不思議がいっぱい
「あ、案内って!」
「その場所までだ!もう日が暮れる、それより前に!」
龍香に肩を掴まれて俺は、目の前がぐわんぐわん揺れていた。
どこだっけ。
いつも通る道だしあの辺だったか?本当にそこ?そもそも動いてない?
本当にあそこで合ってる?
大丈夫か、俺?
「わ、分かんねえけど、多分」
「それでいいから早く!」
”お前ら伏せろォ!”
突然。
昂炎が叫ぶと同時に、どん、と龍香に突き飛ばされる。
自分が転んだと認識するが早いか、部屋の窓ガラスが全て砕け散った。
「は……な!?」
「……探しに行くまでも無かったか」
”言ってる場合か、早くしろ龍香!”
状況が掴めずにいる俺をよそに、龍香は素早く身を起こし、窓だった方をキッと睨んだ。
それに釣られてふと外を見て、ぎょっとする。
ヘドロのように粘着質な、それでいて向こうの透けた霧のようなドロドロした何かがそこにあった。
それだけなら異常気象か、何かのガスかと疑っただろう。
そのガスには、目口のように引き攣れた穴が開いていて、その穴は俺たちを凝視していた。
化け物。
「なん、だ……アレ」
ゆっくり立ち上がり、ソレと向き合う龍香を、俺はへたり込んだまま見守ることしか出来ない。
”そうた!”
月光が心配したのか、俺のそばまで飛んでくる。
「月光、アレ、アレは……」
”手伝ってやる!龍香、札を!”
嫌な風がアレから吹き抜けてくる。
俺の声も、叫ぶ昂炎の声もかき消すみたいに。
必死で前を見る俺と、化け物の目が合ったような気がした。
もごもごと口が蠢き、声を発する。
”美味シィ……死にたクなィ……キえちャウ……”
龍香がポケットに手を突っ込んで、何枚か紙を取り出して。
「任せろ」
昂炎に短く返事をした。
まだまだ恐怖が大きいけど、ちょっとだけ落ち着いた。
龍香がこんなにも頼れる奴だなんて。
まぁ俺のこと助けてくれたのも龍香なんだけど……。
”そうた、そうた”
「……どうした?」
落ち着いたのも束の間、月光が俺の耳もとで話しかけてくる。
”あれ……きのうの、あのこ……”
……え。
「は?」
どういうことだ?
俺は思わず素っ頓狂な声を出した。
昨日はあんなに元気になって、ちょっと笑ってくれて。
それで、今日の、このどす黒い化け物がそいつで?
とにかく、龍香を止めないと!
「龍香!待っ……」
「恨み給え」
龍香の背中に叫ぶと同時だった。
すう、と彼女の手元から紙が浮かび上がる。
札だった。
「鎮まり給え」
龍香は淡々と、焦ることなく言葉を紡ぐ。
もごもご、もぞもぞと化け物の口は動き続けていた。
”おなカ、すィたァァ……モット……”
龍香、待ってくれ。
やめてくれ。
そいつは、そいつは俺が、助けた奴、なんだ。
叫び出したい言葉が喉まで迫り上がってくる。
でも、それでも紛れもなく俺たちが襲われているという事実がそれを抑えた。
何も止められないで、俺はただずっと、黒い窓の外を見ていた。
昂炎が火の粉をごうごう散らしながら、龍香が札にかざした手にすうっと燃え移った。
黒い粘着質なカタマリを、オレンジ色の炎が照らす。
龍香は静かに、口を開いた。
「我、汝を消霊す」
最期の口の動きは、”消えたくない”だった。
でも音になることはなくて、だんだん、だんだん向こう側が透けるように消えていった。
何秒後だっただろう。
そこはもう、いつもの夕焼けの光のさす龍香の執務室だった。
もう空の上の方は暗く、少し燃え残った太陽が床を、カーテンを、割れた窓を、振り返った龍香の横顔を、朱色に染めていた。
まるで窓の外には、元から黒い霧すら無かったみたいに。
時計の針の音すら、聞こえなかった。
静かな空気を壊したのは龍香だった。
「生命エネルギーを与えると、霊的エネルギーは変質する。今みたいにな」
俺は何も返事が出来なかった。
黙って龍香を見上げた。
龍香は別に響くこともない、いやに現実味をもった冷静な声色で続ける。
「もう今日は帰れ。暗いから気を付けて」