男爵令嬢は王立魔術院主任研究員
「夕暮れの森、石塚の下。花を捧げよう」
歌のように節をつけて、高い声が響く。
何も反応しない魔術陣を確認して、ジェシカは呪文を重ねていく。
「地下の洞、眠れる種子。光を届けよう」
大きな石板に水で描いた陣を光が走る。ぐっと身体にかかる圧力を自身の魔力で押し返し、均衡を保つ。その感覚を逃さないように、さらに呪文を紡ごうとしたのだが――。
ガチャッと何の予告もなく扉が開いた。
そのせいで均衡が揺らぎ、魔術陣の光は消えてしまった。あとには陣も残らない。
「ちょっと! どうして開けるの? 実験中の札が見えないの?」
「どうせ大した魔術じゃないだろ。使用魔力の量なら開ける前に確認したさ」
馬鹿にするように鼻で笑うのは、同期のルイスだった。
「また、あなた? 私の邪魔するのはやめてくれない? よっぽど暇なのね」
「そっちは、研究室の引っ越しで忙しいんだよな」
ルイスはにやにや笑う。
「は? 引っ越し?」
「なんだ、知らないのか?」
もったいぶるルイスにジェシカは面倒になり、彼を押しのけて研究室から出る。扉の向こうは「魔術陣・呪文研究課」の大部屋だ。主任研究員になると個室がもらえるのだ。
ジェシカは一番近い席にいた研究員ミックに声をかける。
「ねえ、引っ越しってなに? 私どこかに異動になるの?」
「引っ越し? あ、あー。ジェシカさん、男爵令嬢じゃなくなったからじゃないすか?」
「なにそれ、どんな因果関係があるのよ?」
ジェシカは最近、男爵だった父を亡くした。母は子どものころに亡くなっており、きょうだいもいない。男爵位を継げるのはジェシカだけだったが、女性の場合は既婚でないと爵位を継げなかった。祖父が政府の要職に就いたことで得た爵位。領地もないし、肩書きだけの存在で、ジェシカの暮らしぶりは中流階級の人たちと変わらない。王立魔術院で働く自分には爵位なんて不要だと返上するつもりでいた。
「役職付きになれるのは貴族だけだ」
知らなかったようだな、とルイスに言われ、ジェシカは勢いよく振り返る。
「嘘よね!」
「嘘なものか」
ジェシカは今度はミックに詰め寄る。
「嘘よね!」
「嘘じゃないっすよ」
さりげなく机の上の器具をジェシカから避難させながら、彼はうなずいた。
「本当に?!」
認可前の魔術は決められた場所でしか使用できないが、大部屋でも実験は可能だ。しかし、ジェシカは周りに誰かがいるのが落ち着かないタイプだった。基礎学校時代の友人には寮の個室より図書室の方が試験勉強が捗ると言う者もいたが、ジェシカは断然個室派だった。個室は都度借りることもできるけれど、それは面倒すぎるし空いていないときもある。
「そんなの困るわ」
正直、役職なんてどうでもいい。でも個室のためにがんばって最短で得たのだ。その聖地が爵位ごときで失われるなんてあってはならない。
「今どき貴族だけしか役職付きになれなんてどうかしてるわ。そんな規則撤廃よ! 賛同者を集めて……なんてやってたら時間がかかるわね。先に私の爵位継承ね。……えっと、確か爵位継承は半年以内だから……うん、まだ大丈夫。返上の手続きを後回しにしておいてよかったわ! そしたら、婚姻ね、婚姻。誰に頼めばいいかしら。いえ、待って、その前にきちんと確認しなきゃ。課長! っと実験中だわ。それなら、院長ね!」
ジェシカはぶつぶつと独り言を言うと、大部屋から駆け出していった。
――ジェシカが去った場では、
「配偶者が必要なんだろ。それなら、俺が結婚してやってもいいぞ」
「ルイスさん。ジェシカさん、もういないっすよ」
というやりとりが繰り広げられていたのを、ジェシカはもちろん知らなかった。