旅人
「まだ行かないでよ……」
泣かないで。お願い。私だって辛いんだよ。
私は君の目元に人差し指を当てる。指は瞬く間に濡れた。そして、その手を君は握る。君の手の暖かさは残酷なほどに現実を突きつけ、私は寂しくなっていく。
旅立ちの時は刻一刻と近づいていることを実感し、私の目にも涙が姿を現わす。
鳥籠から旅立ち、本当の自由になれるが、ここに戻ってくることはできない。
「大丈夫。私がいなくても、君は上手くやっていける」
君の強さや優しさは私が知っているし、きっと大丈夫。心の底からそう思う。私利私欲を言えば、まだ君といたい。君と一緒にまだ見ぬ世界の美しさを見たい。
「私は先に行くだけ。またいつか、会えるはずだから」
「でも……。嫌だ、まだいかないで」
「そうしたいのも山々だけど、これは宿命なの」
「すぐに迎えにいくから。絶対に待っててね」
「急がないで。迎えに来る必要もないから」
君との思い出が胸を焼き、痛みに耐えきれなくなった。涙は頬を通らずに地面へと滴り落ちる。
「君には君の人生がある。その人生を私なんかのせいで無駄にしないで。お願い……」
眠たくなってきた。視界がゆっくりとぼやけていく。盲目になる前に君の顔を記憶に刻もうと凝視する。
「そんなの卑怯だよ……」
「私ね、もう眠たいの。だから、泣いていないで笑ってほしいな。ほら」
私は笑った。何もかもを忘れて笑った。そうして最高の笑顔を君に届ける。君もそれに答えるように笑ってくれたけど、その顔には私との別れを惜しむような表情も混じっていた。
「じゃあ……ね……」
私の想いはマリーゴールドの咲く花畑で散ってゆき、声も力も失った。私は君の気持ちも聞かずにあの世へ旅立つ旅人だ。