16 ――選ばれし者――
爽やかな風は全身に纏わり付く不快感を払拭するように肌を撫でた。冷たすぎず、だが温くは無いその風は優しく、青年から少年へと姿が戻るローラン・ハーヴェストの意識を覚醒へと促した。
全くの無音から、芝がそよぐ様な微かな音が耳に届いた。完全なる暗闇から瞼越しに淡く見える光は、彼から闇を奪い去っていた。世界は、まるで元から平和だったかのように、穏やか過ぎた。そんな雰囲気が、寝転がり目も開かぬ状態でも感じ取る事が出来た。
やがて、頬に草が突付いた。それを感じた途端に、草原の中にいるかのような青臭さが鼻に付いた。
それが目覚めのきっかけとなった。脳が醒め、肉体が起きる。彼はそれから胸いっぱいに空気を吸い込むと、ゆっくりと上半身を起し上げた。
その時、ふと違和感を得た。どうにも体が起こしにくいのだ。動くはずの腕が、一本足りないような気がした。
「はは、やっぱりここに居た」
だがそれを深くまで気にする余裕も無く、その聞きなれた声は背後から響いて、彼の、ローラン・ハーヴェストの心を掴んでいた。しかし、もうその声は、言葉は、二度と聞こえないものだと腹を括っていた物であったのだ。
だから、その予想外も甚だしい声の主の登場に、ロランは慌てて振り向こうとすると、ソレよりも早く、”彼”は隣に腰を降ろしていた。
小高い丘の上。風にそよぐ短い芝は日の光を反射させて、まるで光の帯が揺れているかのように見えていた。太陽は暖かく彼らを包み、世界は信じられないほど穏やかであった。
ロランは右腕の喪失や、この場所が何処であるのか等の疑問を全て後回しにする。あるいは、少年がその視界に入った瞬間に、その考えが全て消え去ってしまったのかも知れない。だがソレと同時に、今までの少年への心配は、失せていた。
彼らはまるで、二日の連休を経て再び学園で顔を合わしたかの様な気軽さで、簡単な挨拶から会話を始めていた。
「勝ったのか?」
まず始めに聞きたかったのは、結果報告だった。ロランは彼の心情も気にせず聞いた事をその直後に気付いて、身勝手な言葉を紡いだ口を気まずそうにつぐむ。だが少年は、ロランが生涯の中で唯一親友と認めた彼は、やや曇り気味な表情で、頷いた。
その表情は、恐らくそんな台詞によって不快と感じた故ではなく、勝利が完全なモノだと確信できていない為だった。ソレ故の、申し訳なさそうであるもどこか確信を持って誇りに思う顔だった。だがそれを見て、その頷きを、首肯を見て、空気の流れで、気配の動きで感じて、ロランは確信する。
この男――如月双樹は魔王を討ち取ったのだ、と。
「心臓は停止めた。だけどそれで完全に決着が付くのなら苦労はしないよ。下手に魔力を触れさせれば蘇るかもしれない。そんな可能性が常に付いて回るんだ。だから純粋な人間による純粋な力によってトドメを刺さなきゃなんだけど――ま、後は全部君に任せた」
「そりゃ難儀なこった……だが、お前と一緒に俺がここに居るって意味、分かってるよな。勿論……?」
これほどまで穏やかで何も無い世界は、彼らが今までに居た世界にあるはずが無い。そう、そこは別世界だった。異世界や天界魔界などと言う場所ではなく、死に、天国に最も近い場所という所が近いのだろう。正確には誰にもわからぬその場所は、彼ら二人の肉体状況が重なっているが故に、大まかな事が理解できた。
しかし、如月双樹は首を振る。横に揺れるその頭は、ロランの問いに対する否定を意味していた。
「なんにしろ時間が無いから端的に目的だけを達成させてもらうけどさ」
重い腰を上げるかのように気怠く息を吐くと、その音が囁くように耳に届くと、如月双樹は既にローラン・ハーヴェストの右隣に移動していた。
次いで、流れるように少年は肘の先からが無いロランの右腕の、その肘を右手で掴むと、驚いたように眼を張る彼へと、優しく微笑んだ。
「どうか、僕が居たと言う事だけは覚えていてくれ」
如月の右腕が輝き始める。その光は、瞬きはほんの僅かな時間で世界の色を褪せさせた。少年とロランの右腕が光で繋がり、やがてロランが失せていたはずの感覚を思い出す。それと同時に、彼の意識は薄れ始め――。
「ショウ、”またな”……」
――果たしてこんな台詞を、彼が聞く最後の言葉にして良いのだろうか。ロランの胸中に一抹の不安と後悔が残る。
それを聞いて、如月双樹は途端に震えだす腕を押さえ、歯の根の合わぬその口内をしっかりと力強く噛み締めながら、そうだなと、頷いた。
「あぁ。”またな”、だ。ロラン」
――そうか。未来と言うのは、まだ考えてみも無かった。次の瞬間も安心して生きていられる満足感は、この国に来てから失われていた。だから正直、この男の、恐らく分かっていて尚告げるこの言葉に、若干救われた気がした。まだ次があるかもしれない。そんな希望が、生まれた気がした。
如月双樹は、無と帰すその直前に心が光に満ちたのを感じた。
ローラン・ハーヴェストは生き残る。その肉体が生きているからだ。腕は受け継ぎ、勇者を語る逸材と化す。
だが如月双樹の肉体は、身体を奪う魔王対策として、そしてさらに対魔王戦での結果として、その時、肉体がその状態となるまで生きていたことが嘘なのだろうと感じてしまうほど、肉塊より肉塊らしい死体となっていた。
だから恐らく、多分、大方、相当の可能性で、今更ながらに来世に賭けたとしても、この瞬間から意識が消失するその次の瞬間まで輪廻転生の訓えを信じ、故に救われこの身に転生が許されようとも、ローラン・ハーヴェストと再会する事は無いだろう。
仏の心はそう容易く人間の信心に堕ちはせず、神はそう簡単に人の行いを許したりはしない。その為に、彼は祈る時間が残された僅か一瞬の内に、彼が居た世界を”憂う”事だけをしていた。
そして意識は、光に飲み込まれて――。
ロランの瞳は暗がりの中に見開かれた。
景色は薄明るく、空気は煙っぽく、そこから見上げる月の輪郭は余りにも正確すぎた。
刻は深淵なる夜を示し、世界は絶対なる静寂を保つ。僅かに血の匂いが鼻を掠めるそこで、彼は漸く自身を覗き込んでいる黒い影を捉える事が出来た。
人の気配だ。そう感じたときには既に、長い髪が顔に掛からんとばかりに垂れている事を認識した。
「気がついたのね」
彼女はそう優しく、囁くように呟いた。返答を待つかのような呼びかけに、ロランは思わず口を閉じたまま、言い淀む。それに彼女――アータン=フォングは、それまでの無力さを責められているものだと感じて、悲しそうに目を細めた。
しかし、あの世界での闘いにはとても入り込めたものではないし、その余地も無かった。仕方が無いと言うわけではないが、何も犬死に、否、ただ無邪気に如月双樹の邪魔をする意味はなく、そこにはリスクしか存在しない事を見極めていたのだと。そう口にしようとする彼女は、目を疑った。
何気なく負った血痕。彼を満たす、既に冷え切った血溜まり。その源流は、彼の失われた右腕の切断面だった筈。しかし血に濡れる右腕は確かにそこに存在しており、そして顔を起こし見る彼の腕が落ちた場所には、在るべき筈のソレが存在していなかった。
詰まる所、魔王に引きちぎられた右腕は、引きちぎられたという事象を虚構に塗り替えその腕にしっかりと立派なまでに生やしていたのだ。
しかし、実際に腕は引き裂かれ失われた。事象は虚構などではなく、投げ捨てられた腕がロランの元で再生、結合したのだと考えるのが至極論理的である。最も、苦しいものではあるのだが。
――ローラン・ハーヴェストは、家系こそ恵まれ文武に長け才能を持ち合わせようとも、その血は純然たる人間のものである。だから、千切れた腕が再生する、結合するなんてことは当然ありえない。そしてつい先ほどまでは、実際に喪失なわれていたのだ。
ならば一体……。そう考えるフォングを他所に、ロランは全てを思い出し、慌てて起き上がった。
血が音を立てる。ボロ布のような服がずっしりと重くなり、彼は途端に眩暈を起こした。血液不足であると即座に理解したが、この本来存在するはずの無い右腕が有るお陰で、失血死は免れた。それはまるで――そう、それはまるで”奇跡”のようだった。
「起きたか、ローラン・ハーヴェスト」
満身創痍で彼を迎えるのは、とある帝国の王たる男、レイド・アローンだった。彼は半ば魔力切れで戦線離脱したはずだったが、無駄足となろうとも邪魔になろうとも、再戦の選択を貫きこの場に立っていた。しかし結局出来たのは、如月双樹の命を数分長引かせた事だけだろう。
だがその結果として、長引い命の後、如月双樹は命を燃やし、能力を最終段階まで強制的に引き上げ、自身が理想とする電撃を生み出し、魔王を倒した。
その傍らに居るシャロンは逃げようとする魔王を足止めした。彼女の行動は、そのお陰で如月双樹の命が尽きるその直前で魔王の心臓を止める時間を与えてくれた。
「まぁ、な」
しかしそれに比べ自分は……。二○時間に上る戦闘の中で出来たのは、大口をたたく事だけではないだろうか。なぜ自分なんかが生きていられるのだろうか。否、こんな自分だからこそ、生きていられたのだろう。
ロランは自己嫌悪を自己完結させ、どこか呆けた顔でレイドへ向いた。彼は続けて、その奥、玄関ホールへと続く闇に目を凝らした。
「……レイミは?」
「向こうだ」
気配も、姿も見えぬその名の主を尋ねると、ロランは顎で彼女の居る方向を指し示した。彼女はボロボロになった時に如月双樹から上着を借りていたのだから、と考えて予想していると、その通り、レイミは彼が目を細めて見る闇の中にいるらしかった。
そこにレイミが居る。魔王が居る。そして如月双樹が、
「そこに、居るのか」
ローラン・ハーヴェストは気を失ってからこの世界の情報を取り入れていない。だから、予想は付いているものの、その事実は全く知らないのだ。だから彼が見るその闇の中には、二つの可能性が存在している。
如月双樹が生きている世界と、死んでいる世界だ。さらに魔王の生死も考えれば、世界はまるで木の枝の如く無数に広がっている。だがそこまで考えるのは余りにも鬱々しくなってしまうからと、ロランは苦い表情で、月明かりで顔を照らすレイドを見た。
「少なくとも生きている魔力は一人分しか感じられない。それは貴様も知る、一人のモノだ」
つい先ほどレイミが向かった。そして生きているのは一人だけ……。それを聞いて、彼が思い描く理想は脆くも崩れ去り汚れた靴底で踏みにじられた。不意に目力が強くなり、表情は怒りに歪む。レイドはそんな彼の素直な感情を見て目を伏せ、玄関ホールへの道を開けた。
ロランはそれに頷き、促されるように開いた道を歩く。瓦礫だらけのまともな足場のない道は、全身運動を要し、体力の回復が十分でないロランは直ぐに呼吸を乱す。そして高鳴る心臓は、力強い血流を生み出すたびに――右腕に激痛を与えた。
まるで別の心臓でもあるかのように、右腕は血の流れに逆らっているらしかった。そして更に言えば、右腕が生えている感覚はあるが、神経の繋がりは希薄である。指先が辛うじて曲がる程度の感覚は、まだ身体に順応していないからであろう。
やがて足音を高鳴らせながら、扉を破壊されただの穴と化す出入り口から、玄関ホールへと脱出する彼は、足を止めた。その歩みを停止させ、跪き、うな垂れる一つの影を捉えていた。
微かに鼻をすする音がする。酷く湿った、喘ぐような嗚咽も混じっていた。。
より濃厚になる血の香りは、甘く、どこか酸っぱく、鼻に突き刺さる。吐き気すら催すほどの中で、彼女は戦闘時が嘘のように女性らしい華奢な体躯でそこに座り込んでいた。
戦闘の影響か、締め切られていた分厚いカーテンはすべて焼失し、封じられていた窓から漏れる月明かりが室内を映し出す。ロランはその光景を見ながら、再び歩み始めた。が、それはそう長く続かず、レイミの背後で動きは停止まった。
「…………」
ロランは弱々しい彼女の背に、何か言葉を掛けてやろうとした。だが、今の状況において何を口にすれば良いのかわからなかった。何が正解で、何が彼女を立ち直らせられるのか、理解できないし想像が半ば不可能だった。
――魔王の肉体は、胸に大きな穴が空き、だが血が流れずに倒れている。その身体は大部分を黒く焦げさせ、まるであぶり焼きでもされたかのような後だった。だが見るに、その死因は全身の酷い火傷によるものではないらしいことは理解できた。
なぜならば、体の前側が焼き尽くされているのにも関わらず、その肉体は跪いているからである。
そしてその傍らに居る如月双樹は――その肉体を包み隠すように、上着を被せられていた。しかし彼から一体に、血の池は出来上がっていた。それが、姿を隠そうとも彼がどんな状態で居るのか想像できる要因だった。
「泣いたって結果は変わんねーよ」
それがロランの思うところの本心だった。
だがそれは、無論のこと、当たり前のように反感を買う。声に反応して振り返り、言葉を理解し睨みつけるレイミのその表情が、いい例だった。
しかし。
彼はそれを見ながら、思う。
――あの精神世界らしき場所で、如月双樹は言っていた。『トドメを刺すのは人間だ』、と。だがこれを見る限りでは、トドメなど刺すまでもないではないか。既に如月はトドメを刺し魔王を殺害せしめた。全てはそれで一件落着し、事後処理を行うばかりなのではないか――と。
だから最早、この右腕は本来の用途を失われる、宝の持ち腐れとなるのではないだろうか。虎の子であるべきこの右腕は、結局出し惜しみすらする機会が無い故に、この肉体と共に滅びてゆくのではないだろうか。
ならば、右腕は如月双樹が命がある間に起こした奇跡で、自分が見たのはただの幻想。自分が最期まで如月双樹に慕われたと思っていたいという、その願いが生み出したただの理想なのではないか――と。
「貴方は何故平気で居られるの? 貴方は彼と、仲が良かったんじゃあなかったの?」
負へと落ち込む思考は、彼女の縋るような声に遮られる。そして理解する台詞に、ロランは間髪置かずに頷いた。
「あぁ、こいつは親友だった」
「だったら!」
鬼の剣幕で竜の少女は咆えた。声が衝撃波のように肌を叩き、思わずたじろぐ迫力がそこにはあった。だが、言葉を遮りロランが返す。感情の赴くまま、言葉を吐き続けた。
「ショウは”またな”と言った。だから俺は信じた。また会えるというのに、どこに悲しむ必要がある? ――お前はこれを聞いて戯言だと言うだろう。この死体を見て蘇る可能性など皆無だと叫ぶだろう。だがな、だがな……っ!」
魔力が、感情の臨界点を超えて膨張する。体内の、枯れ果てたはずの魔力は胸の奥底から湧き上がり、そして途端に身体を満たす。だがそれだけに留まらず、彼の潜在能力は周囲を包むほど大量な魔力を、爆発的に生み出していた。
「何故平気で居られるだと? 俺はとても、自分が正気だとは思えないッ!」
声は震え、そして語尾が強くなると魔力がはじけ、室内にその波動を打たせた。
近くで何かの気配が、指先を弾ませたのを感じた。
――魔王だ。いけない。これ以上魔力を広げてはいけない。この行為は折角奪い去り枯渇させた魔力を与えているのだ。これでは、彼の命を無駄にさせてしまう。今すぐに冷静にならなければならない。口をつぐみ、命を絶つ勢いで魔力を消さなければダメなのだ。
肉体は半ば死んでいた。恐らく仮死状態なのだろう。そして魔力さえあれば、”こいつ”ある程度動ける。魔王が封印された時と、恐らく今が同じ状況。だから魔王は経験を生かして狡猾に、そして素早く次いでレイミか自分の肉体を奪いにかかるのだろう。だから――。
「俺がまともだったら、こんな冷静で居られるはずが――ないんだッ!」
魔力がどこかで収束して行く。そして新たな魔力の発生源が現れた。
動く気配がある。”ソレ”はまずは指を折り、筋肉に力を込め、そして呼吸を始める。閉じていた目が開き光を取り入れる。耳は声を聞き言葉を理解する。脳は回転し、その状況を理解し始めた。そして、その口の端が吊り上がるのを、ロランはその目で見ていた。
「ク――クハハッ! ゆ、ユかイな演ゼつ、ゴ苦労ダな……」
喉が潰れているらしく、正確な発音は出来ていない。そして声は弱弱しく、まだ力を、声を発するのがようやくといった所らしかった。
そうか――だから、トドメを刺せ、という事なのか。
そしてローラン・ハーヴェストは理解する。
如月双樹が、自分を悲しんでくれる親友の行動までを予想していたことを。そして、今この状況に到るまでの自分の浅はかさを。魔王のしぶとさを。それと対峙していた如月双樹の偉大さを。気がつくと流れていた、その涙を。
レイミは驚き立ち上がる。涙でぐしゃぐしゃになる顔を拭き、歪む視界を鮮明にしようと顔を擦るも、流れる涙は留まるところを知らないかのように溢れて来る。ロランはそんな彼女を右手で制止背後へと送ると、天井から紐で釣られているかの如くぎこちない動作で立ち上がる魔王へと、立ち向かった。
「キサマは私の命をヨミがえラせた。キサマの仲間の命を踏みニジッタのダ」
「だからどうした。ソレがなんだ? 言っただろう、お前は俺が倒すって、なぁッ!」
しつこい命に悪態をつきたかった。そのしぶとさを憎みたかった。自分への侮辱を訂正したかった。仲間の命が無駄になったという事実を否定したかった。
だがその時間は許されない。
如月双樹がその最期の時間に世界を憂いた分、ローラン・ハーヴェストは彼の心配を払拭させねばならぬ。その役目を、託された。彼の右腕がそれを証明していた。
だから彼は駆け出した。右腕は、気がつくと拳を握り、一筋の電撃を迸らせていた。
肉体は空気を切り裂き魔王へと肉薄する。前屈気味に走り出し、魔王はそれへと手を向ける。
許される攻撃のタイミングは一度きり。二度目は存在せず、魔王もそれを理解していた。だからこそ、魔王は敢えて受けの体勢を取り、ミスを、隙を、狡猾に狙っているのだ。
やがて距離は縮まり、魔王の掌が視界を覆いつくさんとする。その中で、全身全霊を以って――左腕を振り薙いだ。
左腕に触れる魔王の右手は、そのまま流れるように上へ弾かれ、咄嗟に退こうとする魔王の行動を予測したかのように、掴まれていた。そして脇に挟まれ、引っ張られ、その距離はゼロになる。
次いで穿つ右の拳は、静電気を帯びる。魔王が残る左腕でそれを弾こうと試みるが、その速度はなく、時間が足りず、機会は得られない。彼が持つ能力を使用する隙、余力すら、そこには無かった。
――やがて拳はその顔面を穿ち貫く。まるで音速の如き速さで魔王の顔を叩き、顔をゆがめた。頭蓋は砕け、大きな眼窩と化す。ただの素手が、彼が持つ手甲よりも硬く魔王を攻めるが、その命はまだ存続されていた。が……。
再び電撃がばちりと弾ける。その瞬間――魔王の開いた胸部の穴が、俄かに光り、停滞していた電撃は拳へと解放された。体内で、脳から心臓へ、その点が電撃によって直線へと繋がった。如月双樹が最後に魔王を止めた電撃と、ローラン・ハーヴェストが受け継いだ電撃とが、交じり合い、魔王から断末魔さえも奪い去る。
そして拳はそのままの勢いで顔面を殴り抜け、魔王の身体は彼なりの精一杯の力で床へと叩きつけられた。そこで漸く鳴る爆音は、建物内のどこかを再び崩落させ、凄まじい衝撃を起こしていた。
――床に衝突し終える魔王の姿は、既に見る陰もなく。頭部は粉々に砕け、頭を破裂させられたかのように頭頂に穴を空け、脳髄と血を垂れ流していた。そして体内で焼けた肉が想像を絶する悪臭を放ち――。
「右腕の釣りだ。とっとけよ……っと」
全身全霊を尽くしたロランは、そこでぷつりと、意識を途絶えさせた。
それは同時に、人類に完全なる平和が訪れた瞬間だった。




