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天励風船 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 つぶらやくんは、どれくらいの頻度で実家に帰っている?

 僕は盆と暮れには、少なくとも時間を取るようにしているな。そろそろ、会える機会が何度あるか、不安に思ってきちゃってね。

 親の年齢のこともあるし、僕自身の体調のこともある。昔のように「限りない未来」とか、信じられなくなってしまった。いや、厳密には熱とかまやかしから、さめちゃったってところかな。

 およそ3万日はある一生。その中であと何日間、親と顔を合わせられるのか。

 そう考えると、無事でやっていることをじかに知らせたくもなる。お互いのためにね。

 

 世の中、必ずしも親と仲がいい子供ばかりじゃないとは思う。

 けれどお腹から出てきた以上は、やっぱりつながりがあるだろうし、帰巣本能にも似た実家ならではの安らぐ空気って、何物にも代えがたいものに感じるんだ。

 そのつながりについて、この間、実家に帰ったときに母から不思議な話を聞いた。

 僕が抱えていても、そのまま埋もれちゃうだろうしね。そいつはもったいないし、つぶらやくんがうまいこと、ネタにしてもらえるとありがたい。



 むかしむかし……とはいっても、昭和のはじめくらいのことか。

 母親の実家は、迫る都市化の影響により、限界集落へ向かいつつあったらしい。

 これまでの日本は戦争続き。未曽有の不景気のあおりも受けて、少しでも稼げる都市部へと働きに出かけ、そのまま居ついてしまうケースも少なくなかったらしい。

 生産年齢人口が減れば、子供たちが大きくなるのを待つよりない。しかしその数も増えるのは容易でなく、むしろ減る方に様々な要因が働く始末だ。

 もろもろの理由で、実の親と離れ離れになってしまった子も多いと聞く。

 いつか大きくなって親に会いに行く、と燃える子もいた。しかし大半が空の向こうへ行ってしまい、二度と顔を見ることも手をつなぐこともかなわない関係であったとか。

 

 

 そんな彼らのなぐさめとなっていたのが、風船屋の存在だった。

 二日に一度、この集落には風船屋がやってきたんだ。真っ白いワンピースを着る若い女性が売っていた風船の値段は、相場をはるかに下回るもの。収入の細い老人であっても、毎回問題なく手を出せるほどだったそうだ。

 そしてそれが子供たちであれば、無料で風船が渡される。とある条件を満たしたならば。


「みんな、この便せんにお手紙を書いてね。

 あて先は親御さん。たとえ今すぐ……ううん、たとえこの先ずっと会えない間柄でも構わない。

 みんなの様子を綴ってあげて。そして良ければ、親御さんたちを励ましてあげる言葉もくわえてあげて。

 たとえ届いたことが分からずとも、気持ちが伝わることが大切だから」


 便せんもまた無料で配られたけれど、持ち帰ることは許されなかった。

 お姉さんの前で文章を書き、それらを手渡す必要があったらしい。それらをまとめたお姉さんは売り物として渡す風船とは別の風船にくくりつけ、空へ飛ばしていくんだ。

 二度と会えない親に対し、思いをはせる子も多かったが、生き別れの子供にとってはいささか不審な感じがぬぐえなかったという。

 郵便であれば、確実に相手には届くし、返事だって期待できる。それをどうしてわざわざ、このような手段でもって、発信させるのか。

 やがて子供たちが自分で小遣いを得るようになっていくと、親のいる子は少しずつ風船屋から離れていった。

 一方で、親と死に別れている子には、便せんを書くことにのめり込んでいく人も多かったようだ。手紙をくくりつけた風船が、空のかなたへ消えていくのを見るたび、天国にいる両親へ自分の報告が届いていると、信じて疑わなかった。

 それはやがて風船の仕組みを知り、いつかは風船のガスが抜けて地へ落ちることを理解しても、墓参りにも似た習慣となって個々人に根付いていったんだ。


 やがてその便せんと引き換えの無料風船にも、制限が取っ払われた。

 便せんを書きさえすれば、誰でもタダで風船を手に入れられるようになったんだ。集落の大人たちも、やがて老いた両親と別れのときを迎える。足腰もしんどくなっていると、墓参りに行くのも容易ではなくなってくる。

 その責任感が、彼らを便せんへと向かわせたのだろう。



 風船屋が姿を見せるようになって、10年あまりの年月が過ぎる。

 はじめはよちよち歩きで風船を受け取っていた子供も、今では立派に働ける歳になっていた。それでもこの10年で、その子が書いた便せんの数は、1000枚を下らなかったという。

 冬のある日。またいつものように風船と便せんをもらいにきたその子に、風船売りの女性が告げた。次回で、ここに来るのは終わりになると。

 理由を尋ねると、「準備が整った」と女性が告げたそうなんだ。これがうまくいったならば、この辺りが戦火に見舞われることはない。それどころか、昔の活気を取り戻すことになるだろうと、言い分はどこか予言めいたものとなっていた。

 かの風船売りが来なくなってからほどなく、日本は太平洋戦争へと向かっていく。

 集落もまた疎開先のひとつに選ばれ、いちどきに多くの子供たちを抱える経験もした。

 空襲の警報こそ何度か響き渡ったものの、集落に爆弾、焼夷弾のたぐいが落とされることはついになく、疎開してきた学童たちも無事にそれぞれの家へ戻っていたんだ。


 そして終戦から一年余りたったころ。

 大きな雷が、かの地域を襲った。雨もなく風もない。ただただ稲光とそれに伴う轟音が地上とそこに住まう者たちを、震えあがらせた。

 この奇妙な天候は数日続くも、注意深く見聞きした者は多かれ少なかれ、違和感を覚えたらしい。

 ときどき、いかずちのものとは思えないとどろきが、空の上を走ったからだ。

 それは柔道で誰かを畳の上に倒したかのような音の時もあれば、何頭もの騎馬が地面を踏みしめて走る、ひづめの音のようにも思えた。

 他にも無数の矛を交えるような金属音も響き、あたかもひと昔前の合戦の気配が漂うことさえあったとか。


 ――古来、雷鳴は神々の争いにたとえられた。これはまさに天上で戦が行われているのではないか。



 立ち込める黒雲。そのすき間よりときどきほとばしる強い光。

 それが空で刀を合わせ、火花を散らす争いの証であるかのようだったとか。



 やがて雲が去ってより、十年あまりの間で集落は急激に人口が増えた。

 かつて疎開した学童たちが、様々な理由で家族を連れ、ここへ越してきたんだ。さらにここへとどまった子供たちも、やがて夫婦となり家を継いだが、これもまた、たいそう子宝に恵まれたという。

 もともとの人口が少なかったこともあるが、ひと世代をまたぐ頃には数倍の人数へ回復。集落の消える危機は瞬く間に遠のいていったらしいのさ。母も、その増え始めたころに生まれた一人だったのさ。


 あの風船売りの準備が、何だったのかは推測の域を出ない。

 しかし母が、当時の彼女を知る人から聞いたところによると、あの便せんは空に住まう先祖たち。それも争いに徴用される者への励ましだったんじゃないかと、考えられている。

 あの雷のみが続いた日こそ、合戦の行われたとき。そしてそこで多くの戦死者が出たのだ。

 そして死した者が子となって、地上へ再び姿を見せた。我々が亡くなれば天へのぼるといわれるが、それとあべこべのことが起きたのかもしれない。

 

 母も半信半疑ではあるが、ときどき訪れたことのない場所にデジャヴを覚えることが多かったらしい。

 もしかしたらそれも、天上にいた誰かの記憶かもと、たまに頭をよぎるのだとか。

 


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