5 ――対魔王②――
「てめー人にぶつかっといて謝罪も無しか? あぁん?」
「舐めた真似こいてんじゃねーぞ」
「ひぃっ」
そんな――――典型的な弱いものいじめが聞こえてきたのは、魔王が亡き腕の痛みに慣れ始めた頃であった。
褐色の肌と血を隠すマントのお陰で不審には見えないその存在は、呼吸を乱しつつも軽快に道を往くのだが――――ふと細い路地を視界の端に捉え、その中から聞こえる奇天烈な悲鳴を耳にして、足を止めた。
いじめ――――相手を肉体的・精神的に痛めつけて快楽的に楽しむ行為であり、また強者が弱者から金品を搾取する際に見られる事もある。というものだが……、ここは曲がりなりにも世界的に発展し、自立した『学生都市』なのでは無かったのか?
このようなモノが起こる事を見越して何かしらの保護策か何かを画しているのではないか?
そうでないとしたら――――お里が知れる。
魔王は情けなさそうに、まるで信頼していた我が子が裏で悪事を働く親玉だと知った親の、裏表も全て晒し切った長年の友人のような心境を抱いた。
他人では在るが、客観的に見れるのだが、我が子のように感じるその子が情けないと。心の底から親心に思うように。
「やはり、元はたかが廃れた村の異端児だった、というだけの事か。器ではないのよ。支配する、創生する……な」
「そ――それだけはっ!」
「ナマ言ってんじゃねーぜッ!」
痛烈な打撃音が肌を叩き、更に頭部が鈍く壁を衝突した音が届く。魔王はそちらに視線を向けたまま、一つの疑問を抱いて――――興味を一つ、抱いてしまった。
最早いじめっ子に未来は無く、その深淵を睨みながら魔王は独り言ちた。
「ナマ……? 言うな、と聞くから言語で、単語……あるいは組み合わせた文章であろうが……。被害者の台詞をどう合わせても、該当しない……?」
人間とは不可思議かつ整合性の無い、意味のない造語を口にする存在だな。魔王は毒気を吐き出すように呟いて、足を向けた。
「その時計をッ! 渡せ――――」
薄暗い路地で腕を振り上げた一人の少年はその言葉を半ばで切って――――壁に叩きつけられ張り付いて、肉が潰れ、血が滴る音を立てた。水の入った袋が破裂し、その液体が地面に叩きつけられるような音が辺りに広がったのだ。
彼は何らかの力で一瞬にして、壁の滲みへと変貌していた――――。
そして同時に、薄暗い路地でさらに暗く、黒く染まるその滲みは少しして消え去って、独り残されたいじめっ子は次の瞬間、背後の気配に気がついた。
「驚いたな。魂がこれほどまで濁っているからか? 違うな、その年代だからか――――十六か、十七か? いいな、貴様。中々に”美味い”ぞ」
「な!? っ!? えっ?」
「誉めているんだ。素直に喜んで――――」
彼は振り返り、魔王の足元から伸びる、この薄暗い路地では、光など遠い存在である場所の其処で出来るはずの無い影を見て――――。
「嫌だ――――」
全てを理解するように、逃げ出そうとする姿勢を作り出した瞬間。
その頭は一瞬にして顎から頭頂までを黒い針に突き刺されて、言葉を、動きを、その生命活動全てを遮断した。
血は垂れず、大きく振った腕も落ちない。彫刻のように硬直した身体は次第に黒く染まり――――魔王は笑みを浮かべて口を開いた。
「私の血肉と化せ」
またその身体は一瞬にして霞となったように、背景の薄暗さと同化して――――後に、完全にこの世から姿を消した。
いじめられっ子は同年代のようで、だがしかし、幼く見える顔はいわゆる童顔。だというのに顔を蒼痣やら涙で腫らして、お世辞でも可愛らしいと言えるものではなかった。
――――少年は何が起こったのか理解し得ず、することも、しようとも出来ず。ただ数秒前までは存在していた少年等に奪われ掛けていた母の形見の腕時計を、大切そうに腕ごと抱いて、焦点の合わぬ瞳を見開いていた。
言葉が出ない。思考が停止する。恐怖が、緊張が、焦燥が、あらゆる負の感情が少年の中で渦巻いた。胃がキリキリと抑えようの無い痛みを発する。喉が異様に渇き、心臓が不規則に鼓動を打ち鳴らした。
呼吸が乱れ、目の前に迫る人物が居るのに直視できず、結果視線は宙を泳ぐ。冷たい恐怖が血管に入り込んで痛みを流し、四肢に力が入らない。
この恐怖は――――こんな絶望は、今までに、感じた事が無かった。
何が起こったのか理解できない。したくもないが、どちらにしろ、そうする余地が心に無い。
背丈から見るにまだ”八つや九つ”らしい年頃の子どもだというのに、その存在は途轍もなく大きいものに感じて、少年の感覚は、想像を絶する故に麻痺し始めた。
だから、出た。
出てしまった。
「な、何も殺す事は……無いんじゃあ……」
絶望的に逃げ道を塞ぐ行為に。
自らソレと関わるように声を出し、ソレへと意見してしまった。
震える声は情けなく――――アレほど消えて欲しいと願っていた同級生たちを擁護していた。
――――魔王はそんな少年の発言に、少しばかり肝を抜かれる。
こいつは驚いた。あんな状況を目の前にして、次は自分の番だと、犬でも分かるというのに――――人間らしく命乞いもしないとは。
さらによりにもよって消えた人間の、”よりにもよって自分を痛めつけていた人間”を、――今更ながらだが――擁護するとは。
これが正義と謂うモノか。しかし、先ほどまでは足を総て失った蜘蛛のように情けなかった小僧だが――――。
「貴様は搾取される側だった。小僧共は食い潰す側だった。そして私が世界の頂点に立つ強者で、故に小僧共は私に食い潰された。散ったのだ。ゴミ蟲の様にな……。この世は弱肉強食。食物連鎖――――は違うか? ともあれそんなところだ。そしてこの世はサバイバル」
そして私は人間相手に一体何を口走っているのだろうか。魔王は、この時ほど自分が分からなかった時は無かった。いつ自分を振り返っても、彼はこの瞬間の時ほど頭を抱える時間は無かった。
そしてふと、脳裏に過ぎる。
レイドは物理的に私に喰らい付いたが――――この小僧は精神的に私を足止めしてみせた。
これは驚くべき事象であり、また危惧すべき対象なのではないか――――魔王は考えた。
たかだか小僧だ。このいかにも貧弱だという小僧を喰っても碌な力にはならないし、逆に、吸収した力が殺害に使用した力に足りぬ事もあり得るかもしれない。
だから――――生かしておくのか? この私が。たかだか十六、七の小僧を? いずれ力を蓄え私の前に立ちはだかるという可能性も棄てきれぬのに?
だが――――殺すのか? 力にもならず、ただ疲労感だけを蓄える行為をするのか? ただこの後が心配だから、なんて少し出かけるだけなのに何度も家の戸締りを確認する神経質な人間のような心境で?
ありえない――――。
高々小僧一人の一言で、コレほどまで気持ちが鬩ぎ合う自分が信じられない。何だというのだ。私が、一体何をしたのだと言うのだ――――。
そして――――いつの間にかその少年は身をガタガタと震わせて、どれほどの痛みにも堪えて守ってきた腕時計を、魔王へと差し出している事に、彼は気がついた。
「やめろ――」
そんな行為に、魔王の理性は既に崩壊寸前であった。沸騰するのが怒りなのか、不快感なのか、総てが交じり合った混沌とした感情なのか分からなかったが、既に、自分と云う容れ物に致命的な亀裂が入っている事だけは理解っていた。
「こ、コレあげますから……、い、命だけ――――」
次の瞬間――――腰を抜かして地べたに横たわる少年の眉間に黒い一閃が奔った。
音も無く、刺されたと、少年が意識する間も無く、その言葉はやはり半ばで途絶えてしまった。
「何が、したかった。最初からそうすれば良かったのだ。無駄に、無粋に、生意気に、この私に! 張り合おうなどと企むな……。よくも、よくぞ――――蛆虫以下のゴミ共が私の心を乱しおって!」
少年の身体は今までのどれよりも早く塵へと化して――――また乱れる呼吸をそのままに、魔王は通りを進んだ。
路地を抜けて真っ直ぐと。レイドの記憶を頼りに――――彼が向かったであろう『自由学園』を目指して。




