ACT7.『総力』
「やれやれ、コレではこの間の事がまるで余興だったみたいに見えてしまうじゃあないか」
時は夜。まだ日が落ちたばかりの時間帯……といっても、落ちる日は顔を覗かせていない。
灰色の、濁ったような雲が広がる空から降り注ぐ大粒の雨が、身体に粘るように張り付いて衣服を濡らした。
生温い液体だ。だが然程、気分の悪いモノでもない――――。
彼は白衣を脱ぎ捨て眼鏡を外し、ポケットにしまい込みながら静かに呟いた。
誰かに言い聞かせたわけじゃない、ただの感想らしきその言葉は――――”彼ら”を出迎えたようにも聞こえた。
――――それは並んで、深淵の如き谷を思わせる闇の中に、さらに影を作り出す存在。
緩慢な動作で”空”から降り立つそれらは三体であり、どれもが十分すぎるほどの魔力を放ち、男を警戒していた。
「この間の事があっての今だ。奴のお陰で人間が滅びるのがほんの少しだけ早まった……ただそれだけの事よ」
並ぶそれらの真ん中に立つ魔族が返答する。その際に、男の瞳は不意に――――金色に染まり始めていた。
彼らが相対する場所は、学園都市よりややはなれた道。どれほど――――以前の襲撃ほどの戦闘が行われても、都市には全く影響の無いくらいに離れた位置である。魔族らは、男が単体で挑みに来た事を知って、丁寧にそこへと降り立ったのだ。
何を考えているのか、彼には分からなかったし興味も無かったが、思惑通りに行ったことだけは感謝すべき事であると理解している。だから彼は――――シャロンの代わりに学園へと派遣された帝國兵である彼は、全力を以って魔族の相手をしようとしていた。
「私にはどうでも良い事ですが。……なんにしろ、私がここに居る理由はお分かりいただけますかね」
金色に染まる瞳が光を放つ。彼が纏っていた魔力が、爆発的に増大した。
魔族らは一様に戦闘態勢へと移り、彼も次いで拳を握った。
――――王都ロンハイドと貿易都市ハクシジーキルをつなぐ道の中間へと送られた男たちは、ハイドが疑ったように、魔族の細胞を生み込められた実験体であり、半ば成功したと判断された存在。
肉体は強靭で、力を込めれば魔族ほどとはいかぬものの金属の如き硬さの肌を持つ。だが、対魔族として利用するならばまだ不完全であった。
ならばなぜ彼らが前線へと送られたのか。
その答えは、少しばかり考えれば容易に導き出される。それは無論、戦闘による実験結果を得るため、なのだ。
「貴様……、その瞳、人間のもので無いと見受けられるが……」
「ご推察の通りで」
男は含んだ笑みを浮かべた。問うた魔族は、闇をも見通すその瞳で彼を睨み、歯を噛み締めた。
ぎりりと奥歯が音を鳴らす。
彼の脳裏で、聞いただけの話が蘇った。
――約二○○年前、今回『実験体』として完成を見せた、魔族の細胞を生み込められた人間とは別の研究が行われていた。
それは眼球、角膜、あるいは脳や、四肢の一部を切除し、魔族の物と挿げ替え機能するか否かの技術研究。そしてその多くは失敗し、数え切れぬほどの”損害”が出たといわれているが、史上では決して語られない歴史の一つである。
しかしたった一つだけ、幾度かの実験の中でより成功する可能性が高く、魔族の力を得る兆しを見せていた箇所があった。
それは眼球。
移植の際に、殆どのものが眼球を移し変え終える前に死してしまうのだが、手術成功後、殆どの者が一週間以上を生き延びた。四肢から魔族の血を取り入れた場合はそれが原因となり一日と持たずに死に絶えたのにも関わらず、その実験体の死因の多くは力の暴走による自滅だった。
これはほぼ力を手に入れているという事を意味し、その際に放つ暴力は、人間が持たぬはずの『特殊能力』だと言われているが――――彼にはそこまで詳しい話は知らなかった。
そしてその話を思い出したからこそ、魔族は確信した。今目の前にする敵は、同胞の力を得て我々の前に立ちはだかっているのだ、と。曲解すれば、仲間を前にしているのと同等の事実。
群れぬ事が基本である魔族である筈なのに、彼は自分の心臓が高鳴ったのを感じた。
「ふ……。某、幾星霜の時に身を置く中で、まさか今初めて得る感情があろうとはな、些か、衝撃的である――――貴様は、許せぬ」
――闇を見抜く魔族に対峙する人間は、夜と言う状況においては不利だと思われた。
だが、彼は違う。魔族の眼球を得た男はやはり魔族と同様に闇を見通す。次いで、魔族と同等の特殊能力を得たり。肉体もそれに続き強化変態し、内なる筋肉は鋼の如し。
見動けぬ二体の魔族を放置し、彼らは、まるで世界に一人と一体、それだけが残されたような静寂さ――否、豪雨の中の孤独さを肌に感じながら、彼らだけの空間を認識した。
雨もやがて感じなくなる。世界が明るく照らされたと思われた。
それらは同じ認識を得て、そして立ち直り、構えなおす。
そうして短く息を吸うと――――帝国兵の派遣教員は強く地面を弾き飛ばした。
風を切る。
弾丸の如き速度で躍り出た彼は、動かぬ魔族へと瞬く間に肉薄する。男は心中警戒しつつも、その拳を前へと突き出そうとする――――その動作の中で、
「温いわ」
不意に、前方から魔族の姿が失せた。
――息を呑む、行動をキャンセルするかどういった動きへと変更するか、考える余地も無く胸の下あたりから声が響いた。
身体は無意識の内に地面を蹴り飛ばす。
身体はバランスを失い倒れ駆ける中で、ふわりと上空へ打ち出され――――身体を一回転させながら魔族からやや離れた位置で、彼は柔らかく着地した。
粟立つ肌に嫌悪を覚えながら、乱雑になる鼓動を抑えるために胸へと手を当てると、ぬめりがある暖かい液体が手を染めた。
「いやはや、鋭いな」
視線の先には、勝利を掴むように片手を高く振り上げる魔族の姿。先ほどとの違いを挙げるとすれば、振り上げている片手が手を形成していないという事であろう。その左腕は、鋭い槍形態へと変貌していたのだ。
そして身体は金属のような光沢を持ち、歪曲した二本の角を残し頭部は流線型に、まるでヘルメットでも被ったような形へと変わっていた。
――――鍛え抜かれた肉体は、武器を持たずともそれ自体が武器となる。
よくそんな事を言い、聞く。だが今対峙している魔族は、その武器たる肉体が正に武器となりえている。何を言っているか不明瞭ではあるが、魔族の身体はそのままの意味で武器なのだ。
「貴様も中々鋭い。そう、貴様の考える通り、某は全身が金属也。鋼鉄にもアルミ変質させる事が出来、また肉体変形も自由自在」
故の槍形態。そしてこれより恐らく、様々な形態を以って男と対峙するだろう。
鋼鉄並みの筋肉と、そのままの鋼鉄であれば前者のほうが圧倒的に優しい。男は小さく舌打ちをして、胸へと手を当てた。そこは仄かに光り始め――――やがて出血は失せた。
「仕方が無い……。まだ見せるには早いと思っていましたが、貴方が最初から能力を出してくるのなら私も見せましょう」
そう告げると共に、その瞳はさらなる輝きを増し始めて、魔族はそんな不意の現象に思わず光を腕で遮ると――――。
「戦闘中に敵から目を離すとは随分と」
腹部へと凄まじい衝撃。鈍い痛みが緩慢に透過して行き、何が起こっているのか知覚する間も無く、金属故にかなりの重量であるはずの肉体を勢い良く宙に滑らせ、彼は背後へと吹き飛ばされた。
「余裕がありますね。或いは、未熟と言った方が正確ですかね」
彼の拳は金色に輝いていた。
共通の認識のみで作られていた空間は、気がつくと失せていた。再び深き闇の中、その全てを飲み込み喰らい尽くすその中で、まるで全てを救済する如き光は腕を始めとして、彼を照らし続けていた。
どこかで鈍く深く地面を唸らせる音が弾む。大地が微かに揺れたのを感じて、彼は左手を軽く眼前に、そして右手で拳を作って腰へと引き寄せた。
能力を駆使し始めた彼らの戦いは、一撃ごとに命を削る。そしてそれが直撃れば、死を免れぬ勢いである。
だから彼は、全身全霊を込める。
――私はまだ死ぬわけにはいかぬのだ。
呼吸が不思議と落ち着いた。前方から漸く、全てを切り裂き大地を削りながら迫る魔族が肉眼で捉えられた。
そして気がつく。
敵には四肢が失せている事に。
否、正確にはその五体が完全に失われていて――――その身体は、『巨大な鉄球』と化していた。
完全な流線型は風を受け流し、抵抗を受けることなく更にその速度を上げていた。最早拳などは効かぬだろう。腰に差したままの拳銃も、鋼鉄の肉体に効かなくもその口の中ならば効果を発揮したと思われたが、今の状況ではガラクタ以外の何物でもない。
ならばどうしよう。この鉄球をどう対処しよう。
思考する間にそれは凄まじい速さで肉薄する。だが不思議と、心は穏やかなままだった。
無論、諦観の末の心情ではないし、だからといって完全に勝ち目が在る現状と言うわけでもない。
「正々堂々」
彼は呟くと、
「推して参るッ!」
鉄球は彼の数歩手前で高く飛びあがった。激しく地面が揺れて、天に昇るが如く跳んだそれは瞬く間に五体を元に戻し――――飛び上がった位置へと降り立った。
また地面が、鈍い衝撃で微かに揺れた。
「貴様はこの手で打ち破りたい。純粋にそう思っただけよ」
「私が拳で貴様を殴り飛ばしたからか?」
「如何様にでも受け取れ。ただ――――某の微かな邪心は消え失せた。それだけは承知しておけ」
だとすれば、彼は更に強く、隙が無い。そう考えて間違いは無いだろう。邪心は心を揺する。迷いを覚えさせる。故に、戦闘能力にブレが生じる。
それが失せたのだとしたら――――。
思わず身震いがした。これは恐怖などではなく、武者震いという奴だろう。
全ては短く潔く、良くも悪くもこの一撃で終えるだろう――――。
魔族が構える。彼も同じく構えなおした。
距離は、両者の拳が十分届く近さ。
乱れぬ呼吸は自身を落ち着かせ、見開く朱色の瞳と、金色の瞳は他者に威圧を与えた。
時が止まっている――――そう感じ始めた時に限って、魔族の肩がピクリと俄かに弾んだ。
――これは罠か、単なる隙か。後者ならばこちらの圧倒的有利となるが、前者ならば……。
無論、迷う暇があるならば――――叩き込む。
腰にひきつけた拳が、バネでも仕込んでいたのではないかと自分自身で疑うほどの勢いで魔族の顔面へと向かう。その直後、間髪入れずに魔族も拳を弾き出した。
両者の拳は交わる事無く目標へと向かう。顔面へ、闇の中に更なる影を作る拳が高速度で迫る。彼はそれを捉えながら、上腕により力を込め、衝撃を与える予備動作を行った。
空を切り裂く拳はいよいよ眼前へ。そうする中で、彼はようやく首を横へ逸らし、攻撃を避ける――――否、避けようとした。
――――その際には既に、全力を込めた拳は敵の顔面を捉え、衝撃を与えていた。顔面にひびが入った感触が、皮膚が裂け血にまみれる拳に伝わった。
だが同時に、首の横を通り過ぎていくはずだった拳は、彼がそう行動すると途端に左右に裂けて――――刃が外側側面から突き刺さった。
「ぐああっ!」
流れるように左眼球を貫いた。
踏み込むが故に刃はさらに眼窩を砕き――――彼の打撃によって後退する魔族は、また眼窩を砕き皮膚を切り裂いて、眼球を刃に突き刺したまま顔面から離れていった。
瞳が放つ金色の光が消えて失せる。彼は咆哮に似た悲鳴を上げながら、眼球があった箇所を押さえて膝を崩した。
鋭い痛みが凄まじい熱気へと変わる。
融解した鉄を眼窩に流し込まれているような焦熱が彼を蝕んだ。瞬時に催す吐き気はそのまま直結して口から異物を吐き出させ、流れ出る血液は押さえる手を縫って出て大地を潤した。
だがその叫びも血流も吐しゃ物も、この豪雨の中では全てが掻き消される。虚空へと流れ、元々無かったものへと変質する。
――――魔族は男の咆哮を耳に届けながら、失せた顔の右半分の、そのぎこちなく雑な切断面をそっと撫でた。
金属化していた故に痛みは無いが、痛みが無い故に自分の限界が知れない。ここで能力を解けば脳が元に戻り死んでしまうだろう――――が。
彼の意識は既に朧だった。切断面を撫でる指先の感覚すら既に無く、男の打撃にこれほどまでの威力は無かったはずなのにこうした致命傷を与えられた事に疑問を持つ余地すらなかった。
彼の能力は硬質化。そして男の能力は『衝撃倍化』。自身が与えるはずだった衝撃を、その瞬間に倍化させる能力。身体強化系の一種である。
魔族はソレに気付く余裕は無く、自身が空を見ているのか地面に埋もれているのかすら定かではない。
豪雨に打たれて行く中で、彼は自分が意識を失った事にも気付かず――――男の咆哮が止んだ頃、魔族は顔面の切断面から脳みそを地面に落としていた。
――――第二局面が、すぐさま執り行われようとしていた。




