6 ――展開――
まるで嘘のようだった。ハイドが倒れたのは、お茶目に仲間を驚かせようとする悪戯心から来るものだと思っていた。だが、彼は頭を真っ先に地面に打ち付けて、それから身体を大地に弾ませて――それでようやく、彼の意識が途絶えたのだと、理解できた。
それも仕方が無い筈である。むき出しの肉体は、見ているだけで、その意識が良く保てたものだと思わされるほど痛々しかった。それなのに誰よりも激しく、だが無駄の無い動きで魔王の命を掠め取り続けたのだ。そして、仲間の負担の軽減と、確実な命の保持を約束するために身を炎の中に投じて、灼熱を打ち破った。
それを誉めろと言わんばかりに親指を突き立てて、笑顔を見せたハイドは、直ぐに倒れてしまった。するとその直後に――。
「やれやれ、漸く死んだか」
胸に渦巻く焦りが、全身の毛を逆立たせた。そんな台詞が、彼女の鼓動を早くした。
「私を二度殺し、そして先ほど、たったの一撃で致命傷を与えてくれたのには少しばかり、敬意を表するが……」
燃えてカスになったマントを自分の動作に合わせて揺らしながら、彼はやがて、倒れたハイドの頭の傍まで歩み寄った。静かな足音の中、レイドも、シャロンも、迂闊に動けなかった。もし下手に動くと、本当にそのまま、ハイドの命を奪われてしまいそうな気がして、思わず足がすくんでしまうのだ。思わず、慎重になってしまうのだ。
足音が止まった。魔王はハイドの枕元に立つと、そのまま足を大きく上げた。その中で、一陣の風が吹きぬける。爽やかとも言いがたい温い風だったソレは、周囲の凍りついた大地によって冷やされ、瞬く間に肌に突き刺さる寒風となって彼らを嬲った。
「やはり、所詮はこの程度よ」
振りあがった腿は筋肉の流動を表面に浮かび上がらせると、直後、力強く大地に向かって叩きつけられるように落ちた。
固い足裏は無情にハイドの頭を叩き割る――かに思えたが、予想を超えた固さを持つハイドの頭蓋骨は、そう簡単には砕けることをしなかった。だから彼の頭は激しく揺さぶられて、それに連動するように身体が弾みつつ、それが大地に伝わるだけに終わった。
しかし、特にこれといった外傷が見当たらなくとも、そんな予測しきった行動であろうとも、彼らの心には衝撃が疾走した。
こんな時、無力な自分には何が出来るだろうか。レイドは心の中で呟いた。
彼が命を賭して守ってくれたのは、ただ身を震わせて、意地だけで立ち尽くすだけの蛆虫なのだろうか。シャロンは自分の中に生まれた虚しさを押し殺すために、頬の肉を強く噛んだ。口の中に、鉄の味が仄かに広がった。
「所詮この程度だと蔑む相手に殺された貴方様はどの程度?」
不意に聞こえた声は、彼らよりも後ろであり、それでいてやや下方、地面から発されたように聞こえた。
それはレイミの声だった。彼女は何よりも冷静にそう言葉を返すと、ダメージの蓄積する身体をようやくといった風に起き上がらせて、息を吐く。それからまた伸びをしてから溜息をつくと、続けて首を捻り音を鳴らし、それから体中の調子を確認してまわった。口から漏れる空気は、全てが白く染まりあがっていた。
「私を本気にさせるまでも無いのだから、奴の存在だけでソレを推し量る事は不可能だろう」
「へぇ? プライドが高そうだから、本当は一度も死にたくは無い様に見えたのだけれど……。てっきり、全力を出す暇が無かったから、負け惜しみにそう言っているのかと」
「調子に乗るなよ、小娘風情が。貴様の命程度ならば、この手を動かさぬまま掠め取る事が可能なのだぞ」
彼は威圧するように彼女を睨んだ。最早性別の判断すらままならない程竜に飲み込まれた彼女の、その燃え滾るような、ハイドのもつ朱色の瞳とは種類の違った、赤い目を。
既に通常の何倍にも膨れ上がった右腕は完全に、成体と化した竜のソレだった。左腕の大きさは辛うじて人間のものであるが、内側から服を切り裂いて突出するトゲのような鱗は、彼女の怒りを表しているように見えた。
「はっ! 魔王ともあろうお方が、”たかが小娘”に挑発されただけで手を出すのか? 随分と、限界が来ているんじゃあないのか? なぁ、魔王?」
そんなやり取りを聞いていたレイドは、突然けたけたと笑い始めると、不意にそう口にした。言葉の意味はさらなる挑発を意味しているものであったが、その口調や声音の軽さから、心に思ったことをそのまま魔王へと伝えた、という風に受け取れた。
しかし、そんな台詞に魔王は表情をゆがめる事すらしなかった。彼は静かに眼を閉じる。周囲に敵しか居ないこの状況では自殺行為に見えたが、彼には今この時に於いては誰にも殺されない自信があったし、レイドたちもそれを悲しくも理解していた。
大きく息を吸い込んだのか、胸が膨らむのがレイドに見えた。そして同時に、魔力の塊が三つ、微かに揺らめいたのを、魔王は感じた。昂ぶる感情が落ち着いてゆく。脈打つ早さが、徐々に静かになっていった。それから二度三度呼吸を繰り返すと、やがて彼の心の中に浮かんだものは完全に払拭された。
戦闘意欲。自分の中でそれが一番に消えてなくなった。まるでハイドの意識が途絶えるのと一緒に持っていかれてしまったかのようだった。自分の足の下に彼の頭があるが、このまま力を込めてしまえば恐らく砕けてしまうだろう。固いといっても、決して傷つかないものではないのだ。
ゆっくりと瞼を開けると、やや遠くに三本の光の柱が立っている。その中には人間がそれぞれ一人ずつ閉じ込められていて、恐らくその、彼らを包む壁となる魔力が揺らいだのだろうと、魔王は納得した。
そしてそれより遠くに、何か――門のような物を捉えた。それが王都ロンハイドの入り口である、という事に気がつくまで、少しばかりの時間を要したが、その認識に意味はなかった。それを知ったところで、状況が反転するはずが無いのだ。ただ、自分の立ち位置を把握した。それだけのことなのだから。
「弱い犬ほど良く咆えるらしいが、ソレがこれほどまで愚かなことだとはな」
魔王は嫌味っぽく吐き捨てる。だが今度は、魔王の台詞に彼らの反応が無かった。
何も言い返せないのか、あるいは言葉を返すつもりが無いのか。どちらにせよ、関係のないことで興味が無いと短く息を吐くと、それから足元のハイドを強く踏みにじってから、一歩退いた。
呼吸すらない、地面に横たわるソレは生きているという感じがしない。だが、死んでいると認める事は出来なかった。殺しても死なない奴、を地で行く彼だから、完全に肉体が滅んでしまわない限りそういった確信は望めないだろうと、魔王は考えていた。
そう思っていると、不意にこの世に再び二本の足で立ったときに胸に刻んだ教訓が、脳裏に蘇った。
「人間を侮ってはいけない」
ここぞという時に、何をするか分からない敵なのだ。良くも悪くも、注意を払わなければならない。
まるで精神の、常識に対するタガが外れた者を相手にするような心情に陥る勢いであるが、正直な話、それとあまり変わらない気がして、魔王はそれと同列に考えられてしまう彼らを一様に見回すと、短く息を吐いた。
「人間の言葉に、”馬鹿は隣の火事より怖い”と言うものがあるらしいが……ふっ」
小ばかにしたような台詞が滑り出ると、シャロンの眉がぴくりと跳ねた。
「それは一体何を意味して口にしたのか、甚だ理解に困るさね」
「おい釣られるな、シャロン。思う壺だ」
怒りを孕む口調のすぐあとに、彼女の、今にも弾け飛ぶというような行動を制するように、レイドは彼らの会話に口を挟んだ。それは非常に効果的だったらしく、シャロンはうぅ、と短く唸った後、足を擦るようにして魔王との距離を数センチ広げた。
「そして貴様はハイドが倒れたくらいで一定の安心を手に入れられたようだが、私がたった一つの希望だけを用意して貴様に挑んだと思うのか?」
レイドはそう口にしながら空を仰いだ。太陽は丁度頭の上にまで昇っていて、時刻が正午に達したのだと理解できた。体感時間はそれほどでもないが、数時間が経過してたらしい。確かに、ここへ来て色々あったなと――思った瞬間。
不意に、彼が背にする、三本の光の柱が音も無く砕け散った。
光のカケラが空間中に舞う。その中に存在していた人影がやや大きさを変化させるも、変わらずそこに居た。
俄かに時の流れが遅くなったような気がした。ガラスのようなそれらは吹き上がるように空に向かう途中で、大気に身を溶かして行く。そして残された三つの影は、それぞれ魔力を慣らすように垂らしながら、思い思いに身体を解すように準備運動を開始した。
一人は屈伸運動、一人はその場で幾度か跳び、一人はその身を闇に染めて――。
「半永久の封印……それで彼らの時を加速させ、それから”過去”を封印した。一時的なものだが、結果として、彼らの肉体は成長し、力は全盛期のものへと膨れ上がった……」
――大器晩成型だ。
レイドの発言の後に間をおかずに放たれた台詞は、何の特徴も無い、下手をすれば一般人に見える少年”だった”男からであった。肉体の成長に合わせて伸びた髪を掻き分け、そして溜息をつく。放出される魔力は段違いに増幅されているらしいが、やはりそれでもこの状況に適した存在では無い様に見えた。
ローラン・ハーヴェストは胸の前で手甲同士をぶつけて金属音を掻き鳴らした。甲高い音が響き、それから、殺意の籠った視線が魔王を貫いた。
次いで、黒く染まり粒子となって分解され始めていたアータン=フォングは瞬時に元の姿に戻り、最早少女ではなくなったその姿を窮屈そうに、サイズの合わない服に詰め込んで、息を吐く。
「魔王……貴方は自分の実力の高さに驕り影を落とした。あくまで自然を装っているようですが、不自然なんですよ。最も、全てはハイドさんのお陰という事もありますけどね」
次いで、男は口を開いた。彼はズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、その中から何かを掴み、そして出す。顔の前まで上げられた指の間に挟まるのは、一つの弾丸だった。
太陽の光に煌めく、まるで宝石のようなソレを掌に落とし、そして強く握り締める。魔力を込めるといった行動は見えず、ただ何かを思い、そして決意するような動きに思えた。
「貴方の抱いていた不安は我々に勝機を与えた。魔王は魔王らしく、勇者が自分のもとに訪れるのを大人しく待っていれば良いものを――やはり、死んだ、という事実は、貴方のプライドを傷つけるからでしょうか?」
「……何が言いたいのだ、貴様」
「貴方が城へ戻るには時間が掛かるでしょうが、僕が向かうのは簡単ですよ」
少年――だった男は短く、余裕を孕む態度で軽く笑うと、そのまま魔王に背を向けた。そして視線はロンハイドの正門を捉え、同時に近くのロランが彼と同じ行動を取った。それはアータン=フォングも同じようで、まるで連鎖反応でも見ているようだった。
そんな彼らを見て、魔王は小さく舌を打つ。面倒だと吐き捨てると、浅く腰を落として、大地を強く蹴った。
が――その刹那、肉体は行動を制限されるように、視界脇から胸を貫かれて行動を不可とされてしまう。痛みが脳に到達し、その、心臓を的確に突き刺されたという現状が痛いものなのだと理解した瞬間、三度目の死が彼を襲った。
「私についてきた希望は我等に勝利を促してくれる。私が持参した希望は我等に勝利をもたらしてくれる」
乱れた髪を撫でるように掻き揚げてオールバックを整えると、ノースリーブの白いスーツを着る金髪の彼は、その表情に笑みを浮かべた。
「落ち目だな、貴様」




