1 ――小手あわせ――
完全に気配が失せた空間に残った魔王は、豪快に広く抉れた大地を遠目に見ながら空の明るさを感じていると、不意に背後に誰かが立つ音がした。魔力の流れは無く、呼吸音すらない。ただ大地と何かが擦れた音だけがして、彼は振り向いた。
そこに居たのは、血の黒さなのか肌の黒さなのか良くわからない暗黒を纏ったハイドだった。
「初対面でなんだが、俺にも気付けないなんてアンタ本当に魔王サマかい?」
――だが次の瞬間には、その姿はまったく別のものとなっていた。両の腕に銀光りする、肘まで伸びる手甲をつけた少年。そして気がつくと、弱々しくも断とうとする努力が見える魔力が空気を伝わっていた。そしてさらに背後には、見知らぬ、幼い白髪の少女が居た。
魔王は彼――ローラン・ハーヴェストのそんな台詞を聞くまで、何も感知できていなかった。それに大きな衝撃を受け、僅か数分で自分の中に巣食い始めたハイド=ジャンに心底、敬意を覚えていた。
彼の先祖であり、自身の宿敵だった時代の勇者を遥かに超えた精神力と戦闘能力。奴ならば能力を多数持つ自分をも封印せずにあの世へ葬れるであろう力を持っていただろう。だが死んだ。自分の、反射的な反撃によって。その電撃を、”転送”で後頭部に移動させて自分で自分を破壊させたから。
そしてその雷は彼の肉体を破壊するだけに留まらず、死した後でも衰えぬその勢い、威力で大地を破損させたのだ。大地を貫き、そこから薄く地面を剥いで――カンナで木材の表面を削ったような、なめらかな大地の表皮を作り出していた。
「まだゴミ虫が生き残っていたのか。蛆以下の魔力で存在を知覚するにも時間が掛かったぞ戯けが」
しかし、と魔王は薄い笑みを浮かべて続けた。彼には攻撃の意思が無く、ロランは今にも飛びかかって来そうな、怒りを抑えて冷静さを見せているもののそれが早くも限界だというような魔力を、徐々に纏いはじめていた。
「声を掛けずにその拳を突き出せば、あるいは――かも知れなかったのだがな。最も、それが出来るのならばレイドには選ばれなかったのだろうがな」
腐っても勇者候補生。彼はどうやらそれが言いたいらしいとアータン=フォングが勘付くが、ロランはそれがどうしたと言わんばかりに魔王を睨みつけていた。
しかしそれも無理が無い。なぜならば、ロランの後方――十数メートル離れた位置に、先ほどまで程よい緊張に包まれながらここへやってきた仲間たちの”死体”見たから。
彼らは四人居た。その内三人は心臓部を貫かれ破壊され、即死といっても良いくらいだった。無論息は無く、顔からも血の気が引き、関節が存在しない箇所を折り曲げていたり、血に塗れていたりなどしていた。
それを見た瞬間背筋が凍り、心臓を鷲掴まれたような息苦しさが彼を襲って――そしてそこからそう遠くない場所に倒れていた、残る一体を見つけた瞬間、世界の時、否、彼の時はにわかに制止した。
だが同時に、魔王の詰めの甘さを垣間見た。
彼は、ロランの親友である少年の息はまだ続いていたのだ。魔力の絶対量が計り知れぬほど少ない故に、回復魔法の発動による大気への魔力の伝導が弱すぎて気付けなかったためでもあるのだが、兎も角、魔王が、雑魚でクソの役にも立たないと思って彼を殺さなかったのは、なんと弁解しようとも、魔王のミスには変わりが無いのだ。
だからその時、彼の口から聞いたのだ。仲間があっさり、何も出来ぬまま死んでいったそのわけを。
「最終的にここへ来たのは自分の意思だ……とも言い切れないな。ここに来なくちゃいけなくて、それを拒否する事は許されなかったが、あいつ等も自分の死に文句は言えないとも言えないが――俺が、代わりに口を利いてやんゼ……テメェをぶっ殺すッ!」
静かな声調はそのまま徐々に段々と次第に大きく広く放たれて、やがて咆哮のように叫ばれた台詞は魔力と空気の振動で魔王に伝わった。軽い衝撃波を伴うそれを聞きながら、魔王はそれでも眉も動かさず、ただ鼻で笑うだけだった。
「貴様のゴミ虫たる所以は其処だ。口に出す前に行動に移せ。叫ばなければ動けぬ身体なのならば、やはり貴様はその程度の人間なのだ。自分に言い聞かせてようやく行動できる二流が、私に敵うはずが無いだろう」
「違う。これはそんなんじゃねぇよ。予言……っつーか、告知だ。俺がお前を殺す。絶対に」
状況は正に一触即発、かに見えた。だがしかしおもむろに台詞を続けたロランを見るに、ただ怒って感情のままに拳を振るうわけではないらしい。不安に思ったフォングもそれを知り、魔王は見て意外そうに軽く目を開いた。
そこから、彼に対する評価を少し上げる。少しといっても、ほんの僅か。メーターで現わせば動いたか動かぬか、判断が付かぬほど些細なモノであったのだが、現実的に考えて、魔王がただの人間――あるいは、一度殴り飛ばしても尚生きていた彼を見直した、という状況が、彼にとっての戦況を大きく変えていた。
無論、それは決して良くなったと言えるものではなく、
「なるほど、成長した――とも取れなくも無いがな。少しばかりは利口なのは、あの小僧共の影響か? それとも、ハイドか」
相手が、見て”勝てるはずが無い”と思わされるくらいの強者ならば、侮ってもらったほうがましである。勝機が垣間見える。敵の油断が至上の幸福と化すのだが、魔王は認めてしまった。最も、認めたと言うほど大それたことではないのだが、最低限、彼の顔を覚えようという努力を励むまでの心境の変化を起こさせたのだ。
自分に敵う相手以外を蛆虫以下の扱いをし、視界から外れればソレが居たと言う事も忘れてしまうような彼がそうすることは、真っ向から対峙されたという現実と――敗北の女神が、満面の笑みを浮かべてロランに大手を振っている未来がやってきたと言う事である。
やはり魔王が言った通り、彼が知覚せぬ内に、一か八かで攻撃をしかけていればよかったのではないか――そう、無意味な後悔を脳裏に浮かべた瞬間、不意に覚えの有る魔力が強大な存在感とともに魔王の前に出で現れた。
「話は聞かせてもらった。貴様は死ぬ! ローラン・ハーヴェストによってなッ!」
瞬間、魔王の眼前の空間が煌めいたと思うと、次には直ぐに強い風が魔王を巻き込んだ。そしてその場から魔力が溢れるように流れ出て、それに乗って飛び出る影は、鋭い切っ先を持つ長い棒を指先を駆使して器用に回転させながら、肉体の動作とともに白刃を魔王の額の薄皮一枚手前で停止させた。
そして途端に、そんな台詞が聞こえて、魔王はやれやれと息を吐いた。
「だけ、というのは正直心許ないがな……」
そんな派手な演出を考えた張本人は、声の主に笑みを含んだ声色で台詞を付け足してやった。ノースリーブの白いスーツと言う趣味の悪い、気味の悪い格好をする彼はそうしてから、何も持たぬ掌から一振りの、どこにでも有り気な剣を”作り出した”。
その時、高圧縮された魔力が掌から上方に長く、下方に短く伸びていて、魔王がそれを認識した瞬間、それは既に剣となっていた。高位魔術の早業と言うところが、彼の肩書きの一つである”大賢者”の名折れをさせぬ理由なのだろう。
「しかしまぁ、なんと言いますか、いい加減な……。まだ世界に被害が出ていな居ないから、出し惜しんでるんですかね? 皆さんは」
そして彼の影に隠れて呟くのは、つい先ほど、ロランが自分の中だけに生かしておいた少年だった。肌は破け肉が裂け筋肉さえもズタボロにされて、息を続けているだけがやっとであったはずだった少年は、身なりは先と変わらず、ボロキレを纏うような姿だが、外傷は完全に失せていた。さらに体力さえも回復しているのか、呼吸の乱れすらも見えない。
やはり、レイド・アローンは”ただの”噛ませ犬ではなかった。魔王は、そしてロランはそれを理解し、それぞれ別の意味で嘆息した後、最後に口を開いた、両の腕を竜に飲み込まれた少女の言葉を聴いた。
「だから嫌なんだ――私は二度と、これ以降、人間に感知しない……」
朱色の瞳は溢れる涙を止めなかった。しかし燃え滾る眼球は出る寸での所で流れるであろう液体を蒸発させていた。それは、毛細血管の流れる血液が、正に燃えているからであった。
だから、竜と化す彼女は泣くことは出来ても、涙を流すことは許されては居ない。それが竜の咎を背負う人間の運命なのだが――これはまた別の話である。
そんな派手な登場は、かつて魔王と対峙した二人が居たからこそ許された。魔王が悠久の時を過ごそうとも決して忘れずにいた彼らが現れたからこそ、その他二名の命も消されずに済んでいた。
「死んだフリをしていれば良かったものを……貴様等人間の本能なのか? その――」
「自殺というやつは、か? 間抜け。四○○年前と同じ事を口にしてんじゃあないぞ。それが決め台詞か? カッコいいのか? せめて私を殺せる程度の実力を持ってからそれを言ってみるんだな」
槍を肉体の一部のように、完全に近い安定感で額に突きつけるシャロンの背後でレイドは咆えた。だがそれは、自分を守ってくれる衛兵がいるから出来た精神的余裕がなせる台詞というわけではなく、心に思った言葉を、そのまま口にしたものだった。彼ならば、たとえ魔力が尽きて仲間も居ない状況、そして魔王は寝起き数時間後の戦闘準備万端であったとしても、同じ事を言った事だろう。
それほどに、レイドは頭にきていた。
しぶとく生きていた魔王に。そしてハイドの一撃で意識を失い、その間に自分が募ったまだ幼き未来の礎が儚く消えていってしまったことに。
そして同時に、自分が簡単に死ぬ事が無いという自信に満ちていた。ハイドの、全力に近い、しかも不意な一撃を顔面に受けた瞬間、防御魔法陣を展開し衝撃、威力、勢いを気絶で済む程度まで軽減できたからという理由が、彼の中で熱意となって気持ちを昂ぶらせていた。
「ふふ、咆えるようになったな小僧が」
「話を逸らすなこの畜生がッ!」
そんな叫び声が早いか、額に触れ始めていた槍の切っ先は魔王の脳髄を貫こうと勢い良くはじき出されたが、虚空の一点を押し出し空気の弾丸を放つ槍の穂先は何も捉える事は無かった。
その行動の寸前に消えた魔王の影は、シャロンの顎の下から湧いて出て――それに対処する遥か前に、固く握られた拳は彼女の顎へと突き出された。
しかしその攻撃は途中で終える。魔王はそのまま小さく舌打ちをした後強く地面を蹴って後退すると、その直後に竜の鉤爪が的確に魔王がいた空間を抉り、大気を振るわせた。後に衝撃が波となって大地を短い範囲内であるものの削って、空気中に溶けた。
魔王はそのまま、そう離れては居ない位置に着地すると、そのまま深く屈み込む様な体勢を取った直後――突如、レイドが彼の目の前に現れた。
無論、それは魔王の生み出した魔族に与えた特殊能力の効果であり、故にレイドは突然、強制的に瞬間移動させられた現実に理解が追いつかずに、慌てた様子で掌に魔力を集中させた、が。
「咆えろ、小僧ッ!」
次の瞬間には既に、閃光の如き拳はレイドの腹部を貫いていた。
そして数瞬の時を置いてから、肉を引き裂く音が響き、気がつくと掴まれていたレイドの右肩が、砕ける鈍い音がして、レイドの、うめく声が聞こえた。
「――吹き……飛べ」
そのなかで、或いは呻いていた言葉全てがその一つの言葉だったのか。
レイドは防御のための陣を作らず、全ての魔力を掌に溜めていた。そして腹を貫かれた衝撃で上がった腕が、その掌が、魔王の顔を掠める瞬間、声は魔術の陣となり、魔力は物質に干渉する衝撃と化した。
手元が煌めいたと思った刹那、早くも魔王はその威力を能力によって知覚していたのか表情を歪め、今度は彼が慌てて腕を引き抜き、さらに片方の腕でそのままレイドを弾き飛ばそうと、僅かに腰を落とした瞬間、激流のような衝撃が放たれた。
魔王の血に濡れた腕は、目的通りの手段ではなかったものの、思惑どおり引き抜かれて、大地を削りながら、その先端部分に魔王を携える魔力の放出は、やがて大地の表面が滑らかになっている、その中心部分で終え、止まった。
全てを掻き消す轟音が、山彦のように木霊する。まるで深い谷に大声を叫んだような反響が耳に届き、漏れた衝撃に、その他は皆耐える以外の選択肢を断たれ、漸く、行動が開始されようとしていた。
レイドは跪き、呼吸を乱す。腹から垂れる真赤な液体で大地を染め上げながら、その瞳は俯く事無く、姿が見えぬ魔王を睨んでいた。
――そして再び、意図せぬ爆発が、薄く削られた大地の中心部分から巻き起こった。




