6話『サイアク』
学園祭から2週間ほどが経った頃、事件は起きた。
その日の僕は偶々朝早くに起きて、なにを思ったかいつも家を出る時間よりもかなり早くに家を出て学校に向かった。
教室に入ると、僕よりも早く来ていたあきに話しかけられた。
「…おはよ、陽満くん」
「おはよう…」
以前もこんなことがあった。ほとんど誰もいない校舎、教室に僕とあきのふたり。あの時は…そう、確か写真の話をした気がする。
「今日も部活がある日と間違えたのか?」
「ううん、今日は用事があったから…」
「用事?」
「うん、野美乃さんとお話してたの」
「…莉音と?」
どんな話をしていたのかは聞かない方がいいんだろうけれど、ふたりが話す内容というのは非常に気になる。
「…ねえ、ハルちゃん…私との約束、覚えてる?」
突然、あきの僕に対する呼び方が変わった。それが意味することは分からなかったけれど、僕はその質問にとりあえず答える。
「命令を聞くってやつか?覚えてるよ」
「……違うよ」
あきの否定の言葉に、僕は首をかしげる。彼女との間に、あの時結んでしまった主従関係以外で何か約束事があっただろうか。
「幼稚園の時、約束したでしょ?」
「幼稚園…」
幼稚園…僕とあき、そして莉音は同じ幼稚園に通っていた。ほとんど覚えていないけど、アルバムにあった名簿と写真からそれは確実だ。ハルちゃんと呼ばれていた思い出もうっすらとだが確かにある。しかし、あきと交わした約束というのはどういったものだったのだろう。
「やっぱり、覚えてないよね…」
「ごめん…」
「いいよ別に、子供の頃の話だもん…そんなの覚えてる方がおかしんだよ」
悲しそうな顔をして、あきは言う。
「な、なあ…その約束ってどんなのだったんだ?」
「…知りたい?」
「あぁ…一応…」
知りたいというよりも、知らなければならない気がする。僕はなにか忘れてはならないことを忘れてしまっているような気がするのだ。確信は持てないけれど。
「じゃあ、今から私の言うこと聞いて。命令だよ」
命令という言葉を使う時、あきはいつもおもちゃを見るような歪んだ笑顔を見せる。だけどこの時の彼女の表情は、無機質な…仮面のような印象を受ける笑みを浮かべていた。
「な、なあ…あき…なにするんだよ一体…」
「黙ってて」
僕はあきの指示通りに壁に背をつけ床に座り、あきは僕の足に跨るように膝をつく。
早く着いて今は誰もいないとはいえ、もうじき生徒たちが登校してきてもおかしくない時間になる。そんな時にまさかここでおかしなことをするとは思えないが、僕は得体の知れない恐怖を感じていた。
「……可哀想なハルちゃん。わたしがいないあいだにあのコにひどいことされたでしょ?」
明らかに、あきの様子がおかしいのだ。目は虚ろで表情に変化がない。基本無表情な思緒姉ちゃんとも違う。
「あのこのほかにもいっぱいひどいことするひとがいるね。つらいことがあったね。りんかいがっこうのひも…」
「あ、あき……?」
あきがおもむろに手を動かして僕の口に指を突っ込んでくる。
「あ…!?」
「じっとしてて、ほかのことしたこと。ぜんぶおしえて?つらいこともたのしいことも」
瞬間、喉の奥に侵入しようとしたあきの指に反応して僕は嘔吐した。
「………あっ…ご、ごめん…私…」
「…ごほっ…ぅ…あき?」
やはり、様子がおかしい。今自分がしていたことにまるで動揺しているようだった。
「ごめん…ごめんねハルちゃん…でも、でもね?私…前にも言ったでしょ?」
その場に立ち上がったあきは先ほどまでの無機質な表情とは違う引きつったような笑みを浮かべながら話を続ける。
「私はわがままなんだよ…わがままになっちゃったんだ。だから…ね?もう少しだけ我慢してね…」
あきはしゃがみ、おもむろに僕のベルトに手をかけカチャカチャと悪戦苦闘しながら外そうとし始めた。
「あ、あき…?なにして……」
「だから…作るんだよ。私とハルちゃんの赤ちゃん。約束したもんね?」
「…ま、待て!話が分からない!落ち着いてくれ!」
「私は落ち着いてるよ…大丈夫、私も初めてだから」
話が通じない。あきの肩を掴んで突き放そうとするが無理やり嘔吐させられた影響か腹痛と倦怠感であまり力が入らず覆いかぶさる形のあきに力で負けてしまう。
「陽満君!」
「陽満!」
その時、教室の扉が開かれ焦った様子の莉音と泉が教室に入ってきた。
「……野美乃さん、またハルちゃんをイジメるつもり?」
ゆらりと立ち上がったあきが莉音を睨む。
「私は陽満君をいじめたりなんかしません!酷いことをしているのは貴女の方でしょ!」
「そうやって…また私から取るつもりなんでしょ」
やはり、先ほどの僕との会話のようにふたりの会話が成立しているとは思えない。
「莉音!今あきは正気じゃない…だから!」
「ハルちゃんは静かにしてて!」
「いっ!?」
あきがしゃがんで僕の頬をつねった。まるで子供のような怒り方をするあきは再度莉音の方へ向き直る。しかし怒っているのはあきだけではなかった。
「ハルちゃんに……」
いつのまにかあきのそばまで近づいていた莉音が振りかぶった掌を思いっきり振り抜いた。
「ハルちゃんに酷いことをしないで!」
かなりの衝撃音が響いたが、あきはその場に倒れたりすることはなく、頬を抑えながら莉音を睨んでいる。
「いったいな……」
「…」
莉音が、いや…莉音とあきがこれほどまでに怒るのは初めてのことだった。少なくとも、僕の前では。恐らく、あきが話していた莉音との会話、そして幼稚園での僕達の関係がここまでの事態に発展してしまっていると…思……
…突然目眩に襲われて視界がぼやける。
「ハル君!!」
最後に僕が聞いた音は…僕を呼ぶ声だった。
「ハル君!!」
私と野美乃莉音が教室に着いた時点ですでに陽満は床に座らされており、服や床に吐瀉物が飛び散っていた。最悪…最悪のタイミングだった。野美乃莉音に頼まれ、立花ちゃんと彼女の話し合いの場を設けたが、まさかここまでこじれるとは思っていなかった。そして…陽満に実害が出てしまったことが最大の失敗であり、今このタイミングで彼の姉…家内思緒が教室に入ってきたことはこれからさらに事態が悪化することを容易に想像させた。
髪を振り乱し、慌てて走ってきたのか肩で息をしながら彼女は教室に入ってすぐ状況を把握するために周囲を見渡す。
最初に陽満を見て青ざめ、次に野美乃莉音と立花ちゃんを睨みつけ、最後に私を見定めるように流し見た。これほどコロコロと表情の変わる彼女を見るのは初めてだったが、それも当然だ。恐らく今までの人生の中で最も感情が揺れ動いている瞬間が、今この時だ。
彼女は力強く足を踏み出し、野美乃莉音と立花ちゃんの近くに行き、そしてなにか小声でふたりに呟いた。何を言ったのかはわからなかったけど、ふたりの様子を見るに陽満に関わることであることは確かだろう。
そしてすぐに陽満の様子を確認してから、彼をおんぶしてこちらに歩いてくる。
「保健室に行くなら…私も…」
「家に連れて帰るわ。あんな人たちのいる場所にハル君をいさせない」
「じゃ、じゃあ私が陽満の荷物を…」
「触らないで、私が後で取りに来るから」
私を…私達を見るその目には殺意とも呼べるほどの怒気が感じられた。それを見た私は動けなかった。動くことができなかった。
陽満をおぶったまま、彼女は…家内思緒は教室を出て行った。
次回更新は明日20時です。




