11 ――軌跡――
奇跡が、いつも助けてくれる味方だとは限らない。
彼がその奇跡の発動条件を理解したときに言われた台詞は、それを喜ぶものでも讃えるものでもなく、まるで歴戦の勇士が生半可な力を手に入れた子どもを諭す、あるいは忠告するようなものだった。声はしわがれ、風貌は老婆。だが確かな威厳のある、母親の代わりをしてくれた彼女は、いつでも彼の味方だった。
だから、たった一人で彼と共に住まう子供たちの面倒を見る彼女の力になりたかった。奇跡の力も、利用する目的は、ただ、その助けになるだろうと考えた内の一つ案にすぎなかった。
故に、努力を惜しまなかった。魔法、魔術の根底には奇跡の力が基づいているということは理解できていた。その奇跡の力が精神力をエネルギーにして、本来個人が自在に操れぬはずの自然現象やその他諸々を起こさせた。しかし、詳しく言えば、それは奇跡の力とは異なるのだ。
――それは一般に奇跡の力と呼ばれるものを汚し穢し陥れ誰にでも扱えるように劣化させたもの。それは、奇跡とは似て非なる、変換装置の代わりを果たす力と化していた。
無論、それさえも身につけるには絶え間ない努力が必要となるのだが……――。
その為に、奇跡の力を扱うというのは本当に最初からの勉強になった。大変なのは目に見えていた。だが、彼が生まれた土地が倭皇国であったのが、唯一の救いであったのだ。奇跡の力と言う、曖昧でかつ不安定な能力は、その生誕の地でしか存在を知られていない。その書物も情報も、その土地でしか存在していない。
だからそこにはその知識も記録も、豊かとは言い難くも不自由にはならない程度にはあった。だから彼は持ち前の真面目さと努力家の潜在能力を発揮して奇跡という、わけの分からぬ力を知識として蓄え続けた。そのうち、知識は同時に彼の力へと変わり始めた。
そして調べ上げ生み出した結果は、奇跡が奇跡として現象を起こすのは、本当に奇跡としか言い様が無いという、分かりきっている事だった。それは在り得ぬ発動条件であり、それはおよそこの世界に存在する誰であろうとも思いつかないものだった。
奇跡とはつまるところ、個人の本能の部分を特異の能力として現実世界に干渉させること。そしてその能力は一人が一つ扱うのがやっとであり、さらにそれが発現する可能性は万人に一よりも低い。
だからその奇跡の発動条件は、自分を極限状態に置くことだった。
しかし、彼がそれを理解した時、彼の育ての親は口にする。
――奇跡がいつでも味方でいるとは限らない。
極限状態に身を置いても、奇跡が肉体から解き放たれる可能性は目隠しをした状態で針の穴に糸を通せるものより遥かに低いと、告げていた。
事実、彼が奇跡の力を自分のモノにするための特訓をはじめたが、一年経とうが二年経過しようが、発現する気配すらなく、また肉体は傷つく一方だった。
自分にはセンスがない。知識として得るのは得意だし、頭の中では何をすれば良いのか明確な程わかっている。しかしできないのだ。何が間違っているのかすら理解できない故に、進歩すらままならない。
彼はわずか十歳から始め三年間続けた苦業を、そう悟った日にやめた。だが、ただやめて日常に歩み絵を戻したわけではない。奇跡がダメならば、その根底にある、理論上は誰にでも扱えるといわれている魔術、魔法を覚えようと、路線変更したのである。
魔術は自身の魔力を、魔法は自然の魔力を使用して紡ぐもの。起こすのは大抵程度の外れた、誰かを傷つけるための小規模な自然災害。爆発だとか、大地の流動、暴風の発生やカマイタチを生んだり、様々な攻撃手法を生み出すものである。
奇跡が精神エネルギーを魔力に変換し、魔力が魔法の糧となる。ならば、魔法を使用するに当たって消費する魔力は、自然の精神エネルギーなのだろうか。彼がまず始めに思ったのはそんな疑問であった。
世界は生きている。この大地も、壮大な海も、木々も、空気も、その全てに命がある。そう考えれば納得は出来なくとも辻褄は合う気がした。釈然とはしないものの、辛うじて納得に到る説明だった。
しかし、奇跡を根底に置くという事を前提に考えられた魔術ばかりを用いる倭皇国では、彼が求める魔法、魔術知識は得られない。そもそも、それらが生まれた土地はそこより西側にある大陸の、とある国家だったのだ。正確には生まれたのではなく、一番初めに研究し実用化させた国なのだが、なんにせよ、彼はそこに行くのが一番だと考えた。
その時、彼は既に十四だった。倭皇国では男子十五になれば立派な青年として認められる。殆どの者は働いて身内を養ったり、自分の為に働いたり、あるいは夢を追いかけて外の国へ渡る者も、そう少なくは無かった。だから、彼が外へ行くのも不自然ではなく、また誰も止める者は居ない。既に、血の繋がっている人間は居ないからだ。
だが、彼の心にはまだ心配事があった。まだ行くとも決めていないその状況で、仮に外へ行ったとしたら、自分を育ててくれた彼女等に恩返しが出来なくなってしまう。戦闘面での実力が限り無く低い彼は、誰よりも死に易いのだから。
しかし、それは心配には及ばないであろうと、後に思える事だった。なぜならば、そこは程ほどに豊かで、程ほどに安全で、程ほどに長閑な土地だったのだから。
――結局、彼は誰にも何も告げずに西の大陸に渡り、一年の労働期間を置いて貯蓄を蓄えた後、大賢者の肩書きを持つどこぞの帝国の皇帝が設立した学園へと、入学を果たしたのだ。
そして時は加速して――。
「――お望み通りになァッ!」
背中に凄まじい衝撃が空気の弾丸となって喰らい付いた。邪悪な声は吐息すらも攻撃手段にして彼を打ち、そして怯んだその後頭部を、逃げ出さぬように掴み、潰そうとしていた。
しかし、青年――如月双樹は無意識に叫んでいた。断末魔でも、遺言でも、恐怖による発狂でもなく、確かな意識を持った、
「人間を侮るなッ!」
決して、弱者だと吐き捨てられぬ強さを持った言葉だった。それに加えてその台詞は、魔王がこの世で再び自由を手にした際に、心に刻んだものであり、つい今しがたまで、忘却の彼方へ追いやっていた記憶は、それを知るはずの無い彼の口から紡がれた咆哮によって、半ば強制的に、鮮明に蘇えさせられた。
故に、隙が生まれる。如月が十分に彼が持つ奇跡を発動できる程度の時間は、十二分に存在していた。
最も、彼が扱えるのは純然たる奇跡ではなく、肉体が成長した為に増幅された魔力が、足りない分の力を補助した不完全な、魔術でも魔法でもない、だが完璧な奇跡とは言いがたい奇跡であるのだが――。
後頭部と魔王の掌との間に、同じ質感の皮膚を複製して自身の代わりとする事くらいは容易に出来て、それを完遂した瞬間、彼は逃げるわけでもなく、ただ縋るように前方へ手を伸ばした。
次の瞬間、彼の手首を力強く掴むのは、すぐ其処まで伸びていた、鱗に包まれる鉤爪だった。だが彼の手を傷つけることは一切無く、流れるように如月を自分の下まで引き寄せ、そして受け流し背後で停止させた。
レイミはただそれだけで、額から汗を流して呼吸を上ずらせ、全身に熱気を纏っていた。が、それは緊張や恐怖によるものではなく、単純に竜化によって体温が上昇し、それに肉体が間に合っていないからのようであった。
「君を見ていると寿命が縮む一方だ」
小さな背中は、その肩を激しく上下させていた。今にも蒸気しそうな熱を持ち、その向こうには薄い皮膚を握りつぶして拳に火を灯し、それを焼き尽くす魔王の姿があった。
「ふっ、奇跡だと? 舐めるな人間如きが……。少なくとも奇跡だとか偶然だとかに頼っている貴様が、私に勝つことはない」
魔王の奥には、いつのまにか立っていたローラン・ハーヴェスト。その遥か背後に、立ち尽くすシャロンが意識があるのか無いのか、良くわからぬ夢遊病患者のように存在していた。そして、如月双樹の隣に、アータン=フォングがやってきた。
ソレを見て、彼は自分が一人でないことを再確認る。そして同時に、自分だけが傷ついていないことを、理解した。それは恐らく良いことなのだろう。だが、保身を考えすぎて闘いの外側に立っていたためであろうとも、考えられた。
そして、確かにこのままでは、この程度の力では魔王を倒すどころか、傷を付けることすら出来ないことも理解できた。最初はただの眼くらまし程度で、魔王の隙を作るだけで後は他の皆に任せようと思っていた。だが、流れを見る限りでは、それでは不十分すぎる上に、肉薄されたら最期、足手纏いになってしまうのだ。
それはいけない。決してやってはいけない事だった。迷惑だけは掛けてはいけないのだ。出来れば誰かの手伝いを、出来れば前線に立っても邪魔にはならない事を、やってのけたかった。
――そう考えた事をきっかけに、仲間と肩を並べたいという欲望が、本能に入り混じって心を動かした。
「なら――もう、良い」
心で呟いたはずの言葉は声になって、傍らのフォングに疑問符を抱かせた。
「保身はやめた。全ての力を貴方にぶつけますよ……」
ゆらりと揺れたかに見えたが、脚は確かに強く地面を踏みしめて、前へと彼を進ませた。やがて彼を背へ追いやったレイミの前に立つと、彼の瞳は、燃え滾る漢の強さを孕んでいた。
「今現在、走る程度の運動に支障が無い内臓器官に与えるエネルギーを全て遮断……魔力と生命を削り、本物の奇跡を起こすッ!」
その場にいる全てが如月双樹に注視した。
そして――次の瞬間、魔王は不意に現れた黒い影に、刹那的に意識を奪われた。




