼女は、魔女ではない」
「…彼女は、医者だ」
「よって、本法廷は、彼女の告発をすべて棄却する。彼女を、施療院へ帰し、その『手』を以て、一人でも多くの命を救うことを命ずる」
「おお…!」「そんな…!」「師よ!」
法廷は、熱狂と、怒号と、混乱の渦に包まれた。
若い審問官が、エルンストに掴みかかった。
「狂ったか、エルンスト! あなたこそが悪魔に魅入られた! 異端者め!」
「そうかもしれん」エルンストは、自らを拘束しようとする衛兵に、もはや抵抗しなかった。
「だが」と彼は、混乱の中で呆然と立ち尽くすエレオノーラを見た。
「もし、私が今日ここで異端者として焼かれることで、あの『知のバトン』が、マルタから、トマスへ、そしてルーカスから、この女医へと確かに渡され、未来へ繋がるのならば」
エルンストは、二十数年ぶりに、心の底から安堵のため息をついた。
(トマス…お前の声は、確かに聞こえたぞ)
彼の戦いは、終わった。
そして、マルタが蒔いた「種」が、ついに「狂気」の法廷で、一人の人間の「命」を救い、自らの「正義」を証明した瞬間だった。
(続く)




