ACT11.『決戦 王都ロンハイド』
ある日、人の形を取る悪魔が平和な世界に産み落とされた。空を割って現れたその悪夢の胎児は、その日を境に、世界中を不幸の最中に陥れた。
――それは今から、数千年も昔の話である。
魔王が、魔王と言う存在としてその世界の空気に触れたのは、それが初めてだった。
まだ、世界は大きな亀の上に乗っていて、海の向こう側は滝となっている。船に乗って方角を間違えてしまうとそこに落ちてしまう――などと言う事が信じられていた時代。剣があっても魔法がそう広くは伝えられては居なかった世界の中で、突如として、彼は現れた。
まるで闇に飲み込まれたかのような肌の色は、手を突き出せば、そのまま腕を飲み込んでしまう夜の空のような深さがあった。彼は人間にとって異形の力である”魔法”を駆使し、人を殺し、地形を変化させ、ありとあらゆる手段を尽くし、そして彼の考えうる全ての想像を実践して、人間を恐怖の底に叩き込んだ。
一体人間が何をしたのだと言うのだろうか。そして彼は、一体何が目的でこの世界に現れたのだろうか。彼の故郷、魔界とは? 魔法とは? その化けモノじみた力はどこで手に入れたのか? 彼を倒す術はあるのだろうか?
浮かんでは、消える事無くさらに浮かぶ疑問の数々。増えれば増えるほど心には不安が募り、恐怖が、精神を蝕んでいく。
魔王が世界に降り立ってから半年と経たぬ内に、三度、世界地図を修正しなければならない状況になった。それは小さな、といっても人口五千人程の村が彼の手によって焼き尽くされ、山が二つに裂け深い谷を作り出し、草原が砂漠となったからである。
放浪の旅を続けていた魔王は、それを最後に動く事をやめた。彼は北の、何も無い、雑草も湧かない死んだ土地を持つ孤島に住居を持ったのだ。どこかで得た技術なのか、あるいは魔法か。彼は自身の力で立派な城を創り上げ、そして其処に腰を落とした。
そんな状況に、人類はほっと息を吐く。これでいつ来るかも分からぬ襲撃に怯える事が、少なからずとも軽減されたのだ。そして同時に、彼を葬るべく作戦も進める事が出来る。それを邪魔される危険が少なくなった――と、安心するのも束の間。
まず始めに、巨大な泥人形が小さな町を襲った。
それは、魔王が北の孤島に移ったとの知らせを受けた一ヶ月後のことだった。場所は孤島よりやや離れた、東西に分かれる大陸のうち、西寄りの諸島の田舎である。
その姿は、まるで溶けかけた雪だるま。泥に塗れおぞましい姿となるそれは、意思を持つかのように泣き喚き叫び逃げ惑う全ての命を叩き潰した。音のする方。声が聞こえる方。迷わず逃さず反応し、建物ごと粉砕する。それが出来る巨体は、四階建ての建造物程の大きさを誇っていた。
被害は絶大であり、建物は残らず全壊。生存者は僅かであるが存在するも、彼らは余す事無く地下の暗闇で聞く阿鼻叫喚の中で精神を砕かれていた。
その一方的な殺戮が終えたのは、何かの影響を受けた為ではなかった。ただ単純に、ひたすらに純粋に、その答えは、その造られた肉体に込められた”誰か”の魔力が切れたから、であった。
細部まで造られぬパペットのような泥人形は想像を絶する破滅をもたらした後、燃料切れと言う酷く明解な理由で永遠の眠りに付いた。その際に倒れた身体は、簡単に、まるでガラス細工を机から落としたように、ばらばらに砕け散った。
――それが、魔王が作り出した”魔族”の初めてだった。
何かを元に、特別な力も与えず、ただ自分の魔力と『強い思い』を加えるだけで、自分に忠実な部下を作ることが出来る。最も魔王自身、この時『強い思い』と言うモノが、魔族を作り出すためだけに自分が無意識の内に生み出した、特殊な魔法だということに気付いては居ない。
そして元にする何かによって、思考を持つか、自分に忠実か、どの程度の実力を持つのか変動するのを知った魔王は、幾度かの実験の後、自らの意思では、無意味な殺戮を繰り返すのはやめていた。
――その間、屈強な兵士を持つ城や砦、唯一無二の鍛え抜かれた肉体を持つ事が目標の、戦闘が趣味である変人や、闘いに関しては異常なほどの能力を発揮する天才を持ち合わせた都市や国家が、何もしなかったわけではない。ただ恐怖に震え咥えた指を噛み千切っていただけではないのだ。
「魔王を倒そう」
誰かがそう口にした。
しかし、そう言って皆が協力してくれるほど、人間の胸に蝕む恐怖の芽は幼いままである筈が無かった。そう言って皆が協力したとしても、そう簡単に倒せる相手ではなかったのだが――少なからず、光の失せた瞳に輝きを取り戻す者が増えた事は確かだった。
たったひと言で。立ち上がる、ひ弱では無いモノの、屈強とは言いがたい肉体を持つ青年の声で。
それから幾度かの作戦会議の後、他の地にも出現するようになった泥人形の弱点を見つける事が出来た。が、撃破するには人員と時間と運が必要であった。
しかし、人間は多くの犠牲のもと、魔王が作り出した異形の存在を打ち倒す事に成功した。その際に活躍した一人の青年がその闘いを勝利に導いたのだったが、結果として、彼の名が広まる事は無かった。何よりも、泥人形を倒せたという喜びと、衝撃と、垣間見えた平和が、人間の心を満たしたのだ。
だが間髪おかず、魔王は創る。
それは、そう簡単には生み出し育成する事が不可能である魔族に代わり、調子付く人間たちを黙らせる異端児――魔物だった。
全身全霊、魔力を根こそぎ注ぎ込んで漸く生み出せるか否かの、成功率が五割程度の超生物よりも手軽な、生き物。最低でも人の形を取る魔族とは異なり、それは様々な形態を取った。
まず一番初めに確認されたのは、熊型の魔物だった。成体なら立ち上がっただけで見上げるほど巨大な熊は、通常の数倍にも膨れ上がり、瞳を赤く染めて人を襲った。たった一度で人の上半身を噛み千切るほどの巨大な口は、まるで柔い豆腐を噛み砕くように、果敢にも仕留めようと剣を振り上げた兵士を鎧ごと喰らったのだ。
それから続くように、まるで音の速さかと思うほど素早い狼が現れた。次いで、土葬された死体が起き上がり、夜中の路を歩けなくした。
さらに見慣れた動物の姿をする、見慣れぬ異端児は、辛うじて、戦闘に覚えの在る者が決死の覚悟で戦いを挑めば、勝てるかもしれないという実力を持って増え続けた。それらは魔族よりも、魔王よりも、深く広く人間の世界に浸透して彼らを苦しめ続けた。
やがて一年もすると、魔王の動きは僅かであるにもかかわらず、魔物は殆どの大陸、島に生息するようになった。ただ単純に人間を襲うのではなく、その作物を食い荒らすなど野生動物的な一面を見せるも、その程度が著しいために、野生動物との区別は容易だったし、何よりも、その動物こそが、絶滅の危機に瀕しそうなほどであった。
しかしまだ、英雄たる人物は立ち上がっては居ない。世界を巻き込む戦争と言う形にすら形式立てることが出来ていない人間は、その素質を持つ人間を見極める暇すらなかったのだ。毎日、どこの国でも死者が出る。それは病死や衰弱死、殺人や自殺、事故によってではない。殺人である事には変わりが無いのだろうが、全ては魔物の手によって、であった。
世界全体の人口は未だ元の八割を残すものの、既に彼らは限界に近かった。魔物が村に、街に入らぬよう祈り、そして防衛策を張るのがやっとだった。辛うじて、教会で祈り清めた水が魔物を近寄らせぬ効果を持つことが発覚し、それを振り撒くのがやっとだった。
空の色は、どれほど綺麗な済んだ藍を見せようとも、彼らの瞳には黒に近い灰色にしか映らない。それほど、世界の疲弊は蓄積されすぎていた。
そこで、立ち上がる一人の青年が居た。
彼は、何を隠そう、一度堕ち掛けた希望を掲げ、そして泥人形を倒すことで人類に再び活気を取り戻させた青年であり――彼はまだ未熟な力を不安に思いつつも、最早ただ力を蓄える為に我慢していたが、それも限界だと故郷を後にした。
――勇者の物語は、そういった正義感が強く勇猛であり、だが誰よりも優しく、力強い一人の青年が行動した事によって紡がれたのだった。
それから再び一年の時が経つ。国を旅立った青年は既に故郷では死んだのだろうと噂され始めた頃。不思議と魔物の侵攻が弱まり、泥人形の発生や、異常に強い、魔王と同じような姿を持つ魔族の姿も見かけなくなった。だが如実に弱まるその世界は、滅びた町や村を復興させる気力すら湧かなかったのだが――不意に、知らせが届く。
魔王の死と、英雄が誕生した、という知らせは瞬く間に世界に響き渡り――。
そこでふと、少年――だった男――は我に帰った。
先ほどまで思い出していたのは、彼が踏みしめる土地の過去だった。魔王を倒した勇者の生まれた土地。それから、ここで勇者の血族が育ち、度々現れる大悪党を成敗しては血を繋いで行った。だがそれも数千年続けばやがて、その悪党すら出てこなくなり、勇者の必要性が疑われ始めた。
勇者の血を受け継ぐ者は、須らくして強大な力を持つ。故に、自然とそれは無自覚の脅威となる。だが鍛えなければ、その素質を磨かなければある程度の実力に留まるのだ。それは脅威には変わりないだろうが、まだ立ち向かえる、叩き潰せるまでの脅威に終わる。
だからこの国は、勇者を棄てた。
勇者が居たからこそ栄えた、元弱小国家。その決断力は計り知れぬほど強く、そして自分勝手であり、吐き気を催すほどの高慢さがあった。しかし、勇者を棄てた、などという史実は存在しない。英雄の血族が失せたのは、勇者が勇者としての自分を見つける旅に出たからだ、という、何も知らぬ第三者が読めば調子付いた子孫が旅先で死んだと受け取れるような書き方がなされていた。
その実、その血族は想像を絶する葛藤の中、魔王が作り出した、何を元にしたのか分からぬ魔族の影響で自らの身を魔族の色に染め上げ、さらに恩を仇で返す廃れた貴族に飲み込まれた故郷を救い出したのだが――やはり、その歴史は刻まれては居なかった。
この調子では、他の国も色々と何かを隠しているのだろう。魔物を手なずける術や、魔族の力を人の手で人に与える実験も、しているのかもしれない。もしかしたら、魔王を蘇らせたのも、人間の手によってなのかもしれない、が。
「魔王は肉片に自分の力を注いで分身――のようなものを作った。あの実力からして、魔王の半分以上だろうとは思うけど、再生が早すぎるのがどうにも、あの、学園都市に現れたときの”影”に似ていてね。それで、だとするとやはり本体はどこか近く、でも被害の及ばない場所で、自分は死ぬ事無く、それを高みの見物をしているのだろうと思ったんだ」
彼は独りごちるように、口を開いた。唐突に、というほどでもないが、静寂を司るその空間では、音が空気を震わすのは久しぶりのことだった。
「ま、魔王っつーのは大抵、城かどっかにドンと構えてるもんだからな。イキナリ出てきたのは、確かに不自然なような気もしてたんだ」
ローラン・ハーヴェストは彼に同意するように頷いた。対面したのは一度だけだし――学園都市で襲われたのを数えれば二度目だが――、今回は対峙する暇なくレイドの魔法に閉じ込められたから、妙な感覚を確認する暇が無かったのだが、少年が変わりに、確信じみたことを口にしてくれて、なるほどと頷くことが出来た。
レイドの魔法――半永久の封印は肉体を成長させ、そして成長させる以前の”過去”を封印する。故に、魔王がどんな魔法、能力を使おうとも肉体をこれ以上若返らせることは出来ないのだ。半ば呪術じみた魔法ではあるが、これによってレイドがこの魔法を解かない限り、成長した肉体は元の幼さを取り戻すことは無い。
「でも、これから大変なのは向こうだよ。魔王が本気になれば、あの人たちでさえただでは済まないだろうし。でもでも、だからって自分のほうが楽だってゆう訳でもないけど」
続くように、アータン=フォングは口を開いた。大人の女性の肉体を持つ彼女は、幼い自身が着ていたワンピースをミニスカート調に変化させていたのだが――それも、一旦闇に解け、自身を服ごと再構築する事によって落ち着いた、黒いワンピースドレスへと戻っていた。
彼女、吸血鬼にとって肉体の成長はあまり関係ないのでは、とも思われたが、そもそも彼女には技術があっても魔力の絶対量が足りなかった。それを成長に補わせ、さらにこれから誰かの血液を取得する事によって、その誰かの、実力に自身の力を足すのだから、彼女にかかる魔法は決して無駄とも言い切れなかった。
――晴れ渡る空は平穏を見せた。
しかし、そんな快晴の中に在る太陽は、大地の、寒気がするほど人気の無い街を照らしていた。
人気が無い、というのは、語弊があるかもしれない。人は確かに居る。いるのだ。皆、力なく地面に倒れているのだが――存在していることには違いが無い。
まるで、自然死したかのようにそれらは横たわっていた。スーツを着る男、まだ幼い少女は等身大のぬいぐるみに抱きついたまま、片方の腕を喪失していた。
辺りには腐敗集が漂うも、腐敗以外での外傷は、その死体には見当たらなかった。
そして町には被害が見えない。建物はそのまま放置されたかのように傷が無く、たださびしさを見せるだけなのだ。
彼らはその中の道を歩いていた。大通りであり、何の前触れも無かったように、何の恐怖も痛みも感じなかったかのように倒れている死体を避けながら。
心に確かな決意を抱いて、魔王へと向かう。実力に不安があるのには変わりが無いが、同時にそれを上回る怒りが、彼らの表情を引き締めていた。
「確かに楽じゃあないね」
「だが誰かがやらなくちゃならねーっつウのなら……なぁ?」
少年とロランは顔を見合わせた。互いの表情に曇りは一点も見えず、確かな強さを持つ微笑があった。
――ある日、封印されていた魔王が平和な世界に蘇った。特定の人物の心を奮わせたその悪夢は、その日を境に、数人の少年少女の将来を変えさせた。
初めて魔王がこの世界に生れ落ちてから数千年が経過したこの話は、その時と何も変わらず、魔王対人間の構図を形作っていた。




