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断罪された令嬢は死を望んだが、王太子はそれすら許さなかった

作者: 百鬼清風

 人生って、思っていたよりドラマチックに終わらないものなのね。


 少なくとも私は、誰もが涙し、そして「彼女は何も悪くなかった」なんて美しい言葉で送られる殉教者になる予定だった。あわよくば、死後に暴かれる陰謀、冤罪の真実、そして王太子殿下の深い後悔——そんな流れまで期待していたのよ。まあ、妄想だけなら自由でしょう?


 けれど現実はいつだって残酷で、しかも割とドジにできている。


「侯爵令嬢セシリア・ヴァンデミエール。あなたはこの場をもって、王太子殿下との婚約を破棄され、すべての爵位と財産を剥奪されます」


 大理石の広間に響き渡った断罪の宣言は、まるで劇場の幕引きのように静かだった。そして私は、想定通りに美しく一礼し、淡々と壇上を降りた……のだけれど。


 本当の悲劇は、そのあとよ。


 自室に戻った私は、丁寧に遺書を書き、秘蔵の毒薬を手に取った。家名も名誉も失い、何よりも、愛していた王太子に裏切られた。この胸の痛みを引きずって生きるなんてまっぴらごめん。


 さようなら、セシリア。


 毒薬の小瓶を開け、香りを確かめる。思ったより甘い匂い。最後に口にするには、悪くない選択だった。


「……何をしている?」


 その瞬間、扉が蹴破られた。文字通り、バァンと。


「へ?」


「貴様、死ぬ気だったのか」


 その声に私は息を呑んだ。金糸の軍服、青い瞳、誰よりも端正な顔立ち。——王太子アレクシオ・ルクレール殿下が、荒い息を吐きながら私の部屋に突入してきたのだ。


「な、な、なんで……っ」


「そのまま飲んでいれば、本当に死んでいたな」


 殿下はズカズカと私の前まで来ると、私の手から毒薬の瓶を奪い取った。そして信じられないことに、それを窓から投げ捨てた。


「ちょっと!? あれ高かったのよ!」


「値段の問題ではない!」


 いや、そこまで怒ること? 私、断罪されたんですけど? 殿下が別の女と結婚するとかいう報道、今朝の新聞にバッチリ載ってましたけど?


「死ぬなど、絶対に許さない。貴様がどんなに望もうとも、私はお前を生かす」


「……殿下?」


 彼は険しい顔で私を見つめる。懐かしくも、怖いくらい真剣なその表情。


「わざと破棄したのだ。お前を王宮のしがらみから解放するために」


「……は?」


「お前には生きていてほしい。私のもとで、自由に」


「はあああああああ!? 何言ってるの!? 私、貴方に捨てられたと思って死のうとしたのよ!? わざとって何!? しかも今さら“生きて”とか、意味がわからない!」


 あまりのことに、叫ばずにはいられなかった。しかも私、今まさに“死にそこねた”女なのよ? いくら王太子とはいえ、もうちょっと空気読んでくれてもよくない?


「……言い方が悪かった」


「そこじゃない!!」


「私はお前を手放すつもりなど最初からない。ただ……お前を守るための策だったのだが、説明する前にお前が死のうとするとは……」


 ため息交じりに呟く彼は、まるで世界の終わりみたいな顔をしていた。なんなのよ、この展開。


「じゃあ、私を断罪したあれも……演技?」


「必要だった。外聞を保ちつつ、お前を王家の争いから遠ざけるには、それしかなかった」


「私、泣いたんですけど」


「知っている。あれほど泣くとは思っていなかった……正直、少し泣いた」


「殿下まで泣いてどうするのよ!」


「感情というのは、時に不合理なものだ」


 この男、見た目は完璧なのに、根本的にコミュニケーション能力が不自由すぎる。


 私はぐるぐると頭を抱えた。毒を飲みかけた舌が、まだ少しピリピリする。


「で、これから私はどうなるの?」


「私の離宮で静養してもらう。医師団も手配済みだ。お前の余命が一年だという診断は——」


「本当よ」


 私は遮った。冗談ではない。それだけは、間違いなく現実だった。


「でも、あんたがいると……一年もたないかもしれないわね」


 私が苦笑すると、殿下は少し目を見開いたあと、珍しく笑った。


「なら、死なせないために、もっと過保護になろう」


「やめて、マジで。逆効果すぎるから」


 こうして私は、“死に損ない”のまま王太子の庇護下に置かれることになったのだった。


 生き延びるって、案外、面倒くさいのね。




 静養という名目で連れてこられた離宮は、想像を絶するほど豪華だった。


 白い大理石の外壁に、緑が生い茂る庭園。天井が高く、家具はどれも王家御用達の職人製。部屋にはふかふかのベッドと、私ひとりには広すぎるソファ。すべてが「死にかけの女」に対する扱いとは思えない。


「……こんなに整ってると、逆に不安になるのよね」


 そして何より不可解なのが、私の専属となった使用人たちの顔ぶれである。十名以上が控えているのに、彼らは皆どこか、王太子直属の騎士団員らしい筋肉と無駄のない動き。


「これ、本当に“静養”なの? どう見ても“監視”じゃない?」


 私がそう呟くと、傍らにいた執事が涼しい顔で応えた。


「令嬢のお身体を最優先に守ることが、殿下より厳命されております」


「だからって護衛兼メイドとか、どんな王子なのよ……」


「殿下は“愛する者に死なれたら、国を焼き払う”と仰っておりましたので」


「……重い。愛が、重いのよ」


 そして一番問題なのは、その愛の発信元が、毎日ここに顔を出してくるという事実である。


「セシリア、今日は体調はどうだ」


「昨日と変わりません。生きてます。残念ながら」


「それは良かった」


「良くないのよ、私はもうちょっと……こう、しんみりしたいの。なのに毎日毎日、あんたが来るから心が忙しいのよ」


 すると王太子殿下は、真顔で言った。


「心が動くのは、生きている証だ。むしろ誇るべきだろう」


「うるさい!」


 彼はまったく空気を読まない。愛があればなんでも許されると思っている節がある。もっとも、今まで許されてきたんでしょうね、あの顔と立場では。


「本気で、死ぬつもりだったのか」


 ぽつりと落とされたその問いに、私は息を飲んだ。


 あれは冗談じゃなかった。けれど、殿下が本気で止めに来るとも思っていなかった。


「だって、全部なくなったのよ? 家も、爵位も、婚約も。貴族社会じゃ、名誉の死って案外便利なのよ」


「お前がいなくなったら、私は国を失う」


「……はい?」


「心を失えば、国を守る意味も、価値も、見失う」


「ちょっと待って、いま軽く“愛してる”を超えたわよね? もしかして、それプロポーズの類?」


「違うか?」


「違うの!? 違わないの!? どっち!?」


「正式な求婚状は、宰相を通じて明日提出する予定だ」


「ガチじゃん!!!」


 私のツッコミが響く中、殿下は涼しい顔で紅茶を啜った。


 本当に、どうしてこうなったのかしら。


 いや、きっかけは簡単だ。王宮での政略。私の実家が失脚し、殿下は“私を救うために”断罪の芝居を打った。だとしても——


「もっと説明する時間がほしかった」


「本当よ! そうすれば、あんな毒飲まずに済んだのに!」


「お前に手紙を出した。三通も」


「……え?」


 殿下が鞄から出したのは、見覚えのない封筒。しかも、私の侍女の名前が書かれていた。


「……アネット……あの裏切り者!!」


 どこに消えたのかと思えば、あの女、他家の養女として婚姻していたらしい。うちが潰れる直前に、いち早く逃げ出していたなんて。


「よくも私の“生きる理由”を握り潰してくれたわね! あの召使い!」


 怒りで震える私に、王太子はそっと毛布をかけた。


「怒るな、セシリア。怒ると寿命が縮む」


「縮む寿命ならもう縮みきってるのよ!」


 王太子殿下の“愛”は過剰すぎて、正直、心が休まらない。けれど。


 彼の眼差しの中に、かつて私が好きだった、あの誠実な光を見つけてしまったから——


「……まったく。これじゃ死ぬに死ねないじゃない」


 私の静養生活は、想像以上に騒がしく、そして——少しだけ、温かかった。




 ここ数日、王太子殿下が、あからさまに“近い”。


 どう近いのかって? 物理的に。あと精神的にも。つまり、すべてにおいて近すぎる。


「セシリア、髪が乱れている。整えてやろう」


「いえ、結構です。私、自分でできるので。むしろ一人でやらせてください」


「だが、かつては私が髪を梳いてやるのを、お前は喜んでいただろう?」


「かつてはね!? 今は違うの! あと、その“かつて”を思い出すたびに、心が痛いのよ!」


 今朝なんて、まだ寝ぼけていたところにいきなり入ってこられた。しかも“添い寝”を提案されたときは、枕で殿下を殴ってしまった。反射的に。


 でもあの男、喜んでた。謎に。


「セシリアの枕の匂い、落ち着くな……」


「落ち着かないで!!!」


 私、死にかけなんですけど? なんでこの人、余命宣告された女相手にそんな攻め攻めなの?


 いや、わかってる。殿下なりの愛情表現なのよ。余命一年しかない私に、少しでも生きる活力を与えようと、全力で好意を伝えてくれている。


 でも、限度ってものがあるでしょ!


「殿下、せめて距離を二歩、いや三歩取ってください。あの……貴方、近すぎて、息が……」


「生きている実感が湧くだろう?」


「うるさいな、この情熱ヤンデレ!」


「愛している」


「聞いてない!!」


 もう何回目かしら、この押し問答。前は冷静沈着な方だったはずなのに、いつからこんな“爆速溺愛モード”に入ったのか。


 しかも使用人たちも慣れたもので、私が叫んでも反応しない。彼らの中で、これは日常風景なのかもしれない。怖すぎる。


 そんな騒がしい日々の中、ひとつ気がかりなことがある。


 ——私の余命は、本当に一年なのだろうか?


 ここに来てから、明らかに体調が良くなっている。胸の痛みも、息切れも和らいだ。毎日穏やかに過ごしているからか、薬草の処方が合っているのか。それとも、殿下の暴走愛のせいか。


 ああ、これが“生きる”ということなのかもしれない。そう思い始めた頃。


「セシリア、聞いてくれ」


「また何か新しい溺愛プランを?」


「お前を正式に迎え入れる手続きが整った。婚約を“再締結”する」


「……なに?」


 言葉が、耳に入ってこなかった。


「セシリア・ヴァンデミエール。私、アレクシオ・ルクレールは、あらためて貴女との婚約を望みます」


 彼は膝をついて、宝石のような瞳で私を見つめた。その瞳は、昔と変わらない。いや、今はそれ以上に——まっすぐ、真剣だ。


「……殿下、私の命は長くないのよ?」


「知っている。それでも、君を選ぶ」


「私は、もう侯爵家の娘じゃないわ」


「そんな肩書きが何になる? 私は君の笑顔にしか興味がない」


「……今さら、そんなこと言われても……」


 私の胸の奥が、じんわりと熱くなる。誰かに必要とされる。誰かに、命をかけて愛される。


 それがどんなに怖くて、どんなに幸せか。


 私は殿下の手を取った。


「……あんた、ほんとにバカよね」


「君が笑ってくれるなら、それでいい」


 こんな世界、捨てたもんじゃないかもしれない。




 私が離宮で静養しているというのに、なぜか世間は騒がしい。


 それもそのはず。かつて私を断罪した廷臣たち、陰で実家を陥れた貴族たちが、次々と失脚していっているのだ。


 その事実を告げたのは、いつものように突然訪れた王太子殿下だった。


「今日、第一大蔵卿が失脚した。汚職の証拠が出たらしい」


「“らしい”? ねぇ、貴方が動いたんでしょう?」


「“偶然”だ。私はただ、君が傷つけられた分だけ、世界が平等になるよう調整しているだけだ」


「……それ、“ざまぁ”って言うのよ?」


「その言葉は聞いたことがある。小説によく出てくるものだろう」


「そう、小説。なろう小説よ!」


 王太子殿下が、なろう系をどこで学んだのかは不明。だが、その行動は完全にテンプレの“ざまぁ展開”だった。断罪され、令嬢から転落し、死を望んだ私を裏で守っていた男が、権力と情報戦で敵を根こそぎ潰すという構図。


 なにこの甘い復讐譚。正直、胸がすく。


 でもね。


「私は……もう復讐とか、どうでもいいのよ」


 小さく呟いた私の声に、殿下が静かに目を細めた。


「なぜだ?」


「恨んでたわ。もちろん。あの時、誰一人として私の味方をしなかった。家も、友人も、侍女まで……」


 手紙を握り潰したアネットの顔を思い出す。彼女は私の最も信頼していた侍女だった。けれど、貴族の世界では、沈む船から逃げるのが常識。


「でもね、恨んでても、もう意味ないの。私は今ここにいて……生きてる。死ななかった。あなたが止めたから。だったら、もう過去に縛られたくないの」


 殿下が何も言わずに私の手を取った。


「過去から救いたいと思っていた。だが、君が自ら前を向いてくれるなら、それに勝る救いはない」


「……詩人かしら、あんた」


「もしそうなら、君という詩の最後の一行を、私が書き記す」


「やめて、名言っぽくて照れるから!」


 殿下は、ずるいのよ。時々、こんな風に甘い言葉を吐いてくる。しかも表情は真顔。感情を込めずに言うからこそ、本心に聞こえてしまう。


 そして、離宮に新たな知らせが届く。


「セシリア様、先ほど元婚約者のクリスティーヌ嬢が、公の場で糾弾されたとの報せが入りました」


「……誰?」


「あの、殿下と新たに婚約されたとされていた……」


「ああ、あの笑顔でマスコミ煽ってた人ね!」


 そうだった。殿下が私との婚約を解消した“建前上の理由”として、他家令嬢との新たな婚約を発表していたのだ。


「彼女の実家が、王城の資金を横領していた証拠が見つかった。本人も関与の疑いがある。王家との縁談は白紙となる」


「……それ、本当に偶然?」


「正義だ」


「違う、これは恋の暴力」


「私は、君の平穏な余命を確保するために、必要なことをしただけだ」


「それが一番怖いのよ!」


 でも、まあ、ありがたいのも事実。私に牙をむいた人たちが、次々と“落ちていく”のは、正直、スカッとする。いくら“もう気にしない”と思っていても、やっぱり人間、スカッとする瞬間はほしいものよね。


 ただ……そんな中で、ふと思う。


「私……本当に死ぬのかしら?」


 それは、ふと心に浮かんだ疑問だった。最近は、体の調子が良すぎる。あのとき言われた“余命一年”という宣告。あれ、本当に正しかったの?


 まさか、あれも——。


「殿下……まさか、医者買収したりしてないわよね?」


「……さあ、どうだろうな」


「笑ってごまかすな!!」


 私の死ですら、愛に飲み込まれてしまうんだろうか。


 でも。


 それも悪くないと思ってしまう私は、きっともう、“生きる気”が出てきた証拠なのかもしれない。




 今日も朝から、王太子殿下の気配が濃い。


「セシリア、朝だ。目覚めのキスをしても?」


「するか!!!」


 なぜか最近、殿下のテンションが“婚約中”を超えて“新婚”になっている。目が合えば口説かれるし、手を握ればそのまま抱き寄せられるし、紅茶を飲めば「それ、間接キスだな」と微笑む始末。


 この人、いったい何モードに入ってるのよ。


「私、余命一年なんだけど?」


「だからこそ、一日でも多く愛を伝えたい」


「重い。ひたすらに重い。でも嫌いじゃないのが悔しい!」


 体調がすこぶる良い。以前ならすぐに疲れていた散歩も、今では庭園を二周できるくらい。医師団も首をかしげている。


「これは、生命力が回復しているとしか……」


「王太子殿下の“過保護愛”のせいじゃないかと、私は本気で疑ってるわ」


 実際、毎日が慌ただしいけれど、生きてる実感がある。笑って、怒って、呆れて、照れて、たまに泣いて。まるで、世界が私だけのために動いているような——そんな錯覚さえ、してしまう。


 ……そんな時だった。


 王城からの使者がやってきたのだ。


「王太子殿下に、急報です。第一王子殿下が病床に伏され、継承順位の見直しが始まりました」


「なんですって……」


 殿下の顔が、一瞬にして張り詰める。そう、彼は第二王子。王位は兄のものだったはず。けれど、ここへきて思わぬ事態が起きた。


「今すぐ城へ戻らねば」


 その言葉に、私は思わず手を握っていた。


「行って……いいのよ。国のことは大事だもの」


「だが、君を一人にするわけには——」


「私は、もう大丈夫。ちゃんと、生きるって決めたもの」


 私の言葉に、殿下は少し目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。


「……君は強くなったな」


「失礼ね、昔から打たれ強い女よ」


「なら、約束してくれ。どんなことがあっても——私のもとへ帰ると」


「逆じゃない? 貴方が帰ってくるのよ」


 不思議と怖くなかった。あの頃の私は、失うことばかりを恐れていた。だから死を望んだ。けれど今は違う。大切なものができたからこそ、それを守る力が湧いてくる。


 それが“生きる”ってことなのかもしれない。


 殿下は私の額に優しくキスをして、去っていった。


 そして私は、離宮で“待つ側”になる。


 ……が、そこは私の人生。やはり、そう簡単には終わらせてくれなかった。


 数日後、宮廷から新たな報せが届く。


「セシリア様、お耳に入れておくべきことが……」


「また何かあったの?」


「“王太子妃候補として再審査”のお話が出ておりまして……」


「……は?」


 なんで、今さらそんな話が出てるのよ。私は断罪された令嬢で、爵位も家もない。ただの“死にかけの元婚約者”のはずなのに。


「新たな派閥が動いているようです。王太子殿下を次期国王に推すために、正統な伴侶を据えるべきという意見が……」


 しかも、その候補に私の名前が含まれているときた。


 ——なんなの、このロイヤル人生リバース劇場。


「いやいやいや、今さら評価ひっくり返すとか、それこそ“ざまぁ”案件でしょ」


 でも、心の奥で少しだけ、うれしかった。


 それは“評価”なんかじゃない。“認められる”という実感が、私の心に火を灯したのだ。


 その夜、私は手紙をしたためた。


《私はもう逃げません。あなたと生きる未来を、選びます。だから早く帰ってきなさい。怒るわよ。——セシリア》


 この命、もはや私のものではないのかもしれない。


 だとしてもいい。


 愛されて、生きると決めた今の私は、かつて死を望んだ自分より、ずっと幸せだから。




 王太子殿下が王城に戻ってから、もう十日が過ぎた。


 その間、毎日届く手紙は、まるで恋文のように甘く、けれど政務報告のように堅苦しくもあり、なんというか……彼らしい。


《政敵を一人潰した。今日も無事。君を思っている。》


《昼の紅茶はアールグレイにした。君が好きだったから。》


《会えない日々がつらい。そちらの医師に、私の心の診断を依頼したいくらいだ。》


 ……最後の一文に至っては、重症である。


「本当に、手紙でさえ息苦しい男ね……でも」


 それが、今の私の支えになっていた。


 かつて、私は死を望んだ。未来を絶たれ、心も折れ、全てを失ったと思っていた。


 けれど今——私は、生きていた。


「セシリア様、急報です! 王太子殿下がお戻りになります!」


 その報せを受けたのは、柔らかい春の陽射しが差す午後のことだった。


 庭に咲いた花々が、まるで祝福するかのように風に揺れる。


 私の心もまた、花開くような音を立てた。


 そして、その夜。


 月明かりの中、彼は帰ってきた。


「ただいま、セシリア」


「おかえり、アレクシオ」


 お互い、何も言わずに抱きしめ合った。言葉はいらなかった。ただこの腕の中に、確かな温もりがある。それだけで、生きる理由になるのだと、私はようやく知った。


 彼は、私に報告をくれた。


「第一王子殿下は王位継承権を辞退なされた。父上の許しも得た。私が次期国王となる」


「そう……おめでとう、って言うべきなのかしら」


「まだだ。私はまだ、君に最も大切なことを伝えていない」


 そう言って、彼は小箱を取り出した。


「セシリア・ヴァンデミエール。余命が一年であろうと、十年であろうと、たとえ明日が終わりの日でも。私は君を王妃に迎えたい。君と生き、君と笑い、君と最期を迎えたい」


 蓋を開けると、そこには深紅のルビーの指輪があった。


 それはかつて婚約の証として用意されたもの——でも、私は受け取れなかった。


 けれど今なら。


「……いいわ。死ぬまでの間、あなたのそばにいる」


「違う。“生きる”までの間、だ」


 ああ、もう。この人は本当に、最後までずるい。


 私は涙をこぼしながら、指輪を受け取った。


 それから半年後。


 私たちは結婚した。挙式は小さく、身近な者だけで。けれど、そこには確かな幸せがあった。


 そして、一年が過ぎても、私は——生きている。


「ねぇアレク。どうして私、死ななかったのかしら?」


「君の生命力が、愛を超えたからだ」


「またそういうことを、恥ずかしげもなく……」


 私たちは、今も隣にいる。笑って、喧嘩して、また笑って。


 かつて望んだ死よりも、今のほうがずっと輝いている。


 だから、私は言える。


 この物語が終わるその時、私は確かに——生きていたと。




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― 新着の感想 ―
はじめから最後まで、一気に読ませていただきました。 「断罪からの逆転劇」と「過剰なまでの愛情」が見事に絡み合い、笑いと涙が交互に押し寄せる物語でした。特に、冒頭の「理想の殉教者」像を妄想するセシリア…
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