12 ――交差――
淀んだ油の臭いが鼻を突く。重くも鋭い衝撃は、貫通するように体内だけを傷つけ、彼の意識を一瞬よりも短い時間の間、奪い去った。
「がっ!?」
素早く、重い。黒い影はおよそ想像だにしない質量と速度を持って、腹部に突き刺さった。だが、それをそんな攻撃が完了すると同時に理解する事は不可能に近かった。だから、何が起こったのか、理解できなかった。
ぬめりと、その表面は薄く油を塗ったかのように滑り、また感触は、瞬間的には水を力強く叩いたかのような固さを誇り、爪を立て持続的に力を込めれば指先は容易に”ソレ”へと飲み込ませることが出来る。
それは土だった。更に言えば、粘土であった。彼が必死に踏ん張り受け止めるソレはただの粘土ではなく、層を抜き出しぶつけているかのような巨大さを持っていた。が、魔王にとって、巨大さや速度、その重さや瞬間的な衝撃、圧迫等は問題にならない。
それが何なのか、自分にとって相性が良いのか悪いのか、必要な情報さえ手に入れられれば、力技で弾くだけ。全ては、障害にすらならなかった。
「無駄よッ!」
粘土層に飲み込ませていた指を引き抜き、そしてすかさず同じ場所に叩き込む。無論手は拳を作り、瞬間的な衝撃によって完全に硬化する性質を利用する。そして甲高く、肌を叩くような音が短く響き――もう片方の腕も、間を置かずに同じ行動を繰り返させた。
――その間に、レイミはアータン・フォングを担いで部屋の外へと駆け出した。青年、如月双樹はその後に続き、それを確認してからローラン・ハーヴェストは空間内に入り込むシャロンの手を引いて、彼らの後を追った。全ては魔王から視界を奪い、時間を稼ぐ為の行動だと、彼らは理解していた。
その攻撃を執行している一人を除いては。
巨大な粘土の塊を作り出し、ぶつける。魔王は拳の連打によってそれを押し返し、跳ね返される粘土は天井を圧迫し、ヒビを入れる。耐え切れぬソレは所々を崩壊させ、室内は瓦礫の豪雨に見舞われた。故に、如月双樹が行動を起こした最初を見た後、彼の姿を認識したものは居ない。
「――くだらない! 下らない! 百済ない! 貴様は、この程度で私を倒せると思っていたのか!」
結局――その粘土の塊は半分以上を室内に吹き飛ばし、身体に纏わり付かせ、もう半分を崩壊した天井の代わりとさせた。魔王の攻撃が止んだ途端に、青年の作り出した粘土が彼を苦しめる重量を失ったと同時に、魔王が咆えた。が、言葉はそれ以上続かない。
「粘土の鎧はお気に召さなかったようだ」
ならば、と。彼は正面の、大きく口を開ける壁の穴付近に立つ魔王へと、口を開いた。如月双樹は、瓦礫によって封じ込められた出入り口を背にして、間髪置かずに”奇跡”を紡ぐ。
次の瞬間、魔王の口からは大量の水が溢れ出していた。
ただ静かに、何処からとも無く沸いた水は瞬く間に魔王の肉体を濡らし艶やかに光らせた。粘土を纏う肉体は忙しなく動き、魔王は顔を俯かせるも水は絶えることなく吐き出され続けた。呼吸をする余裕を持たせぬよう、暇を与えぬよう、まるで無限を思わせる水は延々に流れて――。
また、次の瞬間。魔王は顔を上げると、喉の奥から炎を吐き出した。
轟と唸る灼熱は湧き出る水を瞬く間に蒸発させる。暗がりを持ち始める室内は、血の様に赤い炎に照らされて、さらにその火炎は天井の粘土を焼き尽くした。またもや、青年の思惑は完膚なきまでに打ちのめされた――かに見えた。
魔王が異変に気付いたのは、その高温がついでとばかりに濡れた肉体を乾かし、焼き尽くしている最中の事であった。
炎を吐きつくすと、辺りは再び若干の闇に包まれる。魔王はそれを肌で感じて息を吐き、それから数分もすれば死を受け入れざるを得ないであろう青年の顔を見ようと、首を下ろそうとする。だが、首はまるで硬直したかのように動かなかった。
指先は辛うじて薄く震える。足は地面と一体化する何かに包まれたかのように、肉体はその足元から伸びている何かに包まれているかのように、動く事を封じられていた。
「その粘土は粒子がとても細かいので、乾くと石膏のように固くなります。でも、本気になれば貴方には簡単に破れてしまう、そんな程度の硬度です」
だが、今は一秒でもあれば十分だった。というのは流石に自信の誇張ではあるが、最低でも一秒、それ以上あれば嬉しい程度の差であるには違いない。
そう狭くは無く、広くもない平均的な面積を持つ客室は床全てを乱雑な瓦礫に覆われる。彼はその上を小器用に跳び歩きつつも、伸ばし広げる右掌に、びくんと幾度も痙攣する赤黒い塊――”心臓”を掴んでいた。
静かでありながら轟音のようにやかましい殺気を振り放つ魔王を、傍目に見る気分でいながら、正面に捉えてソレに肉薄する。
――彼は粘土が出現してから後、青年が”複製”を展開させるその瞬間を見ていない。見る事が出来ないのだ。
視界が封じ込められた所為、という言い訳も出来る。だが、以前までは見て認識できなくとも、自身が放つ魔力がその発動を知覚させていた。今回はそれさえも無い故に、どう口にしても言い訳にしかならない。如月双樹が奇跡を使う瞬間が、どの程度の速度でこの粘土、水、そして心臓を作り出したのか理解できなかった。
そして、その全ては今までしてきた複製とは異なる事を、魔王は疑問として胸に抱き――。
青年が動き出して数秒、彼は早くも、思考に深く潜り動かぬ魔王の懐にまで迫っていた。
「この状態でロランに頭を潰してもらう事も出来たでしょう。ですがそれでは、貴方に反撃の余地が存在してしまう。どちらにせよ、死に到る攻撃ではないのですが」
言うが早いか、彼は右手に掴む心臓を強く掴むと、血に塗れていたソレは図太い血管の断面から一度血液を噴出し、腕と共に風を切って魔王の胸目掛けて肉薄した。しかし――。
「生ッちょろいわッ!」
全てはその瞬間を狙っていたかのように、肉体を包んでいた粘土を解き放ち、周囲に散布する。その瓦礫の一部と化そうとする中で、それらは青年を叩き邪魔し視界を奪い、行動の障害となるよう、隙を生ませるよう、魔王は意図的にその全てを弾き飛ばし、流れるように、両の肩から垂れる腕は青年の顔面へと穿たれた。
咆哮は、彼を怯ませる一つの要因にすらならなかった。ソレを言えば、彼が今起こした行動全ては、青年の動きを止めたり、あるいは緩ませたり遅めたりさせる事が出来て居なかった。だから、魔王が薙ぐように振るう腕よりも早く、彼が突き出した心臓が胸に触れて――図太い血管は、触手の様に肌の表面を薄くなぞると、一瞬にしてその内部へともぐりこんだ。
表面化を蠢く事無く真っ直ぐに伸びる触手は、瞬く間に目的地へとたどり着く。そしてその伸びる図太い血管は彼の心臓の動脈、静脈、それと神経系に無理に連結するように細胞を分裂させ癒着するように接続した。
その間、薙がれる腕は止まる事無く青年の顔面を捉え、穿ち、吹き飛ばす。だが次の瞬間、血液を共有し心臓たる活動を開始する複製物は、血管内から血液量を減少させ、その代わりに吐き出す力を倍以上に跳ね上がらせた。
いつもより大きな心拍が、全身の血管を圧迫する。ほんの数秒の内に呼吸が苦しくなり、彼が胸を押さえて跪くのは、青年が吹き飛びその背で本来の出入り口を塞ぐ瓦礫に衝突した、その音が、呻き声が、耳に届いた頃だった。
形勢は、僅かに好転したかに見えて――この交わりで、共に時間が無い事を理解した。




