3 ――虚しい速度――
瞼の裏に現れた彼女はずっと苦しんでいた。目を逸らそうにも決して視線を背ける事の出来ない場所に登場した彼女は、何度も同じ死に様を彼に見せ付けていた。
それに頭が堪えられない。精神は半ば崩壊してしまっているのだが、こればかりは心がヤワだからとはいえないだろう。
ハイドの思考は空回りする以前に動かない。空白のまま決して何かで埋まることは無く、
『角は伊達や酔狂、飾りや象徴の為に生やしたわけではない。郷に入り込んだ貴様は最初から、掌の上で踊らされていたに過ぎないのだ』
どこからともなく、頭の中に浸透してくる言葉は胸を熱くした。
『テンメイ程忠誠心の薄い魔族は二本あってようやく……というものだったが、貴様がやったのだな。しかし、この場に奴が顔を出すはずが無い。そして、ショウメイの能力で魔族になった貴様は律儀に角を生やした。現状で私に打ち勝てるのは貴様で、危険度で考えれば次にレイド、シャロンが並ぶ。他は論外だ。そして今、残るはシャロンだし、無論油断する気は無いが――ふふ、貴様が自らの手で葬ってくれるのだ。心配する必要など、何一つ無い。貴様等の台詞で今の気持ちを述べるのならば”ざまぁみろ”と言うところだな、”ハイド=ジャン”。かつての勇者よ……』
ハイドはそんな言葉を聴いても理解が出来ない。考える力が無く、自我をフェードアウトさせたように、無意識に身体を動かしていた。だから自分が今何をしているのかは分からないし――それなのに、否、それだからか、その肉体はいつもより調子よく動いた。
「――あの子じゃあないけど、一体何が始まるっていうのさ……」
そしてその無駄な元気の良さに苦戦するシャロンは、弱音を吐きながら紙一重で、放たれ続ける拳や鋭い蹴りを避け続けていた。
ハイドが特殊能力である電撃を止め、魔力の放出を先ほどと同程度に抑えた故に行動が可能となったシャロンだが、同時にいつもよ様子の違うハイドに襲われた。困惑を隠せずに、一撃一撃が命を刈り取るほどの威力を持つものをかわし続けるが、この調子では拳が直撃るのも時間の問題。体力差が圧倒的過ぎるのだ。
素早さや身軽さに定評がある彼女だが、まだ完全に慣れぬ脚での行動は、この時点では十分すぎると誉められるほどである。これ以上求めるのは酷というもので、魔力の消費と回避による体力の消耗が、相乗効果となって彼女の肉体疲労を倍にした。
そもそも、体力が尽きる以前の問題かもしれない。
拳は腕の長さ分伸び切ると停止し、大気に衝撃を波状に広げる。そしてその直後に、一息でもう一つの拳が衝撃を打つのだ。一度で二度の攻撃を避けるには、相手以上の集中力と動体視力、戦闘経験と命を直感に賭けられるほどの度胸が要る。そして運良く彼女はそれを持ち合わせていた歴戦の勇士だが、息が続く限りの戦闘というのは、行動もかなり制限されてしまう。
息を付けば僅かでも動作が乱れ、隙が生まれる。幾ら様子がおかしく、身体能力が上がっても技術が低下している彼でも、それを見逃してくれるほど優しくは無いだろう。
――拳が脇の下を通り抜けて、またもう一つが頭上すれすれの所を通り過ぎる。シャロンはようやく狙い通りの隙が彼に現れたのを見て、胸にひきつけた脚を力強くはじき出して、肺の中の空気を全て吐きながら彼の胸を蹴り飛ばした。
しかしそれはハイドを倒すべく放たれたものではない。決して倒れぬ強靭な筋肉は容易に彼女を跳ね返す。故にシャロンはその勢いを利用してその場からの離脱を図ったのだが、不意にハイドの角から、バチリと電撃が弾けた。
その瞬間、反射的に胸を防御するように交差しようとした腕は自分から数センチ離れたシャロンの脚へと伸びて、掴んだ。そして反動をつけるように大きく振り上げて、力いっぱいに、左方向へと投げ飛ばす。
暴風を巻き起こして天地を逆転する彼女は、反射神経が瞬間的に鋭くなった彼に不意を突かれて受身の体勢をおろそかにした。左肩から大地に激突し、予想以上の衝撃に、一瞬意識に空白が生じて――緩んだ魔力が、義足の接続を緩め、大地に弾む身体はそれの解除を促進させた。
乾いた大地に身体がすれて、左腕の肉が抉れる。その中では、やがて脚が外れて、どこかへと行ってしまった。だから左半身の感覚が麻痺して鈍くなっても健気に起き上がろうとする彼女の願いはふいになるし、咄嗟に、無意識の内に亜空間から抜いた、赤い柄の白い綺麗な刀身を持つ剣も、用を足さなくなってしまう。
「我が名はライメイ、推して参る」
そして気がつくと足元に近づいていたハイドは、上半身の衣服を剥ぎ取ってそんな事を口にしていて――そして気がつくと、彼女はそれでも半身を起こして、長い剣を彼のくび元に突きつけていた。
「やはり貴様がァッ!」
次に響いた音声は、ハイドのものでもシャロンの声でもなく、その叫びが耳に届くと同時に、彼は残像をその場に残してシャロンの傍らに移動した。それから間も無く、彼の影を切り裂く鋭い鉤爪が閃いて、”ソレ”はシャロンの背後に着地した。
鈍い衝撃が、彼女を揺らした。
「騙したな、良くも私たちを裏切ったなッ!」
熱気が髪を炙る。左腕を付け根辺りまで膨張させ、それを緑色の鱗で覆う。そして左目を赤く染め上げ輝かせる彼女は、竜と化していた。
輝く瞳は闇を見通す。シャロンは良く利く耳で全ての動きを音と、経験、勘で察知し、ハイドは魔族故に暗闇を昼間のように見る事が出来る。故にその場に居る全員は全員とも、誰が何処に居てどんな体勢なのか理解出来ていて、このロンハイドに集まった人間でそれが出来るのは、彼らだけであった。
だから、これが半ば総力だと言う事を、ハイドは認識し、微笑んだ。
「ホイホイ付いてきたのは貴様の意思だろう? オレは別に」
「黙れッ!」
言葉を遮るように爪が空間を切り裂くが、決してそれはハイドを捉える事は無い。だが彼も反撃する事が無く、そのまま台詞を続けた。一体何が肉体を占めているのか不明であるハイドは、自然なまでに口を開いた。
「ふふ、言っておくが、お前が言うオレは、裏切っちゃあいないぜ? オレはライメイだってよォ、言っただろ?」
「アンタが誰だろうと何だろうと関係ないのッ! 大切なのは、今こうして敵として私の前に居ると言う事ッ」
「えぇ、だけど、もし貴方――レイミと言ったっけ? 貴方が彼の肉体を破壊するというのならばあたしは彼でなく貴方に刃を向けなければならなくなるわ」
シャロンは言いながら、槍に縄を結んで投擲する。それから引っ張って、重みが無ければまた投げ、重みがあれば慎重に引き寄せる。誰も止めぬその行動で、数分間のうちに二本の脚を回収した彼女は、それを装備してようやく立ち上がった。
「……動揺も驚いた様子も無いってなるとこりゃあ、本当に洗脳されてるか、別人格に入れ替わってるかってところさねぇ」
彼女は軽く笑いながら、砂だらけの、若干感触の異なる脚の肌を叩いて砂を落とした。本来ハイドの持ち物だった剣を構え、レイミを背後に、シャロンは一つ溜息をついた。
「気分が悪いねぇ。その顔を、そういった表情に歪めるんじゃあないよッ! ライメイッ!」
穏やかな顔が一変し、怒りに染まる。少しばかり漏れていた圧迫が一瞬にして重圧に変わり、レイミも、彼女が最初に口にした事の意図が漸く理解できた頃、そんな空気も物ともしないハイド、否、ライメイは嫌らしい笑みを浮かべたままだった。
――ライメイは、ハイドのもう一つの人格だとか、本性だとか言うわけではない。彼は魔王から魔力にのってやってくる単純な命令を彼自身が持つ高度な処理能力で、魔王の思惑通りの解釈をして実行しているだけに過ぎない。だから口調などは極端に変わることはなく、その戦闘技術は徐々に戻り始め、だがその性格は限りなく悪くなっていた。
「そう粋がるなよシャロン、指先が震えてんぜ。オレはお前が攻撃さえ仕掛けなけりゃ反撃しねぇんだから、安心しろよ」
――そして、有る一定以上の自我を持つ事は、魔王にとっても予想外のことであった。
だが魔王はうろたえない。予想外の事であっても、それは決して対処の仕様がないと言う事ではないからである。彼がどうあっても、魔力伝導による命令で行動する限り、余程の事が無い限り問題は起こらない。そう考えていたし、
「まぁ、冗談だけどな」
風を切り裂く刃が閃く。斬撃が飛ぶほどの勢いを持つそれは、だがしかし半ば反射的に返された手刀に腹を叩かれ軌道が逸れた。甲高い音がなって、剣は彼の腰辺りで地面とは水平に向きを変えるが、ライメイの腕はそれよりも早くシャロンの首を掴んでいた。
――事実、魔王の思った通りにライメイは動いてくれた。
ギリギリと首が締まる。シャロンが柄を握りなおすと力は強まり、その苦しみの余り思わず手の中から剣をすべり落とすと、その力は若干緩くなる。これが一体何を意味しているのかは分からないが、少なくとも、彼が先ほど口にした台詞に一定以上の嘘が無い事を、なんとなく察した。
だがこのまま首をぽきりと意図も簡単に、少年が遊び心で枝をへし折るように居られる危険性が無いはずが無い。だから彼女は気を緩めないし、
「お前に、私は殺せない」
「そいつはどうかな」
――レイミが咆哮ぶ。
その瞬間、ライメイの握力が岩も簡単に砕くほどまでに強くなって、ぼきんと、鈍くも軽い音が虚しく、どこからともなく、肌が粟立つ程に生々しく響いた。




