3 ――決戦――
第二局面――――。
まるで刻み込まれるように、それは自分の内なる声の如く耳に届いた。無意識の内にそう理解し、彼は立ち上がる。
動作は、戦闘を行うのならば致命的なほど緩慢。そして片手は左目が存在していた眼窩を押さえる故に塞がっていて、垂れ流れる血液の凄まじい量は失血死を連想させる。
――――時は遡り、帝國にてハイドが魔物を相手に全力を尽くしている頃合。
硬質化の能力を持つ魔族を倒し終えた直後である派遣教員は、乱れた呼吸を落ち着かせて残る魔族らへと立ち直っていた。
続いて、彼は手のひらに魔力を集中させる。しかし、それには敵意が無く。そのために、魔族は混乱しつつも戦闘態勢へと移る。その中で不意に、彼の手元から炎が漏れて――――。
「ぐぅっ」
男の、押し殺した悲鳴が耳に届く。
彼は自身が紡いだ魔術で炎を作り出したかと思うと、それをそのまま穴の空いた眼窩へ押し付けたのだ。妙すぎる行動に、とうとう自虐行為に性的満足感を得られるようになったのか、或いは頭がおかしくなってしまったのかと魔族は思考をめぐらせる。
人肉の焦げる悪臭が、鼻に届いた。
思わず顔をしかめる。鼻をつまもうと手を上げると――――不覚な一閃。
その頬の隙間を縫うように放たれたナイフは、トウメイの顔の薄皮一枚切り裂いて、背後のぬかるんだ地面へと突き刺さり、泥に塗れて完全に見失われた。
空から降り注ぐ雨は既に小雨へと変わっていて、彼が出した炎は小さくも、この状況では任意で消さなければ消えぬほどであった。
トウメイが男を見る。彼はナイフを投げたままの体勢で動作を止めていて――――その左眼窩は黒く焼き爛れ焦げていた、が。傷は火傷によってふさがれ、出血は失せたかのように思われた。
「第二局面、どちらが出る」
しわがれたような声が響いた。一瞬、それが誰のものなのかとトウメイは辺りを見渡したが、その直後に理解する。一気に歳を取った様な男は声だけでなく、その風貌は外見的に変わらぬものの、圧倒的な威圧が、彼の中で生まれていた。
人間とは――――。
「魔王様が危惧していた理由が、ようやく理解できた」
「うむ」
――――なんという成長性か。
歳は若いが既に成人らしく、力も、彼が本来普通の人間だったのならば、という仮定での限界は超えている。故にこれ以上伸びしろはなく、ただその力任せな戦闘に心配せねばならぬと言った程度だった男が、今正に、その考えを裏切った。
根本的な力や魔力は何ら変わらぬだろう。そして現在は能力も発動していないのだ。先ほどよりも圧倒的に弱い筈――――なのに。
「……あっ、おい」
吟味するが如く男を眺めているトウメイは、ふと魔族の背が視界に入った事に気がついた。口数の少ない、もう一体の魔族が、彼より先に前へと躍り出たのだ。
トウメイは彼を押し戻して自身が男と対峙しようかと思うのだが、しかし、男の敵は既にその魔族へとなってしまったようである。
流石に、この状況で横割して男と戦っても嬉しくは無いし、楽しくも無い。目的はそもそも学園都市壊滅であるために、彼を倒す事が絶対ではない。故に、どうせ戦うのならば、どうせこれほど強い相手だ――――自分の全力を、賭して見ても良いではないか。
彼は純粋にそう考えた。
「――――手加減は、無論無しで」
「うむ」
息を吸い込むたびに、必ず一度喉が詰まる。どれほど自分の身体が、現在の状況に追いついていないのか男は理解するも、やはり再び身体を酷使する以外の方法が見つからない。
脳がまともに動いていないのかと思われたが――――やはり、そうなのかもしれない。彼は心中軽く笑って、敵を睨み付けた。
途端に、突然魔族が肩を弾ませる。
その動作から――――付近に、何か強大な増援でも来たのかと考えたが、どうにもその気配も魔力も感じられず、耳を澄ましても足音はおろか風を切る音すら届かない。
聞こえるのはただ静かに、しんしんと降り注ぐ雨のしずくの音だけだった。
「命短し戦闘鬼……紅き拳の褪せぬ間に」
不意に、彼は歌を口ずさむ。それは倭皇国の歌を改悪した曲であった。そしてソレを言い終えると共に、男はぬめりの強い地面を蹴り飛ばした。
先ほどより地面は随分と動きにくくなっていて、その速度には一抹の不安が残り、
「ンぬッ!」
魔族の短い、悲鳴にも似た意気込む怒声。同時に彼が掻き揚げるように振り上げた指先から、何か弾丸のような何かが飛来してきて――――。
男はそのまま片手を前方へ突き出し、手のひらから魔法陣を展開する。白い色をした質素な魔法陣は簡単な魔法文字だけが刻まれていて、だが――――瞬く間に飛来した弾丸を、魔法陣は心頼もしく受け止めた。
窓を拳で叩くような鈍い音が大気を振動させる。太い拳で直接殴られたような衝撃が、魔法陣を支える腕に伝わった。痛みは無くとも若干怯まざるを得ない状況。ただ考えなしに突っ込んで勝てる敵ではないと彼は判断し、そのまま足を止めるとすぐさま飛び退いた。
魔族は一歩も動く事無く、弾丸らしきものを弾き出した格好のまま硬直している。どうやら、今対峙している敵にはまともな思考能力と言うものが欠如しているらしい。
しかし、逆にそれは彼の強さであるのかもしれない。考える力が圧倒的に無いが故に、ハッタリが通用しない。これより全力で相手を出し抜かねばならぬというのに、これでは随分とくたびれてしまうではないか。
「……、力をセーブする余裕は無い。ですか」
やれやれだと彼は首を振る。もうダメだと諦めて開き直るというよりそれは、精神の中で何かが吹っ切れたと言う心境が正しいだろう。
自分の命は魔族を残り一体残して潰えるかもしれない。だがその覚悟を持たなければ、その上で腹を据えて敵に掛からなければ、現在の状況で勝利を掴むなどといった事は夢のまた夢。
――――彼が呟くように口にすると、魔族は小さく頷いた。邪念を振り払うように首を振ると、
「全力……全開ッ!」
残る単眼が先ほどと比べ物にならない金色の輝きを放ち始める。それは眼球に収まらず、やがてはその全身を優しく、だが激しく雄雄しく、穏やかに包み始めた。
体内の魔力が随時大量消費される。残された時間を自ら食い潰していく彼は、そのまま少し腰を落とすと地面に手を伸ばし、ぬかるみ泥と成る地面を一掴みして――――低姿勢のまま、空気を切り裂くように腕を振り上げ、泥を投擲する。
破裂したゴム玉のように広がり空気抵抗を受けるそれではあるが、その空気抵抗故に泥はより弾丸らしく要らぬ部分を空気摩擦によって排除させ、高速度で宙を駆ける中でその身を小さく鋭く変化させていた。
彼はそれを続け様にいくつか投げる。一秒おき、二秒おき……。そして十数の弾丸が完成した頃、ようやく一番最初の泥が魔族へと到達した。
魔族はソレに対して何を思ったのか、それが肌に触れた瞬間にようやく動作を開始して――――額を狙う泥を僅かな動作で避け、背後へと送る。と――――その瞬間、今さっき避けた泥の弾丸が、全く同じ速度で魔族の背後から投げ返された。
が、既に地を縫うような移動を開始している男には、その特殊能力など今更関係が無い。突撃を開始した今、相手がどのような効果を持つ能力を持っていようが退路など無いのだ。針路変更など、許されない。
二弾が既に”背後にある何か”に弾き返された。魔族は弾を避けるだけで他の動作は無いが、少なからず男の行動には気がついていた。しかし反応を見せないのは何かを考えているのだろうか。
否、何も考えていないのだろう。
考える必要が無い。勝てるという、確固たる自信ゆえの態度であると――――男はようやく、この魔族は考える力が無いのではないのだと、理解でき、
既に四割もの弾丸が頭上を過ぎるが、その全ては魔族に傷一つ付けることが出来ていない。少しでも重心をずらせば転んでしまいそうな地面も、残りの弾丸が全て魔族へと到達する頃には関係が無くなる。
男ははやる気持ちを抑えながら慎重に、だが迅速な行動を続ける。
そして一定の距離まで移動を終えたところで、彼は重心を大きくずらした。視界が揺れる。身体が全体的に前のめりに倒れ始め、意図した結果に彼は大きく腕を振りかぶり――――拳を力いっぱい、地面に叩きつける。
人並みの衝撃を持つ拳は、表面の水分を多く孕む泥に触れた瞬間――――それは本来の倍以上の衝撃を受けて、周囲の泥を巻き上げた。
まるで岩石を投擲された水面の如く。水柱が上がるように泥が辺りに飛散する。同時に、魔族は男の所在を見失った。
泥を吹き飛ばした地面は、先ほどとは比べ物にならないくらいしっかりとした足場になる。そうすれば、ただ一度の跳躍で相手へと肉薄し、その顔面への一撃に全てを撃ち込むだけだ。残った手段は既に無く、だが、現在この状況を作れた時点で彼は半ば勝利を掴んでいる錯覚を得ていた。
「ぬぁっ!」
それが――――決定的な隙を生んだ。
辺りに飛び散る泥が、一瞬にして吹き飛んだ。それは余す事無く上空へと、他力によって叩き上げられ、上昇気流が身体を包み――――足のバネを解き放とうとした瞬間、
「……ッ!?」
魔族の足を止めるべく放った泥の弾丸が、放ったときの速度、威力が全く異なった状態で、瞬く間に心臓を狙うように肉薄して――――。
それは、不意に目の前に現れた影によって弾かれた。
小雨の中、彼が放つ金色の輝きに美しい刀身が煌めいた。泥の弾丸は振るわれること無く両断され、彼は今、自分の身に何が起こっているのか理解しえずに呆然とする。それが、今この状況でどれほど命取りであるか考えられないくらい、それは信じがたい事だった。
「能力は……空気を操るって所じゃあないですかね。先の弾丸と、泥を弾き返す手段……自分で言うのもなんですが、妥当だと思うんですがね」
背後から、妙に冷静ぶった――――皇帝を彷彿とさせる声が聞こえた。その言い回し、口調、全ては完全に異なるのだが、なぜだか脳裏にそう浮かんだ。
魔族の動きが停止する。どうやら、何かに警戒しているらしいと男は睨んだ。ただ、それが何に対してかまでは、考える余裕は無い。
「拙者の刀では弾かれてしまう恐れがあるで御座る……」
すぐ目の前で、刀身の付け根だけを抜いた刀を鞘に戻し、ちんと音を鳴らす彼は振り返らずに口を開く。やや落とし気味だった姿勢は立ち直り、その慎重は男よりも若干大きいくらいであった。
「俺の棒は今無ェから――――」
「だからついて来るなって警告ったんだよ、え? わかるか? あたしの言ってる事……」
まるで危機感の無い声に、一応は緊迫するものの、今現在の状況と比べるには到底馴染んでいない、透き通るような声が耳に届く。
魔族は微かに後退する。戦闘範囲から離れている魔族は、対照的に交戦するような体制へと移り変わった。
「まぁまぁ、一体も倒せなかった我々が、今正に二体も相手にしようとしているんです。今だけは、目の前の敵に集中しましょうよ」
――――呪縛にかかったように動けなかった身体は、停止していた思考は、その台詞を、否、その声をきっかけとして全てが全開稼動し始める。
そうした直後、男は驚いたように身体を力いっぱい振り向かせて、真っ先に口を開く。まるで振り向く事を知っていたかのように、彼はその先に居る少年と眼があった。
「最弱が、なぜこの状況に……」
それは嫌味や悪口ではなく、そもそも彼の名を知らぬが故の呼び方であった。そんな言い草に、少年は嫌悪を抱くわけでもなく、ただ当たり前のように、口を開いた。
「将来に、役立てようと思って来ました」
学生の自己PRだとすればまず普遍的過ぎて除外される返答をした後、彼は純粋な笑顔を見せた。
男はなぜだかソレに力が抜けて、ただ頷き、膝から崩れていった。




