第十九話 誘惑
「っ……! 何て強い呪い……! もっと聖水を! タオルもありったけ持ってきなさい!」
愛するジュードの傷口を押さえながら聖女イリーナが叫ぶ。
聖女は王国で最高と認められた回復術師に与えられる称号だ。もっとも高度な医療、解呪、回復魔法を有する権威。
彼女の指示に異論を唱えるものはいない。
「この辺りの傷口に全力でヒールを! 効果がなさそうに見えても呪いの進行を遅らせられるわ!」
病室が彼女の指示を受け慌ただしく走り回る。
隣に控える助手がイリーナの汗を拭う。
「もう一度! ペンティゴア・ディプトハイル!」
イリーナの詠唱と共に展開された五重魔法陣に周囲の術師たちが息を呑む。
「これで三度目だぞ……。人間業とは思えん」
驚いている暇があったら魔力を注ぎなさい! そう怒鳴りたくなる気持ちを抑え、魔法に集中する。
回復魔法の肝は癒すべき部位に集中して魔力を注ぐことだ。
関係ない部位に魔力を注いでも意味がない。無駄だ。
莫大な魔力があれば無駄覚悟で身体丸ごと包み込んで癒すことも原理的には可能だが、
そんなことができる人間はいない。
魔法陣を通して傷口に少しずつ魔力を送り込む。
感覚だけを頼りに傷口の全貌を把握し、破れた血管を特定。破損の大きさや内臓との関連性などを考慮し、緊急性の高い箇所から順に治癒していく。
ジュードには胸から腹にかけて、剣で斬り裂かれた深く大きな傷口がある。
一見して致命傷だが、イリーナにかかれば大した傷ではない。
そう、呪いさえなければ。
イリーナは呪いのエキスパートでもある。並の呪いなら瞬く間に解呪が可能だ。そのイリーナが彼これ一時間、呪いの進行を留めるだけで精一杯だった。
これほど強力な呪いはイリーナを持ってしても初めて出会う。どれほどの悪意があればこんな呪いが生み出せるのか。本当に悍ましい。
せめてもう一人、自分と同じレベルの人間がいれば。そう思わずにはいられない。
自分を姉のように慕う小さな女の子の姿が頭をよぎるが、
ブンブンと頭を振って雑念を振り払う。
「何弱気になっているの。ジュードは私が助けるのよ……」
実際問題としてサラを呼ぶことは難しい。
ジュードと同レベルの呪いがかけられていることを考えると、サラも持ち場を離れることは許されない。
離れるということはサラの患者に死刑を宣告するに等しい。僅かでも目を離せばあっという間に命の火を吹き消す、これはそういう呪いだ。
「落ち着いて、しっかり呪いの構造を分析するのよ」
この呪いの作用は大きく三つ。
傷口の解析を妨害する作用、傷口の治癒を妨害する作用、伝播して傷口を広げていく作用だ。
傷口の解析・治癒に集中すれば三つ目の作用でどんどん傷口が広がっていく。逆に侵食を抑えようとすれば元々あった傷口が原因でジュードが死んでしまう。
傷口の解析の難易度も呪いのせいでべらぼうに高く、イリーナ以外には対処不能だった。
結果としてイリーナは侵食を抑えながら、高難易度の解析と治癒を並行して行うことを強いられていた。
それは右手と左手で別の作業、しかもそれぞれが単独でも極めて難しい作業をするようなものだった。
(魔力もきついけど……何より頭が、集中が保たない……!)
「ポーション!」
即座に口元に差し出されたストローを傷口から目を離さず咥える。
管を通って魔力回復のポーションが口の中に入ってくる。
身体がじわりと温まり、魔力が少し回復する。
無理矢理魔力を回復させて魔法を行使する、ギリギリの作業だった。
「イリーナ様! 血圧が低下しています!」
「あああッ! トリアド・ペンティゴア・ディプトハイル!」
展開されるのは五重魔法陣、それが三つ。高等魔術の並列行使。
ペース配分を考えない、あまりの魔力消費に視界が明滅する。猛烈な吐き気、寒気、倦怠感がイリーナを襲い、膝がガクガクと震える。世界が紫色に見えた。
「ぅぅっ……」
「イリーナ様! それ以上は……!」
どちらが患者か分からないほどの真っ青な顔で神業とも言える魔法を行使するイリーナ。精神力だけが彼女を支える。見かねて他の術師が制止の声をあげた。
「ゴホッ、だめよ、まだや、れる、ッ、私なら、治せる。ジュードは死なない。死なないわ」
少しずつ、少しずつだが傷口が治っていく。
このままいけば、いける。助けられる。
それから十分以上が経過する。火事場の馬鹿力というのも生ぬるい。ありったけの力を振り絞ったイリーナの治癒により、やっと半分ほど傷が塞がる。
「やっと、半分……」
終わりが見えてきたからかもしれない、いや、限界を幾重にも超えた魔法の行使だ。
ここまで保っただけでも奇跡だったのかもしれない。
一瞬、ほんの一瞬だけ意識が途切れた。
「イリーナ様!!!」
「っ大丈夫、大丈夫よ、ポーションを……」
ああ、だがその一瞬の代償は、とてつもなく大きく。
イリーナにとって悔やんでも悔やみきれないものになってしまうのだ。
「あ……ああ……嘘、嘘よ……」
絞り出されるは絶望の嘆き。
イリーナのやっていた作業は、無茶苦茶にこんがらがった糸くずを傷つけないように少しずつ解いていくのに近い。
しかも呪いの作用で糸くずは勝手に複雑さを増していく。
もしそんな作業中に一瞬でも意識を失えばどうなるか。
「見失っ、た……さっきまで治していたのは……どこ? どこを治せば……」
全体像を俯瞰できていなかったイリーナのミスか、いや、そんな余裕はなかった。
それができるものはいないだろう。
それを責めるものもいない。
イリーナ以外は。
「い、嫌! どこ、どこなの!? ゴ……ゴホッ、ゴホッ。う、ううん。もう一から探すしか……まだ間に合う……」
咳き込んだイリーナの口を侍女が拭う。その布にはべっとりと血が染み付いていた。
ただでさえ呪いの侵食とイリーナの治癒は拮抗していたのだ。
一瞬の隙。チャンスとばかりに呪いがジュードの身体を蝕んでいく。
「待って、待ってよ! お願い! ちょっとでいいのよ! ああ、あああああッッッッ!!!」
侵食、侵食、侵食、侵食。
どこだどこだどこだどこだ。
待って、待って!
焦り、怯え、混乱したイリーナは糸口を見つけられない。
そんなイリーナをよそに侵食は進み、
イリーナが治癒したはずの傷口のほとんどが、
元通りに出血していた。
振り出しに戻った。そう気づいてしまった。
「あ、ああ……」
心が折れる音がした。
気力だけで保っていた魔法陣が、ガラスが割れる音と共に砕け落ちる。
震える手でポーションを侍女から奪い、口をつける。
「うぅぅぅぅっ、ゴホッ、ゴホッ」
嘔吐。酸っぱい味が口に広がる。遅れて鉄の味がした。
気合いでポーションを無理矢理口に含むが、回復するのは僅かな魔力。
全快には程遠い。
「ぺ、ペンティゴア・ディ……ゴホッ、ゴホッ!」
術も唱えられない。これでは、治せない。
「じゅ、ジュードぉぉぉ」
意識を失い、ドクドクと血を流し続ける愛する男に縋り付く。
「し、死なないで、お願い、お願い、ジュード、ジュード、ジュード……
誰か、助けて、助けて、誰か、お兄ちゃん、サラちゃん、誰か、誰かぁぁぁぁぁ」
命が流れ出していく。
聖女は最期まで手を握ることしかできなかった。
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「ジュード……」
冷たくなった恋人に語りかける。
医務室には既に彼女しか残されていなかった。
「ごめんね、ごめんね……」
ポタリ、ポタリと涙が溢れる。
「大好きだよ、ジュード」
ぎゅっと手を握りしめる。
「「「「「わぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」」」」
部屋の外から歓声がした。
「何、なんなの……? 静かにしてよ……」
よろよろと壁で身体を支えながら医務室から出ると、もう一つの医務室からぞろぞろと人が出てくるところだった。
彼らの顔に浮かぶのは安堵の色。だが、彼らはイリーナに気づくと、沈痛な面持ちで俯いてしまった。
ジワリとイリーナの心に嫌なモヤモヤが滲んでいく。
「は……? 何なのよ……」
彼らに続いて、白髪の少女が部屋から出てきた。
少女らしからぬ目の下のクマから深い疲労が窺える。
「サラちゃん……? どうしたの?」
聞いてはいけない。心の中でもう一人のイリーナが叫ぶ。
耳を塞げ、その場から立ち去れ。
「あ、イリーナお姉様……えっとね、」
ひどく申し訳なさそうに、少女が言う。
「無事、治癒成功よ……」
イリーナの中で、何かが壊れた。
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『任せて、ジュードは必ず私が助ける』
あれが、間違いだったのだ。
思い上がりだった。
自分で助けようなんて思うんじゃなかった。
最初から、あの子に任せるべきだった。
そうすれば助かったのはジュードだったのに。
本当は気づいていたのに。あの子の方が上だということに。
自分が助けようなんて思ったから。
いや、そもそも私がいなければ、サラは位の高いジュードから治していたに違いない。
私が分不相応にも聖女なんて呼ばれていたから、ジュードは死んだ。
初めてあの子にあった日に、気づいていたはずだ。絶対的な才能の違いに。
どうして思い上がった。どうして自分で治そうとした。
ジュードを殺したのは、私だった。
「この、人殺し……」
部屋の鏡を叩き割る。破片で手を切った。
血が滴り落ちる。
この手が憎い。顔が、髪が、惨めな才能が、
私を構成するありとあらゆる全てが憎い。
死ねばいいのに。
「あは、あははは。そうよね、私も、死ぬべきだわ……地獄に、落ちなきゃ……」
ふらふらと立ち上がった。
バルコニーから身を乗り出す。
そんな彼女に手を振る一人の男。
「おやおや、聖女殿じゃあないか。
どうしたんだい、恋人を亡くして意気消沈といったところか? クハハハハ!
どうだろう、彼を生き返らせられると言ったら、君は興味を持ってくれるかい?」
悪魔の声がした。
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「拘束した騎士たちは全員獄中で突然死。
聖女イリーナ・ドルチェも失踪した。
貴族連中は貴様に責任を取らせろと煩い。どうする、アーガス・ドルチェ」
「わかんねぇ、お前に任せるよ。ラルク。
俺にはもう、何も残ってねぇ」
「フッ、腑抜けたことを。体裁上一度捕えはしたが、貴様が首謀者とは俺も王も露ほどにも思ってはおらん。
長きに渡る貴様の貢献にはそれほどの価値がある」
王城の地下牢。地位あるものを勾留するための特別牢で二人は向き合っていた。
一般的な牢とは異なり、清潔で、食事も十分に与えられる。
足りないものは窓と自由だけだ。
もっともアーガスはそんなものもはや欲しくも無かったが。
「気持ちは……ありがてぇけどよ。だけど、俺がもっと早く気づいてればよかったんだ。全部、俺のせいだ。
死罪でもなんでも受け入れる。好きにしてくれ。いや、むしろよ、もう生きていたいとも思えねぇんだ」
鎖に繋がれ憔悴した様子のアーガスをラルクはつまらなさそうに見下ろす。
見れば、食事も口をつけられていないようだった。
「クックック。そうか、貴様は負けを認めるわけだ」
「ああ? どういうことだ……」
ラルクがアーガスの顎を持ち上げる。
二人の目が合った。対照的な、意志のない目と強い意志に燃える目。
「いいか、此度の件の首謀者は見つかっていない。
死を選ぶということは、復讐を諦めるということだ。そうだろう」
「復讐……」
「復讐が何も産まぬなどということはない。貴様の部下たちの仇を取れ。それは国家の安寧にも繋がる。
俺は仲間を殺した奴を許さぬぞ。必ず見つけ出し、殺して見せる。
貴様はどうだアーガス・ドルチェ」