14 ――決意――
「ハハハハッ! まるでマスゲームだなッ!」
出入り口が解放されてから、空間内の時が停止した。青年の目の前に居る魔王を見て動きを硬直させた候補生一行はただ立ち尽くし、魔王の背後にて魔力を集中し、その頭を吹き飛ばそうと試みていたレイドは既に目の前の彼から隙が失せていたのを見極めた。
だからその、瓦礫が新たな床となる部屋の中で動けるものは、魔王を除いて誰一人として存在していなかった。動いたその瞬間、命を削り取られそうな気がして、指先すらも震えることを忘れていた。
そしてさらに――まるで最初からここまでを読んでいたかのように嗤う魔王に、彼らの心は鷲掴まれた。だが、それこそが魔王の思惑であることに、彼らの大半が気付けない。だが少なくとも、それを知る者は居るのだ。それは、彼が唯一聡いと認めた、目の前の青年。
だから魔王は、弱りきり、口元の血を拭う事すらも忘れた如月双樹と眼が合うと、引き吊り上げた口の端を下げ、その顔から表情を、感情を振り落とした。
彼の瞳は、そんな弱々しい様子とは裏腹に、強く燻っていた。その威圧を持つ眼は、つい先ほどの、奇跡を駆使していた頃と寸分変わらぬものだった。
――少年は、最初魔力の手助けによって奇跡を起こしていた。だが今は、命と魔力、その二つを代償としなければ、魔王に対抗できる最低限の力を持つ奇跡を起こせない。それゆえに、今の彼は既に死に体だった。が、それが彼の心を空白に封じ込めた。
肉体は、これ以上攻められては完全に機能を停止し、しかし指一本触れなくとも自然に死に絶える。最早極限を通り越し、後戻りが出来ぬ位置に、彼は誰も知らぬ内に到達していた。しかし――。
彼の、如月双樹の頭の中で、唯一つの台詞が蘇る。
――奇跡の発動条件は、自分を極限状態に置く事。
青年は、今正に条件を満たしていた。
そして奇跡は既に、彼の手中に納まっていて――。
停止していた時を再び刻ませ始めたのは、如月双樹の右腕が、金色の輝きに飲み込まれた事がきっかけだった。
青年の右腕が輝いた。ただそれだけならば、また何か不意を付くような事を緻密な計算の上に実行し始めたのだろうと、誰もが思うだろう。思考を停止させる候補生ですら、俄かにそれを察する事が出来る。だが、魔王は思わず絶句していた。隙を作ることが、今の体力からは大きな危険を招く事になることは承知していても、思わずその右腕に、否、その輝きに眼を奪われていた。
金色の光はバチバチと電撃を迸らせていた。
「うっ……あああぁぁぁっ!」
そしてそれは、青年の意思とは別に彼の右腕を蝕み、焼き尽くし、飲み込み、奪い去ってゆく。腕の深くにまで浸透する電撃は、感じる痛みを右腕だけに留めず肉体の芯を突付くように激痛を与えていた。
――奇跡が世界的に有名にならなかったのは、魔王を倒したのが純然たる力だったからである。だから、青年はつい先ほど、自身が完全なる奇跡が扱えるかもしれないという状況で、強く願ったのだ。
絶対的な、何にも劣らぬ力が欲しい、と。
そして奇跡は力を生み出した。彼の中で迸る熱意よりも灼熱のような温度を持つ、電撃を。彼がその眼で見てきた中で一番強かった男が持つ、その電撃を。
だというのに、電撃は彼に力ではなく痛みを与えた。魔王を打ち倒せと心の中で叫ぼうとも、電気は肉体を焼き尽くさんと右腕に留まるばかりで、喉の奥から言葉を紡ごうと試みようも、苦しみに耐え切れぬ彼は叫ぶ事しか出来なかった。
「ショウッ!」
そこで、ようやく動けたのは、ようやく気がついたのが、ローラン・ハーヴェストだった。
彼はそう名前を呼ぶと同時に、青年と対峙する魔王に対して、大きく拳を振りかぶった。が、腕は瞬く間に魔王の眼前を素通りし、容易に掴まれてしまった――が、もう片方の腕は、次の瞬間、狡からく、魔王の横腹に喰らい付いた。
鈍い音が、衝撃となって大気に響く。魔王は突き刺さる痛みに表情を歪めながら、腕を掴まぬ空いた腕を振り上げた、その瞬間。経過を無視し、攻撃の結果だけを与える能力を利用して、ロランの顔面に、殴られたという事実のみを与えて自分から引き剥がした。
次いで出来た余裕の中で僅かに集中すると、彼は全てを弾く、斥力のような能力で周囲の人間全てを――壁に到達するまで、吹き飛ばした。
だというのに――その中で飛来する黒い影が、右腕の上腕を貫いた。通常ならば攻撃が不可であろう衝撃の最中に、候補生の中の誰かが、直ぐに魔力となって消え去る弾丸のような何かで魔王に傷を与えていた。
壁まで吹き飛ばされた一行は、皆が皆、プールの中で反転するかのように壁に足を付き、そして壁を蹴って宙を飛来する。ただ走るよりも早く駆ける彼らは一様に、魔王へと肉薄した。
魔王は背後、そして左側からの複数を気配で、魔力で全て捉える。いくら体力が低下し疲労を蓄積していようとも、油断さえしていなければ、苦戦はするだろうとしても負けはありえない。彼は最低限としてそう考えた。
だから、その余裕もあって心は決して揺らがず、接近する全てに対して冷静に対処し始めた。
まず始めに一番最初に近づいた竜の腕を持つ少女の鉤爪を防ぐために、掌の下、その手首を裏拳で叩き、動きを止める。その直後に肉体を反転させて見るその少女の顔は――微笑みに満ち満ちていた。不穏をそのまま表情に宿したような顔を見て戸惑いを見せる魔王だが、その時点では既に動きを止められるはずが無かった。
だから、強く握った拳は迷う事無く彼女の腹部に突き刺して――衝撃は一瞬にして彼女を貫き、その薄い唇は大きく開かれ、喉の奥からは鮮血が噴出。
だがそれは長く続かず、レイミはそのまま吹き飛ばされてしまう。そして血に濡れる顔は、硫酸でもかけられたかのように灼熱の如き熱を覚え、その部分を焼き尽くされた。魔王はソレで漸く、火竜の血は燃えているという事を思い出し――。
余裕はほんの数秒の間に、大いなる隙に取って変えられた。
だから、次いで現れる漆黒の竜が、腹部に喰らいつき肉体を空中に打ち上げられても、直ぐに対処は出来なかった。故に、その追撃が訪れるまでの間、仕方なく痛みに堪えながら、冷静さを取り戻す時間として有効活用しようと、考えた。
だがその時間は十分に取れるはずも無く、床から吹き上がる無数の風の刃が、身を刻んだ。そして流れるように、次は背後から、そして前、右、左……やがて全方位からの刃は、彼の全身に深い切り傷を作り、風の刃ゆえに防ぐ手段が”面倒”だと考える彼は為されるがままにした。
鮮血が大気に舞い、ソレさえも切り刻まれ血の霧が出来上がる。魔王は最低限の、命に関わる可能性がある場所だけを守るように、腕を胸に回し脇に挟み込み、もう片方の腕で、頭を掴むようにした。そうすることによって、傷はあれどダメージ自体は然程のものとはならなかった。
「これで、最期だッ!」
元気な声は憎しみと怒りとに満ちた台詞を紡ぐ。魔王は背に受けてから、短い息を吐いて、地上から飛び上がる影に向き直った。
「やはり”この程度”か……。良い所までは付いてこれるが、決定的な部分には欠ける」
「舐め――ッ!」
言葉と熱意と勢いと殺気は、彼の身体能力と比例する事は無く、空中に打ち上げられ、自分に対して向きなる魔王へと放った拳は、いとも簡単にその脇を通過し、力強く締め付けられる。骨はみしりと悲鳴を上げた。
「私を侮るなよ、人間」
その台詞の直後、ロランは大きく目を見開く。彼の腕を締め付ける筋肉が一層力が込められるのを感じた、その瞬間。ぼきんと、鈍い音が響いた。ロランの腕は本来曲がらぬ向きへ可動し、ロランは声にならぬ叫びを上げた。
それから彼らはまるで運命共同体の如く地上に向かい落ち始め、魔王はその最中でも執拗に、へし折れた腕を掴み、修復不能になることを求めるように動かしまわした。その度に、ロランは声を殺して歯を食いしばり――。
魔王が床に着地する。ロランはまるで彼の荷物のように叩き付けられ派手な音を鳴らし――その中で、魔王は足を付いた衝撃を利用し、腕を肘辺りから引き裂いた。
骨が、既に折られた箇所を粉々に砕けていたお陰か、それは容易に成功し、引き抜かれた腕のぎこちない断面から大量の血液を排出する。だというのに、ロランの叫びは、一切聞こえてこなかった。
「気を失ったか」
そのお陰、とも言うべきか。意識が失われていたほうが良い。それが、今の状況を見る限り最善だった。だからレイドは、眉間にこれ以上寄らぬくらいに皺をつくりつつも、怒りを吐息に変換して吐き出した。
魔王は彼を、引き裂いた腕ごと壁際に放り、そうして再び、如月青年を正面に捉えた。
遠くでべちゃりと、音が響く。その後に、ばちりと青年の腕から大きく電気が迸った。彼の口からはもう、悲鳴は失せていた。
魔王の背後にある、中庭へと繋がる大きな穴は、既に陽光を取り込むことをやめていた。室内は、そんな光無き闇に浮かぶ月の、淡い輝きに薄っすらと照らされ始めるものの、それよりも強い電撃の光が、力強く周囲を闇の中から浮かび上がらせた。
「ふふ、貴方はどれほど、僕の事を気に入ってくれたのですか?」
右腕を、その部屋の光源にする如月青年は、そうに、漸く、口を開いた。全てを冷徹に見守っていた彼の態度は、先ほどとは、今までとは、異様なほど、異なっていた。
それまで手に取るように理解できていたその心情は、彼を目の当たりにしてみると、まるで分厚い壁に阻まれているかのように、分からなかった。それだけで、如月青年がこの僅か数分間でおよそ想像に難い事を経験したのだと、知れた。それだけが、唯一知覚できる事だった。
「だけど――奇跡はいつでも味方で居るとは限らない。そう、ハイドさんがここまで計算したのだろうと仮定しても、それだけが、誤算です」
「奇跡が味方で居るとは限らない? 何を言っている。奇跡は貴様の力だろう? 貴様の力が、貴様自身を裏切る術は無かろうが」
腕が腕の意思で腕の主の首を絞めることが無い様に。彼の奇跡が、魔王の言うとおり裏切るはずは無い。そう、それは事実として”裏切る”事は無い。
なら、もとより味方でなかったならば。無理矢理、力いっぱい引っ張り出して共闘を敷いていたのだとしたら。
彼は腕に電撃が宿った瞬間、昔言われた言葉の真意を理解した。
奇跡がいつでも味方でいるとは限らない。それは、発動条件を満たしても肉体に宿るとは限らないという話ではなく――宿る確立が極端に低い上に、その奇跡が、思い通りに扱えるとは限らないというものであった。
奇跡が肉体にそぐわぬほど強力な場合、それは暴力となって主を傷つけ、痛めつける。そもそも奇跡を扱う才能に欠けていた彼にとって、そんな溢れる力が肉体を痛めつける力は、致命的なほど大きくなっていた。
――最初、魔力を消耗して扱う奇跡は、自分が構造、素材、その全てを理解できるものだけを創造できる。命と魔力を削って創り出す段階では、彼がその目で見てきた無機物を。そして今の段階では、彼の記憶の中に存在するものであれば、無条件で……という具合で、彼は自分の意思で勇者の電撃を自分に宿した。
しかし、いくら記憶の中にあるものとは言っても、電撃と言う抽象的なモノでは、いくらなんでも完璧に再現する事は出来ない。だから、それを手伝ってくれたのは――ハイドが魔王の”影”と共に自爆したその瞬間に放った、魔王と対峙する仲間全てに与える走馬灯だった。それが、彼が生まれて死ぬまでに見て感じたその全てを、彼らに植え付けた。だから、如月双樹の右腕には、電撃が生まれる事が出来たのだ。が……。
肉体が、その強大すぎる力に間に合わなかった。それは、天から降り注いでいるのかと思うくらい巨大な滝を、お猪口で受け止めようとするくらい、無謀で、絶望的で、そして扱う事が不可能なモノであった。
だから誤算だと、彼は言った。
次いで本心を、青年は云った。
電撃に包まれる腕には最早感覚が無く、だがその手で拳を作りながら、
「だけど、僕にとっては初めて得た強大な力だ」
「試してみたいか」
「あぁ。是非」
迷い無く、彼は深く頷いた。
恨みも怒りも憎悪も悲しみも、そんな感情は一切無く。その電撃からハイドの意思が伝染したかのように、彼は自分の力を試したいと心の底から思っていた。恐らくは、この手合わせで命が尽きるだろうと予感はしていても、そうせずにはいられなかった。
そして、それを知るからか、どちらにせよ青年の命が短いと悟るからか。他の者は口を挟まず、遠巻きに彼らを見守った。
――それが、彼らの運命を大きく変えると言う事も、知らずに。




