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第一話:手のひらの知

挿絵(By みてみん)

マルタは、村の「手」だった。

彼女の分厚く節くれだった手は、このアルザスの山麓の村で、生まれる命を最初に取り上げ、死にゆく者の瞼を最後に閉じてきた。

文字は読めなかった。教会の司祭がラテン語で読み上げる聖句の意味も、都市の学者が議論するという「神学」も、彼女には縁のない世界の話だ。

だが、その手のひらと指先は、羊皮紙に記されたどんな知識よりも多くのことを記憶していた。

どの薬草を煎じれば熱が下がり、どの根を湿布にすれば痛みが和らぎ、そして赤子の肌がどれほど冷えれば死に至るか。

マルタは産婆であり、薬草師であり、そして当時の言葉で言えば「賢いワイズ・ウーマン」だった。彼女の行うことは、神の教えとは別に、村が厳しい自然の中で生き延びるために必要な「知恵」として、何世代にもわたって女性たちの間で受け継がれてきたものだった。

その夜も、マルタの手は「仕事」の最中にあった。

アンナの家だ。夫のハンスが、三日三晩、祈るような顔で家の前をうろついている。難産だった。

「マルタさん…もう…だめだ…」

産褥さんじょくの熱気がこもる小屋で、アンナが汗と涙に濡れた顔で、マルタの腕を掴んだ。

「弱音を吐くな、アンナ!」

マルタの声は、陣痛の悲鳴に負けないほど低く、力強かった。

「あんた一人で産むんじゃない。赤ん坊もあんたの中で戦ってるんだ。あんたが諦めたら、二人とも死ぬよ!」

当時の出産は、命懸けの「神判」にも等しい。赤子が無事に生まれてくるか、あるいは母子ともに神に召されるか。それは人知の及ばぬ領域とされ、悪魔が入り込む隙間だと恐れられていた。

だが、マルタは人知を諦めなかった。

「…来た!」

アンナが、この世のものとは思えぬ最後の絶叫を上げた。

マルタは、その小さな命を、淀みない手つきで受け止めた。

しん、と静まり返る。

産声は上がらなかった。

アンナの絶望的な視線がマルタに突き刺さる。

赤ん坊の肌は、不気味なほど青白く、唇は土気色をしていた。仮死状態だ。

「神よ…」集まった村の女たちが壁際で祈り始める。

「祈るんじゃない!」マルタが雷のような声で怒鳴った。「湯を! それと、井戸から汲んだばかりの冷たい水を桶に!」

マルタは赤ん坊をまず熱い湯に浸け、次に冷水に叩き込むように浸けた。中世において「衛生」という概念はまだ存在しなかったが、マルタは経験から、出産に「清浄な水」と「熱(温度差)」が不可欠であることを知っていた。

赤ん坊の小さな体がビクッと痙攣する。

「もう一度!」

熱、冷。熱、冷。

三度目。冷水に浸けたその瞬間。

「―――フギャアアアアアッ!」

世界を拒絶するかのような、甲高い産声が響き渡った。

「…生まれた」

誰かが呟き、小屋は安堵の涙と笑いに包まれた。

マルタは、赤ん坊の体を素早く乾いたリネンで包み、母親の胸元へ置いた。

「ほらね、アンナ。あんたの子は、ちょっと寝坊なだけさ」

マルタは、この村では驚異的な成功率を誇る産婆だった。しかし彼女は、それを「奇跡」だとは思わなかった。それは「仕事」であり、「技術」であり、そして何より「記録」の結果だった。

彼女の小屋の壁は、何百もの「石の記録」で埋め尽くされていた。

出産を終えるたび、彼女は川辺で平たい石を拾い、そこにススで印を刻む。文字の代わりに、天候、季節、難産の状況、そして「結果」が、彼女だけの象徴で記されていた。

(ヨハンの子、晴れ、難産、足から、無事)

(マリアの子、雨、逆子、母体死亡)

(アンナの子、秋、仮死、冷水法、無事)

それは、この土地における、人間という「自然」の観察日誌だった。

小屋に戻ったマルタは、アンナの夫ハンスが謝礼に持たせてくれた黒パンをかじりながら、新しい石に印を刻んでいた。

ふと、彼女は最近の「石」を見比べ、眉をひそめた。

(ペテロの子、夏、死産、青い痣)

(トマの子、夏、死産、青い痣)

(ルドルフの子、秋、死産、青い痣)

そして、今日かろうじて助かったアンナの子も、最初は「青白かった」。

ここ三ヶ月で、四件連続だ。

それ以前の何十年という彼女の「記録」の中で、こんな異常事態はなかった。

「青い痣」。まるで皮膚の下で、血が汚れて固まったような、不吉な斑点。

村の古い司祭は、「神の御業だ。あるいは、悪魔の誘惑やもしれん」と祈るだけだった。1450年頃のこの村では、まだ「魔女狩り」という言葉すら一般的ではなかったが、説明のつかない厄災は、常に悪魔の仕業と結びつけられた。

だが、マルタは納得できなかった。神も悪魔も、同じやり方を四度も律儀に繰り返すだろうか?

彼女は立ち上がり、小屋の隅にある、薬草をすり潰すための一組の鉢を手に取った。

一つは、彼女の祖母の代から使っている、使い古された石の鉢。

もう一つは、二、三年前に旅の商人から買った、鈍色に輝く「鉛」の鉢だった。重く、滑らかで、薬草を細かくすり潰すのに重宝していた。

(まさかね…)

鉛の鉢が来てから、彼女の薬は「よく効く」と評判になった。それは、鉢から溶け出した微量の鉛が、その甘み(当時は「鉛糖」と呼ばれ甘味料にも使われた)と鎮静作用で、薬草の効果を(見かけ上)高めていたからかもしれない。

そして、その「薬」は、この三ヶ月で死んだ赤ん坊の母親全員に、安産のお守りとして分け与えられていた。

マルタは、その鉛の鉢の重みを手のひらで確かめた。

もし、この便利な「知恵」が、毒だったとしたら?

彼女の聡明な頭脳は、まだ誰も体系化していない「毒性学トキシコロジー」の入り口に、経験則だけで手をかけていた。

そこへ、一人の若者が訪れた。

修道士トマス。この村の出身で、今は都市の修道院で神学を学んでいる。彼は、マルタの合理性に惹かれつつも、それが教会の教義と相反することに、若者らしい葛l藤を抱えていた。

「マルタ、また石を?」

トマスは、壁の石を眺めながら言った。

「ああ。だが、こいつらが最近、悪いことしか教えてくれない」

マルタは、例の「青い痣」の死産について、トマスに意見を求めた。

トマスは難しい顔をした。彼は、マルタの知恵を尊敬していたが、修道院で学んだ「新しい知識」が彼の頭を支配し始めていた。

「マルタ…。あなたの言う『観察』は分かります。ですが、修道院では今、そうした『説明のつかない死』こそ、悪魔が人間の信仰を試すために行う『しるし』だと、盛んに議論されています」

「悪魔ね」マルタは鼻を鳴らした。「あいつが赤ん坊を殺すのに、そんな面倒な『痣』なんざ残すかね。もっと派手にやるだろうさ」

「マルタ!」

トマスは慌てて声を潜めた。

「…今、ケルンの高名な神学者、インスティトール様が、そうした悪魔の『手口』を暴き、体系化する書物を準備されていると聞きます。悪魔は巧妙なのです。我々の目に見えぬよう、こうした『病』や『徴』に紛れて忍び寄るのだと…」

「ふん。偉い学者の先生が、インクの匂いの中で『悪魔の手口』が分かるものかい。現場は、血と糞尿の匂いさ。こっちの石の方が、よほど真実を語ってるよ」

トマスは、それ以上何も言えなかった。マルタの「知」は、あまりにも地に足がつきすぎていて、トマスが学ぶ「天上の知」とは噛み合わなかった。彼は、彼女の聡明さが、いつか彼女自身を危険に晒すのではないかと、漠然と恐れていた。

その恐れは、現実のものとなった。

その夜、嵐が来た。

マルタが最も恐れていた事態が、最悪のタイミングで起きた。

ハンスの家から、半狂乱の使いが来た。

「マルタさん! アンナが! アンナが死んでしまう!」

嵐の中、マルタはアンナの家へ走った。

「マルタさん、遅い!」

夫のハンスが、マルタの肩を掴んだ。酒と恐怖で正気ではない。

「アンナは今朝、あんたが取り上げたばかりだろう! なのに、血が止まらないんだ!」

小屋の中は、血の海だった。

出産を終えたはずのアンナが、高熱にうなされ、シーツを真っ赤に染めていた。

産褥熱さんじょくねつ…!」

マルタは、これが「青い痣」とは別の、しかし同じくらい恐ろしい「死」であると直感した。出産時に、目に見えない「何か」が体に入り込み、母親を内側から腐らせる病。当時は全く原因不明の、最も恐れられた死の一つだった。

マルタは、自分の「石の記録」を思い返した。(マリアの子、雨、逆子、母体死亡)――あの時も、ひどい出血だった。

彼女は、持てる薬草のすべてを使い、必死に止血を試みた。

だが、一度火がついた熱と、流れ出るは止まらない。

夜明け前、アンナは、夫ハンスの手を握ったまま、静かに息を引き取った。

「…なぜだ」

ハンスが、アンナの亡骸なきがらの前で、焦点の定まらない目で呟いた。

「なぜだ、マルタ。あんたは『神の手』じゃなかったのか。あんたは、助けられるんじゃなかったのか…」

「…すまない」マルタは、血に濡れた自分の手を、ただ見つめることしかできなかった。「私にも、分からないことがある」

その時だった。

アンナの横に寝かされていた、三日前に生まれたばかりの赤ん坊が、甲高い声で泣き出した。

ハンスは、まるでその声に引き寄せられるように、赤ん坊の顔を覗き込んだ。

そして、見た。

赤ん坊の頬に、首筋に、あの不吉な「青い痣」が、薄っすらと浮かび上がってきているのを。

マルタがあれほど懸念していた「鉛の毒」が、今、母親を失った赤ん坊の体にも、明確な「徴」として現れ始めていた。

「…あ…」

ハンスの喉から、空気が漏れる音がした。

「あ…あ…ああ…」

彼は、マルタを見た。

マルタの手は、アンナの血で赤く染まっている。

そして、赤ん坊の体には「呪いの痣」が浮かんでいる。

ハンスの頭の中で、恐怖と絶望と、そしてマルタへの絶対的な「信頼」が、最悪の形で結びついた。

「マルタ」

「なんだい、ハンス。今は、泣く時だよ」

「マルタ。あんたが…」

ハンスの目が、理性を失った「獣」の目に変わり始める。

「あんたが、アンナを殺したのか?」

「…何を言ってるんだい」

「あんたが! あんたが、この子の命と引き換えに、アンナの命を奪った! 悪魔の儀式のために!」

狂気が、パニックが、伝染する。

「そうだ!」今まで黙っていた村の女が叫んだ。「アンナは死んだ! でも、この子は助かった(※)! マルタは、いつもそうだ! 難しいお産でも、必ず赤ん坊だけは助けてみせる! まるで…まるで、何かと『取引』でもしてるみたいに!」

(※実際には赤ん坊も危険な状態だが、パニックの中ではそう見えた)

マルタの「聡明さ」と「成功率の高さ」が、今、彼女を告発する最大の「証拠」と化していた。

「違う!」マルタは叫んだ。「これは病だ! 産褥熱だ! 痣は『鉛』のせいだ! あの鉢か、井戸の…!」

だが、もう誰も彼女の「合理的な説明」など聞かなかった。

「鉛だと?」「鉢だと?」「何を言ってるんだこの女は!」

「魔女だ!」

ハンスが、ついにその言葉を叫んだ。

「魔女だ! マルタが、俺のアンナと赤ん坊を呪ったんだ!」

その叫びは、嵐の音を突き破り、村中に響き渡った。

修道院の小部屋で、トマスはその声を窓の側で聞き、恐怖に蒼白になった。

村人たちが、納屋から熊手や松明を持ち出し、マルタの家へと向かい始めた。

1450年当時、まだ裁判制度は未整備で、告発者が罰せられるリスク(タリオン法)もあったが、集団ヒステリー(私刑)の前では、法など無力だった。

彼らは、目の前の「恐怖(=説明のつかない死)」を排除するため、最も手近な「生贄」を求めていた。

マルタは、自分が何十年もかけて積み上げてきた「知」と「信頼」が、たった一つの「死」によって、一瞬で「狂気」に反転する様を、血に濡れた手のひらを見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。

(続く)



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