表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第十話:鏡

挿絵(By みてみん)


1540年、ケルン。

異端審問官エルンストは、その地位にふさわしい静かな書斎で、一冊の禁書を読んでいた。

彼がこの書物を手に入れたのは、偶然だった。ルター派の印刷業者の家宅捜索で押収された禁制品の山に、それは紛れ込んでいた。

表紙には、著者名がない。

ただ、彼の人生そのものを嘲笑うかのような題名が記されていた。

『魔女裁判の虚構デ・フィクティオーネ・マレフィカルム

エルンストは、この十年間、悪夢にうなされ続けてきた。

その悪夢は、常に同じ光景で終わる。

彼が「魂の救済」のため拷問にかけた、あの名も知らぬ少女。

彼が「異端」として火刑台に送った、愛弟子トマス。

そして、トマスが守ろうとした産婆マルタ。

彼は、別の事件の調査中、トマスが遺した(あるいはマルタから受け継がれた)ものと酷似した「手記」を発見してしまった。

『鉛の毒』『麦角菌(幻覚)』『てんかん』…。

あの日、彼の「神学的正義」は音を立てて崩壊した。

彼は、自分が「救済」したと信じていたあの少女が、ただ「病」に苦しんでいた可能性を知ってしまった。

彼は、自分が「処刑」した愛弟子が、ただ「真実」を語っていた可能性を知ってしまった。

以来、エルンストは「壊れた男」となった。

彼は、師インスティトールの『魔女に与える鉄槌』を信じることをやめた。しかし、神を捨てることも、教会の権威を捨てることもできなかった。

彼は、自らが作り上げた地獄の業火の中で、ただ職務を続けるしかなかった。彼は「正義」を失い、ただ「権威」だけが残った、空虚な審問官となっていた。

そして今、彼は、あの日の「悪夢の原稿」そのものを手にしていた。

ルーカスが出版した、この『魔女裁判の虚構』。

エルンストは、震える手でページをめくった。

第一章:「ある産婆の記録」。『鉛の管。甘い水。青い痣』。

第二章:「ある修道士の告白」。『てんかん=悪魔憑き?』『麦角菌=サバトの幻覚?』。

そして、トマスが命懸けで禁書庫で調べていた、『ジャンヌ・ダルク裁判』の考察まで。

「…ああ…トマス…」

エルンストは、書物の上に崩れ落ちた。

これは、トマスの研究ノートそのものだった。マルタの帳面そのものだった。

あの時、自分が「悪魔の理論」と断じて握り潰した「真実」が、印刷という悪魔的(あるいは神の)技術によって、こうして蘇り、自分の前に「証拠」として突きつけられている。

彼は、第三章(「ある傭兵の覚書」)も読んだ。

魔女裁判が、いかに「政治的都合」や「金儲け」のために利用されているか。(クノやマシュー、フリードリヒの行い)

彼は、自分がいかに「純粋」であったか、そして、それゆえにいかに「愚か」であったかを悟った。

自分は、マシューやフリードリヒのような「利用者」たちに、神の名の下に「大義名分」を与え続ける、最も罪深い「装置」の一部でしかなかった。

彼は、最終章(ルーカスの提言)を読んだ。

『拷問とは、被告の口から真実を引き出す道具ではない。拷問官の望む虚構を、被告の肉体に刻み込む道具である』

エルンストは、自分の両手を見つめた。

かつて家族をペストで失い、悪魔を憎み、神に捧げたこの手。

トマスを「救済」するために、拷問具を握ったこの手。

この手は、虚構を肉体に刻み込んでいただけだったのか。

彼が憎んでいた「悪魔」とは、いったい何だったのか。

それは、目の前の無実の人間(マルタ、トマス)よりも、自らの信じる「正義(理論)」を優先し、他者を断罪してやまない、自分自身の心の姿(=鏡)だった。

「…神よ…お許しください」

彼は、かつて拷問の末に少女が呟いたのと同じ言葉を、数十年ぶりに、心の底から口にしていた。

その時、書斎の扉がノックされた。

「エルンスト様。緊急の案件です」

新しい「魔女」が告発されたという。

告発されたのは、都市の施療院で働く、女医ドクトル・エレオノーラ。

彼女は、印刷術(ルーカスの本)によってヨーロッパに広まりつつあった、新しい医学(ヴェサリウスの解剖学など)の知識を使い、驚異的な治癒率を誇っていた。

だが、疫病が流行する中、彼女が「救う者」と「救えない者」を選別する姿が、「悪魔との契約だ」と告発されたのだ。

エルンストは、立ち上がった。

彼の顔には、もはや「神学的正義」の炎はなかった。

ただ、自らの罪を清算しようとする、殉教者のような静かな覚悟があった。

「分かった。すぐに法廷を開け」

彼は、押収品の山から、ルーカスの『魔女裁判の虚構』を抜き取り、自らの法衣の奥深くに隠した。

そして、棚に並んでいた、彼の信仰の「聖書」であったはずの、師インスティトールの『魔女に与える鉄槌』を、まるで汚物でも見るかのように一瞥いちべつした。

彼は法廷へ向かう。

かつてトマスが命懸けで守ろうとした「知」のバトン。

それが今、ルーカスの「本」となり、そして「エレオノーラ」という生きた人間の姿で、再び彼の前に現れた。

エルンストは、自らの崩壊した「正義」とどう向き合うのか。

彼は明日、法廷に立たねばならない。

彼は、かつてトマスを裁いたように、再び「知」を処刑するのか。

それとも、自らが「異端者」となることを覚悟の上で、自らが築き上げた「虚構」と戦うのか。

彼の、本当の「戦い」が、今、始まろうとしていた。

(続く)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ