2 ――vs魔王――
全て消え去ってしまえば良い。
そう思ったのは事実だし、勇者という肩書きが未だに残っていて、その思考と一緒に指摘されたとしても、訂正はしない。する必要が無い。意味が無い。なぜなら俺はもうとっくの昔から人間も勇者もやめているからだ。
元々魔王に戦いを挑んだのは世界のためでもなんでもなかった。ただ気に食わなかった。それだけだ。
自分をこんな姿にした元凶だから、だとか、勇者をやめたのに魔王だけその地位にのさばっているから、だとか言うわけではない。そんな女々しい性格ではないし、そんな事など、最早どうでも良かった。
ただ――魔王に戦いを挑んだのは、自分の存在理由を得るためだった。自分の存在する価値を、そもそも存在してて良いのだという理由を、世界に対する絶対悪を倒す事によって得たかった。
そう考えれば、この世にまだ見えない未練を持っているというところを見れば、やはり女々しいという事になるのだろう――。
――ハイド=ジャンは心の中でそう呟いていた。
何よりも大きい声で、何も聞こえない場所で、何も見えぬ其処で、何も感じられぬ所で。
だけどそれもどうでも良くなった。もう世界がどうなろうと、構わない。自分が死んでも、どうでも良い。誰かが悲しむかなんてのは関係ない。もう国単位を救ってきた回数は二桁を超えているのだ。たかだか数百年で世界各々の国に滅びる危機が訪れる回数がそこまで多いのは嘆かわしい事だが、少なくとも、自分のなすべきことは自己満足的にであるが、こなしてきたのだ。だからもう、感知しない。したくなどない。
だからこのまま、何も無い静か過ぎて逆に不気味になるこの世界で、徐々に意識を薄れさせて行くのも良いと考えた。それが幸福に思えた。角を折った以降の記憶が無いが、むしろそれが丁度良いと思われた。
暗くも、明るくもない世界。黒くも白くも無く、色と言う概念が無い。透明と言えば良いのかもわからない、そんな空間。音は無く、声も出ない。
そこでようやく彼はそこが精神世界であることを理解した。
その中にハイドという個人が居て、さらに心中で呟いている。妙な事だと、彼は続いて思った。
――そして世界はこれほどまでに自分に厳しいものなのだと認識した。
理由は、意識が揺らぎ、そして徐々に薄れていくのを感じたからだった。それは自我が消滅して完全に”死”を迎えるから――ではなく、どこかに引かれるような、現実世界に引っ張り出されるような、そんな覚醒を促すようなものだったから。
もう二度と行きたくは無い、憂鬱な世界。恐らく起きた瞬間には激痛が全身を襲い、次の刹那には意識を失ってしまいそうな鮮烈な痛みが惨く蝕むのだろう。俺が一体、何をしたというのだ。勇者の血を受け継いだために世界に不要な存在となってしまった事が、ソレほどまでに罪な事だったのだろうか。
俺が何をしたのだ。世界を救ってきたのに、これ以上何を求めるのだ。俺は魔族だ。人間ではない。魔王を倒す義理も無い。世界はまだ危機に窮していない。時間はあるのだ。何も、俺でなくても良いじゃないか――。
声は声にならず心の中で鈍い熱を持った。決して炎を起こす事の無い低温は、それでも肌を焼いた。熱は深部にまで浸透し、深くまで火傷を負わせる。不完全燃焼による一酸化炭素の放出で窒息したほうがマシに思うくらい、胸が痛む。空きっ腹に炭酸水を注ぎ込んだような、どうしようもない痛みがチリチリと心を焼き尽くした。
そして意識は、気がつくと自分ではどうしようもないくらいまで薄れて居て――。
「――喰えば早い話なのだが、どうにもまだ消費が足りぬ……」
そんな声は、割合遠くから聞こえた。
しかしながら、そのお陰で自分が蘇った事を知れた。自分が死に切れていなかったタフガイであることを認識し、そしてやはり、予測どおりにやってきた激痛に、思わず声が漏れた。
漏れたといっても、そう大きな声ではない。ガスを通す分厚いゴムのホースに小さな穴が空いたようなほんの僅かな、蚊の鳴くような微かな声。喉の奥が少しばかりかすれただけの、そんな音だったのだが、魔王は知覚た。そして瞬時に、理解してしまった。
ハイドはまだ生きていた、と。
そしてハイドも、しぶとく、自分で悲しくなるくらい図太く生き残ってしまったのならば、生きている以上プライドがある。これ以上死ねなかったことに後悔する必要は皆無であり、この肉体が滅びるまで、一度心にそうすると決めた目的を果たすまで、心臓が停止してもこの拳が振るえる限り、行動する。それが彼が決めた、たった一つの行動原則であった。
それを破る事は容易いが、わざわざ自分で貼った障子に体当たりをする者は居ないだろう。彼がそれを無視しないということは、それと同じことだった。
細胞一つ一つを殴られているかのような痛み。それが全身にまで広がると指先さえも動かせぬぐらいの激痛に変わった。それをなんとか耐えようと、彼は大きく息を吸って、静かに吐き伸ばして、それからまた胸いっぱいに空気を溜めると、呼吸を止めた。
下腹部に力を込め、歯を食いしばる。上半身を起き上がらせると、腹筋を切り裂かれたような、鋭い痛みが疾走した。
「ぐっ……」
そこで反射的に口は開き、肺の中の空気が大量放出する。同時に、溜め込んでいた起き上がるぞという努力意識が一気に薄れてしまうが、彼はそのまま反動を付けるように、前に転がり込むかの如く、上半身を前方に投げるように身体を振って起きる。
そして勢いを殺せぬまま彼は四つんばいになって、そのまま四肢を駆使して起き上がろうと、した。
「生き返ったというのか?」
弱々しく小刻みに震える背中は、無情な重圧によって踏み潰されてしまう。ハイドは近づいてきていた魔王の存在に気付けず、そのまま背中を踏まれて大地を抱擁する形となり、軽く砂煙の立つ中でさらなる痛みに耐え、暫くしてから、台詞の続きを聞いた。
「しかし」
「うっせーんだよ、さっさとその臭ぇ足をどけろ蛆虫野郎ッ!」
しかしそれを皆まで聞く気は毛頭無く、魔王が口を開いた瞬間に彼は咆えて、力いっぱい、崖の手前に居る親の仇を突き落とすが如く、大地を突き飛ばした。そして身体は大地に対して直角になり始め、魔王はバランスを崩す前に足をどけて、彼の前に移動した。
そこでようやく、ハイドは立った。そこでようやく、心が落ち着いた。
耳を澄ます。すると世界は驚くほどに静かだった。まるでこの場所さえも精神世界で見ている夢なのではないかと思う位音が無く、身体から流れる魔力はこれまでにないくらい、落ち着いて漂っていた。
魔王のソレは先ほどまでと同じような敵意と悪意と悪戯っぽい殺意に満ちていて、不快感を魔力に変換したような、気分の悪いものであり――それも然して間をおかずに、彼の手の中に集中していった。 ハイドは面倒そうに、全身に漂う魔力を電撃に変換する。そう考えると早くも体の周りがバチバチと音が鳴り始め、雷がハイドの眼前に、輝きを放ちながら集中して、刹那。
ハイドは不意に、一瞬にして魔王との間合いを詰められていた。
そして同時に彼の姿を見失ってしまう。景色が変わるが、どこも似たようなもので判別が付かず、自分が移動したのか、魔王が移動したのかすらもわからぬが、ハイドは迷わず肘を背後に投げ込んだ。そこには確かな確信があって――肘鉄はまるで吸い込まれるように、背に隠れていた魔王の顔面に疾走る。が、彼はそんな行動を予見していたかのようにすかさず屈み込み、次いで地を蹴ってさらに肉薄し、ハイドの背中に拳を打った。
風を切って打ち出るそれは何の障害もなく、背のど真ん中を打ち抜いた。肉を叩く音が響き、衝撃がそこを中心に分散、輪となって壁を作る。同時に発火する拳は肉のむき出しになる其処を焼き焦がすが、それも不十分なままで魔王は大地を蹴飛ばして飛び退いた。
直後に電雷が魔王が居た場所に降り注いだ。
大気を引き裂くような炸裂音が地面を砕き、煌めいた一閃は地を焦がし地面の破片を巻き上げ、辺りに弾いた。吹き飛ぶ岩は、それでも華麗に魔王に避けられてしまい、火山弾の如き飛来するそれらは鈍い音を立てて大地を叩くだけであった。
そして振り落ちた雷は反射されたように、着地点から魔王の軌跡を奔るのだが――次の瞬間、魔王はハイドの前に移動していた。
何も無い空間を貫き、やがて勢いも衰え徐々に薄れ消えて行く電撃の後、魔王の口元は不敵に笑みを作り出した。
「どうやら私は貴様を過大評価しすぎたようだ。たかだか二つ三つの特殊能力行使でここまで手も足も出なくなるとはな……。それに、先ほどの肘鉄。恐ろしく遅かったぞ? もはや貴様を危惧する必要は――」
言葉半ばで、ハイドが大きく振り上げた腕を、軽く仰け反った状態から全体重を乗せるように前方向に重心を移動しながら、拳を固く握り、振り下ろした。
一瞬の行動に停止する大気を貫き腕全体が風を流す。だがその拳が魔王に到達する事には、それを能力を使い”視て”知っていた魔王は軽く、一歩分後退していた。故に攻撃は、僅かに一歩分、彼が移動したがために直撃する事が無く、また魔王の代わりに殴り飛ばされた 虚空が衝撃を真っ直ぐ打ち出した。ものの、やはりそれは、避けられてしまう――と思われた。
だが今回に限り、それは予想と相反した。
打ち出された衝撃波は空間を空間に波を作り少しばかり歪んでいる程度にしか視覚的には認識できない。だからそう簡単に見れるわけではなく、また射程もそう長いわけではないのである程度離れていれば、そう危惧することではないはずだった。
だが拳より一歩離れた位置では、その衝撃波は半ば拳の直撃と同等であり、
「あふぉ――ッ!?」
驕り昂ぶる魔王は台詞を続けようとした途端、見えない拳が顔面に突き刺さった。顔の肌が波打ち、歪む。そこから貫通するように脳を揺さぶり、瞼の上から眼球を押し潰さんとするものの、それには質量があるわけではないので、輪郭を撫でるように分散するだけだった。
しかし、高速度で放たれた水の弾を受けたようなものなので、無論、魔王にはダメージがあり――大きく、背後の景色を逆さから見る無理な体勢を強制的に取らされた彼は、静かに、何も口にせず、呼吸すらも止めて起き上がり、そして口の端から流れた血を、手の甲で拭った。
「御託はいいからかかってきなさい」
ハイドは溜息混じりに口にする。
その頃、ようやくというべきか、状況の落ち着きを見計らったかのように、こちらへ近づいてきている魔力に二人は気がついた。そしてそれが誰であるか、何であるか彼らは瞬時に理解していた。そして同時に、今の状況で最も邪魔なモノであるとも。
そんな集団にハイドは少しばかり困ったというように眉根を寄せると、再び魔王が、口角を引き攣らせて笑っていた。
「ふっ、人間は邪魔か?」
「皆で仲良く戦うのが苦手なだけだ。”ごっこ”じゃあねーんだからよ」
「妙なところで気が合うな。私も、一緒に戦うのは嫌いだ。最も、四面楚歌は嫌いじゃないがな」
「ったく、最低だぜ。こんな所で意見が合致するなんてよ……。だがそれとこれとは」
「話が別、だろう? 分かっている。ならばさっさと始めようではないか。どちらが死ぬか――その最期を見極める闘いをッ!」




