第一章 『魔王降臨』
その世界は、巨大な国家と都市、それと小さな町や村で構成されていた。
二○○年前に一度、魔物と魔族の大群がとある帝国へと進軍して以降、そんな暴動も大きな戦争も無く平和に包まれていた。
東と西。大きな二つの大陸は、まるで対立するように海を隔てて存在している。西の大陸は主に魔物発祥の地とされ、魔法においても魔物においても、その数や原始が多いとされている。また東の大陸はあらゆる技術において一目を置かれることが多い。例えを上げるならば、上等な武具がすぐさま上げられるだろう。
四○○年前、まだ魔王が世界を支配していた時代。それが居住としていたのは西の大陸の遥か北。列島の様に連なる孤島の中の一つであった。
「……やはり、不気味ですね、博士」
北極海の闇が晴れぬ大地が見えるそこに降り立つ二人の男は、そう不安げに感想を漏らしながら、その昔、勇者と呼ばれた選ばれし者が魔王との死闘を繰り広げた場所を眺めていた。
そこは見事なほど何も無い荒野だった。
空からは明るく陽光が大地を照らすが、どんよりと停滞するような、動きの無い空気には、雰囲気的に不気味だという心情を抱かざるを得ない。
痩せた大地に、岩が剥き出しで痛々しい。草木は一本も生えておらず。地面には妙に深い溝があるだけなので、若い男は不気味さに身を抱きながら、眼鏡を掛ける白髪の、白衣を着た”博士”と慕う彼の後を追った。
「ここでは多くの人間が死んできた。手を下したのは間違いなく魔王であるのは確実だろう。それを救ったのは我等が光、勇者――アラン=ジャン――だが、彼にも、その強大過ぎる魔王を打ち負かすことは出来ても、この世界から消し去るまでの力は無かった」
脳内に刻まれているモノを反芻するように言い聞かせながら、やがて彼等は島の中心部へと到達する。
酷く狭いそこでは、数分も歩けば辿り着くことが出来て、その中心には、記念碑の様な巨大な岩が、無骨に空へと聳え立っていた。
その周囲には、ただ漠然と、魔法陣の中に見えるような魔法文字が、そこいらに無造作に刻まれている溝のように描かれている。ただそれだけの場所で――――だが、ただそれだけ故に、男の身には更なる恐怖が襲い掛かった。
意図が分からぬ巨大な人工物ほど、その心をかき乱すものは無い。少なくとも彼はそう考えていた。
「だから彼は自分の命を使って封印した……。この魔法陣の大きさが、彼の強さとも言われている」
「……魔法陣って、どれです? 魔法陣ってのは、輪が重なって――あのような、魔法文字で構成されるモノのことでは……?」
「……、君は――」
博士は少し言い淀んでから、軽く咳払いをする。
男はその最中も思考を巡らせているのだが、どうにもこの不気味な雰囲気に気圧されて常の調子が出ずじまいである。
それはまるで、試験中に襲い掛かってくる腹痛のように。
「君は見なかったか? この島全体に走る深く広い溝を。アレは埋めようとしても決して埋まらず浮き出る――――島を覆い尽くす魔法陣なのだよ」
「えぇっ、そりゃ嘘でしょう。博士、魔法陣はそりゃ消えないでしょうが、四○○年もの間、魔力を持続させることが出来るはずが無い。そうでしょう、博士?」
「命を賭した彼はそれほど強大だと言う話だ。最も、その底の知れなさは今の技術を計ることが出来ないがな。話によれば――――勇者の血は二○○年前に途絶えたという話もある。事実であるかは分からぬが、事実、二○○年前に勇者が急に行方をくらました以降、その存在と、その子孫と思わしきものは発見されていない」
「でも博士。封印って事は、完全に魔王を殺せているわけでは無いのでしょう?」
「あぁ。だが拘束するという事は同時に相手の力も衰えさせると言う事だ。減衰こそすれ、力を取り戻すことなどしやしない」
そこでふと、博士はこの孤島へやって来た目的を思い出す。決して失念していたというわけではないが、助手の質問責めに行動できずに居たのだ。
――――かつて居た勇者がその封印を持続させている。それが実現できている原因には二つの憶測が上げられる。
まず一つは、先ほど述べたように命は重いという事で、勇者の凄まじい魔力と、魔王の弱化が相乗効果を成して維持できているのではないか、という事。
そして次に、この大地から魔力を吸い取り、魔法陣へと変換しているのではないか、という事である。
魔力は精神のエネルギー化したモノだといわれている。それが一般論であり、また絶対的にそうであると信じられてきた。
だがこの博士、今までの研究に次ぐ研究の結果で、ふとその魔力というものが見えてきたのだ。
まず始めに、疑問が浮かんだのだ。
なぜ精神を簡単にエネルギーへと変換できるのか、それを電気やその他燃料へとも変換できないのか。なぜ、視覚的にソレを捉えることも、気配として察知することも出来――――魔法という、超常現象を起こすために必要不可欠なモノと成り得ているのだろうか。
そして流れるように、推測が浮かび上がる。
もっと、人間にも、魔物にも、魔族にも、そしてこの大地にとっても、精神などという人間が作り上げた言葉などでは表現しようも無いくらい、それは想像を絶するほど複雑で――――驚くほど単純な、本質的な何かなのではないか。
――――この島への訪問は、その疑問を解決する、また新たな真実を紐解く契機となるかも知れない。
彼はそう思って、ココへとやってきたのだ。
「きょ、教授。それ以上近づくと危ないのでは……」
魔法文字の数がより多くなるそこを踏み越えて博士はその、記念碑じみた封印石へと近づいて行く。
そこには魔王が封印されていると聞く。この岩自体が”そう”なのか、中に閉じ込められているのか、その下に埋められているのかは定かではない。
だが――――なるほど。これは確かに、何も無いが故に威厳を持ち、同時に見るだけで背筋が冷たくなる不気味さを兼ね備えている。
微々たる物だが、勇者の封印に抗おうと言うのか、邪悪な魔力が漏れているし……。
「……なんだと……!?」
魔力が――――漏れている。
封印が為されている今現在、それはありえない現象である。
封印とは言わば臭い物に蓋をする行為。中に臭いは籠れど外に出ることは決してなく――――仮にあるとすれば、蓋がずれているか、型があわなくなっているからであり、
「か、身体の自由が……っ!?」
腕が勝手に上がる。まるで自分の腕ではなくなったようなそれは、無論のこと、彼の力では抵抗のしようが無い。
上腕が小刻みに震えて、即座に現れる筋肉疲労の所為でその掌はすぐさま、冷たい岩に触れた。
白い布手袋をしているのに、まるで素手で触れているような――――氷でも触れているような冷たさが掌から伝わり、腕へ、胸へ、そこから上下に分かれて身体を突き抜ける。
その頃には既に、言葉が出る余地も無く。博士はただ眼を見開くことしか出来ずに、脳へと直接呼びかける声に耳を傾けた。
『貴様は中々利口な人間だが、憶測をするに当たる前提条件を間違えたことが痛かったのだなァ』
手袋は気がつくと黒く染まる。手には、オイルのように粘り付き、酷い悪臭を撒き散らす”何か”が染みてきていて――――不意に、辺りの音の一切が耳へと届いていないことに気がついた。
『だが貴様は老い耄だ。その身体では、我が力を取り戻すことまでは出来ぬ。最も、その知能は有難いことに現在の世界情勢を知らせてくれている、それは力云々よりも助かるのだ――――命を助けることはせんがな』
視界が、一瞬にして黒く染まる。その瞬間、外界を繋ぐ全ての知覚が遮断されて――――同時に、自分が絶対的に自分であるという定義を手放し、彼の精神は崩壊した。
「――――博士、どうしたのです。教授と呼んだことに、それほどまで腹を立てなくとも良いでしょう」
冗談ですごめんなさいと、悪いことを自覚した子供が親に謝罪する声色で――――彼はゆっくりと後退した。
自分が見て認識するその光景は、恐らく誰がどう見たとしても異常だとのたまってくれるだろう。
――――博士が触れた途端に、どこからともなく黒い液体はその岩肌を沿って流れ出した。その液体は流れに流れ、遂には博士に達するのだが、彼は動かず。またその液体はそれ以上重力に従って落ちることなく、全てが彼の身体へと”染み込んで行った”。
それはまるで、半紙に墨汁を入れ物ごと零すように。
本能が叫ぶ。
博士はもうダメだ。
そして――――恐らく、俺もダメだ。
「ダメじゃな――――ッ」
そうして行動を、勇敢なる逃走を実行すべく身体を翻した瞬間、その胸を何かが貫いた。
同時に意識が遠のいた。故に痛みなど感じずに、夢の中へと堕ちる様に、彼は身体の全てをソレに委ねてしまう。
『知らぬのか? 魔王からは逃げられない……』
胸から染み出す低い声は――――心臓を貫く、先ほどは黒き液体だった、固形状の――恐らく世界的には新物質で、これからもそうであろう――おぞましい何かから漏れ出していた。
男は驚くほど呆気なく息絶えて――――彼も同じように、全身を液体に塗られていく。
博士は気がつくと、岩と、正確に言うなれば液体と同化していて――――身体を乗っ取られた助手の男は、のっそりとその封印石へと歩み寄り、ソレを前にすると深く腰を落とす。
夢遊病患者のように不確かな足取りで、動作で、全身の力を拳の一点に集中させて――――全ての力を込めて、拳を放った。
拳は鋭く岩へと突っ込んで、小さな破片が宙を舞う。男は腕をソレに突き刺したままの姿勢で硬直し――――ふと、その身体は結晶が割れるように、劣化した石像が砕かれるように、腕からばらばらと、酷く無機質な音を立てて崩れて行く。
そうすると即座に、その封印石にも亀裂が走り……。
「クハハッ! 四○○年余りの時間はそう短くは無かったが――――私は帰ってきたッ!」
岩の中から登場するその魔王は、彼がこの世から事実上消え去る直前の姿であった――――が。
漆黒の翼は、それよりも深い暗黒色のマントの中に納まり、肌に部品だけを埋め込んだような鎧は、鎧の意味を成さぬように肌を露出させていた。
瞳は紅く妖しく輝き、見事な一本角は、同じように黒く染まる。
それまではどう見ても以前の魔王そのものであるのに――――その身体は、その実寸が酷く小さかった。
例えるのならば、人の五歳児。本来ならば二メートル近い身長は、今では一メートルと少し。身体は貧弱で、その肌もまだ未熟なのか、漆黒というより褐色。
慌てて確認する翼は――――そこには存在していなかった。
「帰って……来たというのにッ!」
悔しさに、勇者に対する憎しみに地面に崩れて大地を殴り飛ばすのだが、
「痛ァッ!?」
拳の痛みに、怒りは負けた。
幼児は擦り切れた拳を抱えながら、博士の知能を頼って街を目指す。このまま南下すれば街があるらしとの情報が刻まれている。
この姿は、本当に情け無い。本来ならば、地面に大穴を明けている打撃だったのだが……。知能が昔のままだという事が唯一の救いである。
「クソ、憎き人間共が。新たな魔王が出でる前に片を付けなければ」
そしてまた、勇者がこの時代に存在して居なくて良かった。魔王は無意識にそう思うと――――東の空が、黒く輝いたのを見た。
強い力の衝撃が、遥か遠くであろうその場から魔王の元まで流れてきて――――思わずその身体は硬直する。
――――この力は私の全盛期を超えているのではないのか? いや、まさか。高々魔族如きが、そんな事……。
魔王は手漕ぎの船に乗込みながら、強く祈る。
「世界が我が手中に収まりますように」
自身が最も否定する神へと。
彼はそう口走った後、力の足りぬ身体で精一杯オールを動かし水を掻き分けて、大陸を目指した。




