2 ――風が吹けば暴風雨――
邪悪な気配は、魔力に変換されていた。全身に張り付くような嫌悪を感じるのは、生温く粘りどこか寒々しい魔力の詰まった空間に入り込んだからであった。
どこからが魔王の支配下で、どこからがそうでないか。それは、そういった濃度の違いで、よく理解する事が可能となっていた。近づけば近づくほど、進めば進むほど、その吐き気を催す邪悪さは増す一方。つまり、確実に魔王に近づいているという裏づけになっていた。
実戦経験を積んだお陰でこの状況に弱音を吐かぬ一同は、それぞれが一寸先も見通せぬ闇の中を、気圧されぬように魔力を放出しながら前へ進んでいた。消費する魔力は随時あたりの魔力を体内で浄化し吸収し、また放出。循環する事によって換気と同じ作用を望めないかと思いはするが、その他の、空間を占める大量の邪悪さが、すぐに魔力を黒く染め上げていった。
しかし、闇の中より生まれ育ってきた種族の者は、この環境こそが背中を押すように、戦闘能力を格段に上げたようにも見えた。それが、魔族であるハイド=ジャンと吸血鬼の末裔であるアータン=フォングである。
「というかよ、疑問が一つ、今更って奴が浮かんだんだが……」
眼を瞑っても自分が何処を歩いているのか、土地的に理解できる彼は背後を付いてきているはずであるレイド・アローンに声を掛けた。しかし、返事は無い。試しにもう一度だけ繰り返して待ってみるが、やはり返す言葉は耳に届かなかった。
魔力が充満しているために、個人の魔力の放出だけが手がかりとなる。気配は無論のこと感じられないし、空気の流れで感知することも、一抹の不安が残る。だが魔力量の絶対値が誰よりも高いレイドが放出する魔力の中に彼らがいるので、個人が放出し消費する魔力は微細なもので事足りるのだ。
だから、ハイドは自分が彼の魔力の薄い膜に包まれているのでそう離れては居ないだろうと踏んではいたのだが――声が届かぬほど離れているとなると、話は変わる。
彼は一度足を止めて振り返った。深淵の奥底を思わせる闇が、すぐ目の前から口を開いている。いや、その中に足を踏み入れているのだと言う方が正しいのだろう。故に暗さであり、故の不気味さである。いつ噛み砕かれてもおかしくは無い、そんな状況。
自分の、かつての故郷だというのに、これは可笑しな話だなと――自分が、まっすぐ歩いてきて、そろそろ城下街の外にある田畑付近だろうなと考えながら、思って、直後。
「おいおい、マジか? こりゃあ……」
魔力が揺らぎ、そして身体を包んでいたものが剥がれて行った。中々の速度で、遥か右方向へと。そして、同時に全身を蝕み、力を与える邪悪な魔力の中に、複数の異物が居た事に気がついた。それらはどれもが、ハイドが放出していた魔力の外に居て、レイドが皆を包んでいた魔力の内側に居たらしい。微妙な距離を取っていて、レイドでなければ知覚できない、そんな場所に。
複数――半径十メートル内には味方は居らずとも、魔物が少なくとも八、魔族らしき存在感が二つあった。そしてこの状況からごく自然に行き着く答えは、ハイドは自ら、いや、彼らは進んで魔物、魔族の大軍の中に何の策も考えも無く突っ込んでいった、という事だ。
レイドはこの事を見越していたはずだ。はぐれる事も、囲まれる事も。この時一体、どうしろと命令を出すんだ? あの実力じゃ、魔族二体以上から挟まれれば敵わない者が殆どのはずだが――と、自分よりも他について思考を巡らせた瞬間、一番初めの悲鳴を聞いた。
「ハイドさんっ」
――それは、どこか聞き覚えの有る声だった。
それは、ここにはあるはずのない叫びだった。
それは、自分の心の声だと思われた。が――。
「私を忘れちゃったんですか?」
目の前に浮かんだ顔は、決して忘れられるものではなかった。
ハイドは思わず顔を抑えて、弱々しく後ずさりする。だがその姿はまるで網膜に焼き付いているように、眼を瞑っていても、消えることは無かった。
”ソレ”は自分が傷つき衰弱し、そして老いて死ぬまでの姿を延々と繰り返す。ハイドにそれを見せ付けるような恨みがましさを孕んで、それは徐々に、彼の記憶から仲間を増やしていった。
一番初めはかつて旅を共にした親愛なる戦友、ついで顔も忘れた父、いつまでも自分を信じてくれた母。そして良くも悪くも国民を第一に考えていた国王に、兵士たち。旅の中で出会った友人などが――長い時間をかけて苦しみ、死んでいった。自分の中で。一度味わっただけで、嘔吐してしまうほど苦しい思い出が、何度も蘇っていた。
苦痛が、自己嫌悪が、自分を蝕む。やがて自分がなぜここに存在しているのか、のうのうと生きていて良いのか、この肉体を得た時点で命を絶つべきだったのではないか……そういった負の思考に洗脳され始め――。
「オレの傍に近寄るなァ――ッ!」
行軍が不意に停止したと思うと、先頭付近でハイドの咆哮が、重圧と化す邪悪な魔力もものともせずに響き渡った。
「一体何が始まるんです?」
少年の不安な呟きは、無意識の内に言葉となっていた。だからその疑問はすぐ後ろ、しんがりにつくシャロンが迅速に、的確に答えた。しかし何も知らぬ少年は、それが迅速である事はわかっても的確なのか、正確なのかまでは理解できない。
「破裂寸前の水風船が、針に突付かれる前に対処しようとしているのさ」
だから、自分の推測とそれとを繋ぎ合成し、自分なりの答えを作る。勿論突飛なものではなく、至極現実的でこの状況ならいつ起こるかわからないような、そんなモノで――結果として、魔王は既にこの場に出現しているという答案が出来上がった。
そして、自分の作り出した答えに意表を突かれて眼を見開いた。何も見えぬそこは、変わらず気分の悪い空気が充満している事しかわからない暗黒。だがどことなく、気持ちその空気が濃くなった気がした。おそらく、無意識で魔王が本当に現れたと思い込んだ所為だろう。人間の精神構造とは単純なのか、複雑なのか、少年にはよくわからなかった。
「魔力に派手な動きがあ――」
そして気がつくと、天空目掛けて黒い光の柱が伸び始めた。その付近にいる少年等は余す事無くその衝撃波や魔力の渦に飲み込まれ、身を崩した。肩を掴み体勢を整えてくれるシャロンさえも、激しい大気の乱れに自分を保つだけでやっとらしく、少年はあえなく台詞半ばにして大地を後にした。
――轟と唸る竜巻が、ハイドを中心として正方形を作る。魔力の影響が大気を乱し、大気が竜巻を起こし、ハイド以外の全てを、闇に包まれる大地の中ではあるが、方々に吹き飛ばした。
その時既に彼には自我が無く、その時既に、ハイドの真後ろに居たレイドは彼の前方に魔王の影を捉えていて――皆が竜巻に飲み込まれ、レイド自身の体勢が崩れた瞬間、細い閃光が胸を目掛けて放たれて……。
「しゃらくさいっ!」
半ば自動的に展開された魔法陣は的確に、穿たれるであろう部分に出で現れ、その身を高速回転しながら光線を弾き主人を守った。だが不測な速度で放たれる第二段は完全に防ぐ事は出来ず、レイドは深く右肩を抉ってしまう。辛うじて人間の肉体部分であるそこは強烈な痛みを発して、まるで熱湯をかけられたような激痛に行動が鈍った。
その、次の瞬間――全身から電撃を放出して膠着していた影が、いきなり黒い光の柱を消して、肉薄して、拳を突き出した。そしてそれは自然に、流れるようにレイドの顔面に突き刺さり――。
彼の意識はプツリと途絶え、その肉体が早速やわな左腕を半ばほどからもげさせ大地を弾んで、どこか、誰とも知れぬ場所で落ち着いた。彼が痛みから解放されると同時に、レイドが放出していた魔力が失せた事により、事態がさらに混乱の一点へと向かい始めた。
その時まで何が起こったのか、各地に散らばりながらも理解できていなかった候補生はそれでようやく現状を薄々と理解し始めて、そして――レイドが自分たちを一時的に全盛期へと成長させる、といった作戦が破綻した事を認識した。
それは同時に、決定的な敗北を意味していた。王都ロンハイドを中心にはぐれた彼らは、底知れぬ不安に陥りながら、健気にも元の場所を目指し始める。それが死を意味していようとも、未来に望んだ勝利という夢を現実に変えようとして。




