2 ――再会――
「――――ようやく来たか、随分と早い様だが……護衛に付けた者はどうした?」
天窓から降り注ぐ鈍い光。雨は天井を打って籠った小さい音を耳に届かせるが、そう気になるものではなかった。
魔族としての身体を隠すわけでもない彼は、ボロボロに破け所々漆黒の皮膚が露出している姿をそのままに、白々しく微笑む男を睨み返して舌を打つ。
「アンタはいつもそうだ。二○○年経っても何も変わりゃしねぇ」
苦く辛く不味い物を吐き出すように表情を歪めると、途端に相手――――レイド=アローンは薄ら笑いを拭き消して、眩しいものでも見るように目を細めた。
一体彼が何を考えているのか一本角の魔族、ハイド=ジャンには理解し得ないが、どうやら話を真面目にする気になったらしいと、それだけは把握できた。
「貴様もいい加減落ち着きを持て……と言いたい所だがな、私はそんな説教じみた事を告げるために貴様を呼んだわけではない」
「んなこたぁ分かってんだよ」
苛ついた様子でハイドが返す。レイドはそれに軽く笑って、肩から垂れる中身の無い袖を微細に揺らした。
「実はつい先日、魔王に襲われたのだ。その際に私とシャロンが対峙したのだがな……、この有様だ」
その腕があった部分を意図的に見ないようにしていたハイドは、彼がそうやって肩を突き出し袖を揺らすので、少し視線を移してから、また直ぐに彼の眼を見る。次いで、口を開いた。
「アンタなら腕の再生くらいワケない筈だろ?」
彼は肉体の時を戻して自身を若返らせる事が出来る。故に寿命で死ぬ事はありえない。だがそれとは別に、純粋に腕を再生させる術くらいは持っているであろうと彼は考えたのだ。なにせ、数百年も昔から世界最強の魔導士の名を呈しているのだ。その位の力が無ければ逆に、本当に最強なのかと不信感を抱くほどである。
だが彼は首を振った。それは余裕があるモノではなく、物悲しいような、自分の無力さを思い返したような表情が一瞬過ぎって、彼は直ぐに鋭い視線を突き刺した。
「その形を作って維持する事はできる。肌の色も、質感も、その全てを似せて作り出す事は出来るが、有機物としての腕を、身体の一部を作り出す事は現在の魔法技術では不可能だ。最も、仮に出来たとしても私は治す気はないがな」
「なんでだ?」
「これは私の油断が招いた結果だ。そう簡単にソレを忘れるべきではない」
「律儀な野郎だ」
吐き捨てると同時に、レイドが立ち上がる。ハイドが思わず構えると、彼はいつからか、先ほどと同じ薄ら笑いを浮かべていた。
「貴様は再会しなければならない人間が居る」
立ち上がる際に揺れる袖に目が行った。それは酷く痛々しく、そして余りにも弱々しく見えてしまう。覇気が失せているような気がする。彼の事が嫌いなハイドでも、それがどれほど相手を侮辱する行為だと分かっていても、同情の念が胸の奥で渦巻いた。
そうしながら彼の言葉を脳に刻んでいると――――不意に、視界が暗転した。
――――"ソレ"が横たわるベッドは壁際にあり、すぐ其処には窓が在った。窓ガラスは雨に打たれて解像度は最悪であったが、空の色が灰色である程度は窺えた。
其処は、心の準備を行う為に目的地よりワンクッション置いた場所であるとハイドは勝手に予想していたのだが、それに反するように其処は彼がハイドに再会させたい相手が居る場所であった。
――――だが、其処には、ベッドに横たわる一人の女性以外誰も居ない。だからレイドが会わせたいという人間は彼女しか居ない筈なのだが……。
その身体の下半身部分、恐らくへそより下部分の布団にはふくらみが無かった。まるでその部分には下半身が無いように布団はそのまま敷布団と接触しているらしかった。
何がなんだか分からない。一体どんな原理なのか――――そこが在るという前提で考える故に、ハイドの思考は停止した。
「彼女も私と同じだが、こうなってからは、一度も目を覚ましていない」
点滴を吊るす柱が蛍光灯の光で鈍く光る。レイドは無表情でそう告げた。
彼女、と言われてハイドは再びソレを見る。よく見ると、確かに女性らしく胸の辺りが豊満そうに布団を押し上げているようだ。だが、向こう側、壁を向くその顔は見えないので、それが誰なのか判別が着かない――――筈が無かった。
その耳は鋭く尖り長かった。
壁には紅い鱗に装飾された鞘に納まる、薄汚れたような長い剣が盾と共に立てかけられていた。
静かな息遣い。それは覚えのあるものだった。
「…………ッ!」
言葉が出ない。
混乱が疑問を招き、その疑問は更なる混乱を彼に孕ませる。
何故彼女が被害を被ったのだろうか。一体どんな攻撃を受ければこの状態で命を取り保っていられるのだろうか。これを見せて、どうするつもりなのだろうか。
頭の中で情報が錯綜し、疑問を言語化できなかった。
悲しめばいいのか怒ればいいのか、素直な感情を吐き出す事も出来ぬまま。
その心は不思議と、冷静さを取り戻し始めていた。
「疑念すら呈し得ないほどの衝撃か」
最初から凍えるほどの冷たさを持っているレイドは言葉を、常より若干優しく角を潰して投げた。いつもならそれを全力で叩き落すハイドであるが、今回ばかりは頷くしかない。
「魔王はテンメイと同じく喰らう事で、その対象の力を得る。今までに見なかった能力だ。奴は自身の影を操り偽者を作り出すことも出来る。そしてそれで、対象を捕食する事も可能だ。私と彼女……"シャロン"は……」
レイドは言葉を濁した。次を言いたくないのではなく、説明している最中でその時の事を思い出して、自己嫌悪しているらしかった。
だからハイドは妙な間を空けないために、続きに口を開いた。
「んなこたぁどうでもいいんだよ」
レイドの歪んだ表情が一瞬にして締まり、敵意を含む鋭い視線が胸を突き刺した。だがハイドは構わず、
「俺をここに呼び寄せて、一体何がしたい? 魔王を倒す実力はあるだろうが、資格までは持っちゃいない」
彼は今より一つ世代が古い勇者である。だがそう考えれば、魔王もまた古い世代の生存者。
しかし新世代のソレが存在しない限り、彼は半永久的に最先端となり得る訳であり、つまり結局は今の世代の人間が倒すべきなのだ。勇者は必ず後継者が生まれるが、魔王は隔世的にその存在を唐突に現わす。それが、運命で繋がれる両名との、一番とも言える違いであった。
だから自分は魔王を倒す資格はない。そう告げたし、レイドはもとより承知なはずだ。
最も、この時代だとか世代だとか等の関係は勇者や魔王に限るものである。絶対的に護らなければならない、というわけではないが――――どちらにせよ、今のハイドには魔王との直接対決が出来ない理由があった。
「俺に感情の昂ぶりを促して、そのまま全てを終わらして貰おうと考えたのか? アンタ、今回の事でもう落ち目なんじゃないのか?」
ハイドは続ける。しかしその実、彼は以前――数百年前――よりもキレや冷徹さが失われている気がする。それはまるで若い頃、尖っていた少年が成長すると共に性格的に丸くなるように。
それは自分にも当てはまると感じていた。
以前はすぐに周りが見えなくなっていたが、今ではすぐさま冷静に状況を確認する事が出来る。敵の力と自分の力、その差を見極め戦術を咄嗟に作り出す事が出来るようになっていたが――――そんな自分が、今は途轍もなく嫌いであった。
「変わったな、貴様は」
だから、そう言われてもまともな返しすら浮かばない。
「変わりたくもなるさ。いつまでもガキじゃいられない」
「シャロンが目を覚まさなくて良かったと、正直思っている。そんな私を下衆だと貴様は蔑むかな?」
「俺にはそれが出来る資格はない――――」
シャロンはハイドに幻想を抱いていた。別れてから一度も再会することはなかったが、彼女が彼を忘れる事は無かった。その強い思いは、先代の勇者よりも遥かに強かっただろう。だがその思いは、その時の種類とは若干異なった。
槍を得意としていた彼女が、紅い鞘の剣を愛用していた事が、まずその証明となる。最早伝説となり得る使い古したその剣はだがしかし、刃こぼれはあるものの決して扱えない代物ではなく、現役の武器であった。
それは手入れや補修を欠かさないで居たという事の証明となり得る。
だがそんな彼女が思い描いたのは、数百年前のハイドである。若く回りも見えず、ただ自分が望む事だけを一直線に求めた青年。伊達である勇者の名をものともしない、適性できない時代に下克上を突きつける彼を、彼女は想っていた。
ハイドは今ここに来てソレを理解し、そして今の自分を抹殺してしまいたい衝動に駆られた。
自分は変わってしまった。自覚はそう大きいものではないが、他人から見れば別人と思えてしまうほどであろう。
「資格が無ければ貴様は何も出来ないのか? 貴様はッ――」
徐々に震え肥大化する声は、開く瞳孔は、一瞬にしてハイドを威圧し、
「――お前は、ハイド=ジャンなのか?」
――――怒りが一周し声が冷めた。不意に胸が、その声を幾度となく繰り返しはじめた。
彼の瞳は本当に疑わしきものを眺めるような視線を放っていた。ハイドは思わず、呼吸をするのも忘れてしまう。
何も言えずに、ただ間抜けに口を開いたまま、どう返答すれば良いのかも分からず、動きを止める。
「――――成る程、貴様を先に此方へ寄越して良かった。同じ"最後の選ばれし者"同士の魔王と勇者で在る故に、貴様はその資格を持てるかと、思えたのだがな。貴様は違う。いや、買いかぶりすぎたのかも知れぬな」
レイドは勝手に何かに納得した。そしてこの後、ハイドの後輩にあたる者――――即ち勇者候補生を判断してもらおうと考えていたレイドはすぐさま予定を変更し、頭の中で再構築していく。
「すまなかったな。今日の事は忘れてくれ」
本来見せる筈の無い、他者に向ける微笑を彼はハイドに見せた。それは即ち――――今までハイド=ジャン個人と見ていた存在を、その他大勢と同等に見始めた事をあらわしていた。
自分の情けなさに頭が混乱する。こんな状況では、一体何を口にすれば良いのか判然としなかった。
何故人と人との関係はこれほど面倒なのだろうか。あの時は、これが苦ではなくむしろ楽しかったのであるが、そう感じる事が出来ていた自分が理解できず信じがたい。
これは良くも悪くも、魔族に近づいている、という事なのだろうか。そして現在、それに相反するようにテンメイは人間に近づいている。
何が、起こっているのだろうか。
今更になって何故、忘れ去られ人間から忌み嫌われる姿となった元勇者の現在魔族の俺が、頼りに――――否、利用される?
「ざけんなよ……」
「好きな時に出て行くと良い」
彼はそれだけ言って、その場から姿を消し去って――――。
「ふざけんなよッ! なんなんだよ! 今更になって頼りにしやがって……、力があるっつー理由で利用するならまだ分かるがよ、移り変わった内心が思ったのと違うってだけで、存在否定すんじゃねェよ……ッ!」
ハイドの叫びは白く染まる壁に跳ね返された。恐らく、レイドには最初の一言すら届いていない事だろうし、仮にこの場に居たとしても今の彼がまともに話を聞くとは到底思えない。
騒げば恐らく看護師か医者が驚いてくるだろう。だが彼は構わず、頭を抱えながら口走っていた。
「何でいつも時代が合わねぇんだよ……、今になって俺に、何も求めんじゃねぇよ……ッ!」
理解したくもない現実に、自分はトコトン神様から嫌われているのだと知った。だが同時に、彼は知っている。
この状況では誰も悪くは無い事を。
レイドは自分なりに状況を良くしようと彼を頼ったのだ。無論、それは勇者だとか魔族だとか関係無しに、昔のよしみで協力してくれるよう頼むためだろう。
だがそうされたハイドは、彼が思っていた昔とは大きく違った。悪い意味で、冷めていたのだ。だから彼は混乱した。今と昔で存在が食い違う同一人物に、彼の脳みそは致命的な欠陥を作り出しかけていた。
そして感情に流されるままに発言し失言する前に、彼は退室したのだ。けれども既に放たれていた台詞は、十二分にハイドに傷を作り出していた。
「シャロンさん……俺ァ一体、どうすりゃあいいんだよ……」
胸に虚しい穴が空いた気がした。
呼吸が荒くなる。心臓がやかましく高鳴るのにも関わらず、まるで死ぬ一歩手前のように、孤独感だけが大きく広がっていくのを感じた。
だが涙が流れぬのはやはり魔族だからであろうか。それとも人間の心を忘れてしまったからであろうか。
ハイドは虚しく、そっぽを向いたままである彼女に問いかけた。今にも悪戯っぽい笑顔で振り向いてくれる彼女の幻想を頭の中で何度繰り返そうとも、それは現実に反映されない。
静かな吐息が耳に届く。それに頭が反応して、記憶が――――思い出が、蘇ってきた。
――あの何も考えなかった少年時代。
――王国と呼ばれていた時代の故郷を追い出された青年時代。
――自分を想ってくれる少女と出会ったあの頃。
――まるで兄弟のように接してくれた鍛冶師の男と出会ったあの日。
――好敵手と呼ばれる魔族と出会い、そして様々な強敵と拳を交わした旅路。
――そして――――寿命が最も近く、多くの仲間が死して行くのを共に見た、彼女と旅をしたあの日々。
「……決して、仲間は多くは無かった」
だが楽しい日々だった。
「いつからだろうか」
自分の人生が義務的に感じ始めたのは。
ハイドはそう虚空を見つめながら呟いて――――声も無く涙も流さぬまま、泣いた。




