5 ――そして時は動き出す――
「はぁ――っ、はぁ、もう、許さない……っ!」
呼吸の乱れが全身を暑くしはじめた。静かな空間にその呼吸音だけが荒く響き、それ以外はまるで全てが制止してしまったのかと思うくらい、無音だった。
ライメイは腕を掴まれていた。その手は凶暴な怒りに包まれていて、鋭い爪を生やすそれは辛うじて人間のものであった。
その掴まれた先は、皮一枚でなんとか繋がっている。内部の骨はへし折られ、だらんと垂れて、その手は力を入れることが出来なくなっていた。そして、つい数瞬前までは頭部を掴まれていたシャロンは、不意を突かれて僅かに行動が停止したライメイの、その口で剣の切っ先を噛ませて、微笑んだ。
「ほうら、言ったとおり」
力を込めると、刃は歯の表面を削りながら奥へ進む。ライメイは噛み砕けぬ強度のそれに危機感を得ながら、継続的にやってくる、脳髄に直接流し込まれるような痛みを、腕がへし折られた箇所から感じていた。
そして、そのまま腕ごと引きちぎってしまいそうな彼女の腕を、もう片方の腕で押さえるのに精一杯で言葉を返す余裕が無い。その気になれば彼女等など一瞬で蒸発せしめる事が可能なのだが、どうにも不調なのか電撃を出すのに僅かな時間差が生じるらしい。そして、この雷撃を紡ぐと、目の前のシャロンに勘付かれてしまい、さらに隙を大きく切り開かれ、命を狩られる。その自信は、確かにあった。
だが脳内には、身体を無意識に、まるで自分の意識で動いたように思わせる命令が流れ込んでいた。
そして身体から、バチリと黒い電気が弾けた。
その瞬間、それを認識し押す力は瞬間的に倍以上に膨れ上がり、その力が持続する暇が無いまま、歯を力任せに巻き込んで砕き折り、そして喉奥底まで突き刺した。
ずぶりと確かな、肉を突き刺す感覚が刃を通して掌に伝わり、さらに横に薙ごうとした瞬間。
再び電撃が角から弾けて――。
「――――ッ」
彼は首の裏から刃を見せ、そこや口、鼻からも大量の血を噴出しながらも尚、痛みなど感じないように何かを呟くように口元を動かした。柔らかな唇は食むように口から生えた刃を優しく叩いた、その瞬間、何よりも早く暗黒の電撃が伝導したのは、その剣の刀身だった。
それを見たと同時に気付いた彼女は咄嗟に柄から手を離そうとするが、その行動は電気よりも遥かに遅い。故に激流のような電撃は一瞬にして彼女の手に触れ、そして黒き雷撃はあっとい間に体内に浸透し――腕を直接掴んでいたレイミは、迷う事無くその顔面を殴り飛ばしてシャロンの腕を掴んで、弾けるように後方へ跳んだ。
ライメイはそれを見て、まだ手を伸ばせばつかめる位置に居る彼女等を捕らえようとせず、だがしっかりとそのまま手を伸ばして――固い拳を、シャロンの顔面に突き刺して離脱を手伝った。
鋭い衝撃が、必死に掴んだ荷物を自分より早く後退せしめる。レイミは賢明な判断で彼女から手を離し、単独でその場に残った。直接掴み腕をへし折ったその手の平は鱗で覆われていて、電撃の通りが弱い。だからか、誰よりも鋭い反応で反撃が可能となって、故にか、根拠の無い勝機が心の底から湧いて出た。
「なぜ殺さなかったの?」
そして、そんな余裕からか、彼女はそう聞いた。痛みに表情を歪めて尚電撃を迸らせるライメイは、俯き加減の顔を上げて、レイミを捉えた。彼が捕らえるその顔は半分以上を鱗で包んでいて、その口元からは鋭い牙が顔を出していた。両腕両脚は同じように竜と化し、半ば本物と似た力を持つまでに、その肉体は侵食されていた。
問うた言葉は、返されない。ただ呼吸と共にひゅーひゅーとなる音だけが耳に届き、濁った音が、言葉の変わりに何かを紡いだだけだった。
その頃漸く、背後で何かが鈍く落ちた音を聞いた。それはシャロンが弾み、そして地面を滑る音だった。保身する動きは無く、ただ乱暴に投げられた人形のように四肢――もとい、二肢は関節が柔いように、まるで駄々をこねるように自在に動いて、骨を傷つけていった。
脚は既にどこかで付いていく事を諦め大地に沈む。暗黒の中、どことも知れぬ場所に安息を求めたそれらは、主の意識が消失すると同時に存在意義を失ったそれらは、誰も行方を求めなかった。
「……っ、ふぅ、ったく、やれやれだっつう所かな。いやはや、マジに死ぬかと思った」
早くも口腔の回復が完了したライメイは、まるで他人事のように肩をくすめて軽く笑った。そしてそれから消えることの無い、どこか皮肉な笑みが、顔に張り付いた。
シャロンが、この顔をやめろと、そう言った意味が分かる気がする。レイミは思った。彼女は耳から聞く音で全ての状況を理解したが、表情までは分からないはずである。それなのに、的確に嫌なモノを嫌だと指摘すると言う事は、相手の思考を読み取る事が出来ているからであろう。相手が今何を考えているか、操られていても、ハイドとは違う自我であっても、彼の脳を使っている時点で少なくともハイドよりの思考に偏るはずである。
だから、それが分かったのだ。理解したくなくても分かってしまう。知らぬが仏と言う言葉があるが、先ほどの彼女は正にその通りだったのだろう。
兎も角、ハイドもシャロンも、大してしらず興味も無いレイミは純粋に、その”ライメイが作る笑顔”が嫌いだった。
「だが目的は果たした。これでもう、魔王は勿論、オレに敵うものすら居ないっつう事になるな……どうだ、諦めて国に戻るか? ん?」
「残念だったね。今丁度、わたしは帰ってきてるんだよ。故郷にね」
呼吸は、声は、口調は、台詞は、全てが穏やかになっていた。これが本来の彼女であるというように、それが当たり前のようにライメイは聞こえて、どこか違和感を覚えながら、脳内に疑問を浮かべた。そしてそれは、心中察する事無く、当たり前のように口をついた。
「ここは滅びてしまっているぞ」
――ここは、ハイドの故郷でもある。ライメイは、それを彼の記憶を共有している故に知っている。だが、それについて、特に心が動くわけではない。興味が無いのだ。どうでも良いのだ。心の底から、果てしなく。
だから彼女がこれからどういった行動に出ても、それを認識する事は出来ても理解する事は出来ない。それが出来る頭を持っていても、心までは同じと言うわけではないのだ。
だから、
「えぇ、だから言ったの。許さないって!」
「知った事か」
心の底からそう思った。
自分が関知したことではないのだ。寧ろ被害者の一人に違いない。だから彼女にそういわれる筋合いはないし、だがレイミにそうに言われたからといって、怒るだとか申し訳ないと思うだとか、そういった心境の変化は皆無であった。
「――そんなに憎いのなら、かかって来いよ。ここの奴等と同じところに送ってやるぜ」
しかし、口は勝手に挑発した。何も生み出さない争いを作り出す元凶は、自分の口以外には考えられなかった。今この状況で、辛うじてこの、何もしない事を維持するのは努力次第でどうにかなったのかもしれないが、”命令”が、そう言えと脳に囁いたのだ。
だから素直に声帯が声を出し、唇が言葉を紡いだ。
彼女は、そんなライメイの口ぶりにふと切れてしまいそうな心の中の何かを、しっかりと握り締めて歯を噛み締めた。ぎりりと巻き込まれた唇は薄皮を噛み切られ、うっすらと血を垂らして顎を伝う。
今は動くべきではない。攻めるにしても守るにしても、退くにしても、状況が悪すぎる。決して、絶対的に敵わないというわけではないが、勝てる見込みは皆無なのだ。空になった缶の中を何度覗き込んでも中身が現れないように、勝機は決して湧いてでない。
「その気でないなら、指でもくわえて見ているんだな」
そんなレイミは、挑発にすら言葉を返せなかった。だがそれは的確な判断でもある。売り言葉に買い言葉、その応酬が出来てしまえば、戦闘はごく自然に執り行われる。彼女はあくまで”我慢”しているだけなのだ。冷静な理性が、本能を押さえ込んでいるだけに過ぎないのだ。
だから、何かきっかけでもあれば、大地を蹴り飛ばして肉薄し、この鋭い爪を持つ指を突き出して隙の大きい首の左側へ突き出すという選択肢を選んでしまう。彼女は次に舌を噛み締めて、自制に勤しんだ。
ライメイはそんな彼女から興味が薄れたのか、背を向けて歩き出した。静かな足音が、静かな空間に仄かに響き、そして更に小さくなってゆく。濃厚な魔王の魔力の中に強大である彼の魔力が紛れて薄くなっていった。
このまま行けば、彼がたどり着くのは国の正門。魔王に会いに行くと言う事は、恐らく無いであろう。魔王はこのまま、ついでに全ての候補生を殺して回るはず。そして果てには彼自身も、その手を汚さずに始末をする筈――。
そこまで考えて、レイミは疑問を提示した。
ならばなぜ私は殺されなかったのだろうか、と。シャロンさえも、気絶はしたが命までは失われていないだろう。どこかへ言ってしまったレイドだって死んではいないはずだ。
もしかすると、推測が間違ったのだろうか。彼女はそう考えたが、だが有効に、この場にて最強の兵を操るのだとしたら、それ以外に考えられないのだ。自分が低脳すぎるのか――ライメイの独断でそうしているのか。
そうして、そう考えるとまたごく自然に、”もしかしたら”だなんて希望も湧いてきて――。
彼女はそんな自分の甘ったれた部分に怒りを覚えて、固めた拳で自分の頭を殴り抜けた。




