風の中のリング ――八木美里と花島田勝利の始まり
春の午後、体育館の床がボールの音でリズムを刻んでいた。
「ドン、ドン、ドンッ!」――軽快な反響が天井まで弾む。
1年生の合同練習。
鳳学園バスケ部のコートには、緊張と期待の空気が漂っていた。
美里はその端で、ひとりの男子を目で追っていた。
――花島田勝利。
入部したばかりなのに、すでに「次期エース」って噂になっている。
跳ぶたびに空気が変わるようなジャンプ、そして――。
「シュッ!」
ネットを揺らす美しい音。
それを聞くたびに、美里の心臓も一緒に跳ねた。
(すごい……きれいなフォーム。まっすぐで、強い。)
気づけば、練習の間中ずっと勝利のシュートを見ていた。
パス練習でボールが手に当たっても、反応が遅れるほどに。
「八木、集中しろー!」
先輩の声に「す、すみません!」と慌てて頭を下げた。
顔が熱い。バスケでこんなにドキドキするなんて――。
練習が終わったあと。
みんなが帰った体育館に、美里は一人残っていた。
誰もいないコート。
夕陽が差し込み、リングが金色に輝いている。
(あんなふうに、決めてみたいな……。)
小さくつぶやいてボールを放る。
けれど、シュートは届かずにカランと弾んだ。
「……まだ手首、固いな。」
背後から声がして、美里は飛び上がった。
「は、花島田くん!?」
勝利が汗まみれのTシャツ姿で立っていた。
「ご、ごめん! 練習終わってるのに……」
「別に。俺も残ってた。」
そう言って、軽く笑う。
「八木ってさ、シュート好きだろ。」
「え? あ、うん……見てるのも、打つのも。」
「だよな。おまえ、ずっと俺の打ってるの見てただろ。」
「え、えええ!? 見、見てない! ……ちょっとだけ!」
顔が真っ赤になり、美里はボールで顔を隠した。
勝利は吹き出した。
「別に悪いことじゃねえだろ。
見てくれる人がいると、なんか力出るし。」
彼がボールを拾い、軽く指先で回した。
「手首、こう。肘の角度を――そうそう。」
後ろから手を添えられる。
一瞬、時間が止まったような気がした。
(……近い。心臓、鳴ってるの聞こえちゃう。)
「もう一回、打ってみろ。」
「う、うん……!」
放ったボールは、今度はきれいにリングを通った。
「やった……!」
勝利がニッと笑う。
「ほらな。ちゃんと入るじゃん。」
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(ああ、この人の隣で――もっとバスケしたい。)
***
数日後。
美里は勇気を出して保健室の扉をノックした。
「どうぞ〜、って言う前にもう顔が“恋の相談”ね。」
出迎えたのは今沢緑先生。
相変わらずコーヒーの香りを漂わせて、
机の上にはチョコの包み紙が山になっている。
「ど、どうして分かるんですか!」
「分かるわよ。恋する生徒の顔、何人見てきたと思ってるの?」
今沢は微笑みながら、湯気の立つカップを差し出した。
「で、相手は……バスケ部の花島田君、でしょ?」
「!?」
図星に、思わずカップを持つ手が震えた。
「ねぇ美里さん。あなた、彼のシュートをずっと見てたでしょう。」
「……はい。」
「だったら、それで十分よ。」
「え?」
「好きって言葉より、目が先に動くの。
“見たい”って気持ちは、もう恋なのよ。」
美里はうつむいたまま、そっと呟いた。
「でも……私なんかじゃ、釣り合わない気がして。」
今沢はカップを置いて、美里の頭を軽くなでた。
「じゃあ、動いて確かめてみなさい。
見てるだけじゃ、風は吹かないわ。」
***
夏の大会、最終クォーター。
勝利の放ったシュートが、リングに弾かれた。
惜しくもチームは敗退。会場の歓声が遠ざかる。
試合後、体育館の裏で美里は彼を見つけた。
「……お疲れさま。」
「ありがと。負けたけど、やりきったよ。」
勝利は笑った。少しだけ、寂しそうに。
「俺、試合中、見えてたんだ。スタンドで、おまえが。」
「えっ……!」
「ちゃんと届いてたよ。おまえの“見てくれてる目”。
だから最後まで打てた。」
美里の目が潤んだ。
言葉が出ないまま、ただ微笑む。
「ねぇ花島田くん。」
「ん?」
「これからも、ずっと見てていい?」
勝利は一瞬だけ驚いた顔をして、
すぐに優しい笑顔を返した。
「じゃあ、俺もずっと見てるよ。
コートでも、外でも。」
夕焼けの風が二人の間を抜けていった。
金色のリングが、空の向こうで静かに光っていた。
***
――そして今、美里は思う。
あのときの「見てるだけの恋」が、
いまの自分を動かしているのだと。
救いたい誰かのために動けるのは、
きっと、あの“風の中のリング”を見上げた日から。




