1話『キュウジツのスゴシカタ①』
シャワーを浴び、体を拭いて体の火照りを沈める。ドライヤーで髪を乾かして、用意した制服を着る。リビングにいる母に挨拶をしてから2階に戻る。
突き当たりの部屋、ドアを開けてまだ薄暗い室内を見渡す。昔とは随分と内装が違う。以前は私とハル君の2人部屋だったから。私は今でも一緒の部屋でいいのに、小学校3年生の時にハル君がひとり部屋を父にせがんだ。それから少し経って私とハル君は別の部屋に離された。
まだハル君が眠っているのを確認してからベッドに座る。寝顔を何度見ても可愛く思えてしまうのだから、弟というものは恐ろしい。先ほどまで密着していたからか汗で濡れたハル君の前髪を指で触る。
「……玉波さんと付き合ってしまえば、私の心配も少しは減るんだけれど……」
本人間の問題ではあるけれど、ハル君と玉波さんはあのまま付き合ってもおかしくはなかった。玉波さんは自分が逃げた結果だと言っていたけど、恐らくはそれ以外にも理由がある。
「蠅が多すぎるわね」
ハル君の周りにいる女の中に、ハル君が玉波さんと付き合うことを躊躇うだけの迷いを生じさせるヤツがいる。だからこそ野美乃莉音と立花あきを足止めした。それでも足りなかった。
ハル君の鼻に、自分の鼻がくっつくかどうかという距離まで顔を近づけてハル君が目覚めるのを待つ。
玉波さんがダメなら他を…例えば伊藤泉……は私が嫌だ。……それならいっそのこと剣崎さんをけしかけるというのは?どうやらハル君とそれなりに親しそうな雰囲気だったし。
「ハル君、お姉ちゃんに教えて?お姉ちゃん以外で、誰が一番好き?」
朝の気温も低くなってきたというのに、なんだか暑苦しさを感じ目を開けると、毎朝の恒例となった思緒姉ちゃんの顔が目の前にある状態から僕の朝はスタートした。
「…おはよ、思緒姉ちゃん…」
「おはようハル君」
それだけ言って思緒姉ちゃんはベッドから降りたけど、もう一度僕に近寄り鼻をスンスンと鳴らしす。
「…シャワー、浴びたほうが良いわね」
「最近寝苦しいんだよな…」
「掛け布団、まだ冬用じゃなくてもいいんじゃない。暑いでしょ」
「いや、この部屋他の部屋と比べて冷えるんだよ。…でもやっぱりこらのせいで汗かいてるんだよな…うーん…」
「…とにかく、シャワー浴びてきなさい。私はハル君のベッドで二度寝するから。浴び終わったら起こしてね」
「いやいや、学校はどうしたよ」
「…今日は振替休日でしょ。真実は学校、父さんはお仕事、母さんは…ご近所の友人と遊びに…行ったから…夕方まで…」
「そっか…」
モソモソと動きながら思緒姉ちゃんは僕のベッドに潜り込んで、すぐに動かなくなった。……ふむ、なるほど確かに一昨日と昨日の2日間、つまりは土日返上で僕達は学校に行っていたわけだから今日は休みだよな。
とりあえず思緒姉ちゃんのいう通りにシャワーを浴びた。…けどいくら寝汗をかいたからといって僕はそんなに臭かっただろうか。姉といえど女性から臭うからシャワーを浴びたほうが良いと言われると僕も少し悲しくなる。しかし思緒姉ちゃんは匂いを気にすることなく僕のベッドに潜っていったし、部屋や布団についた匂いではなく、やはり僕自身から何かしらの匂いが発せられていると考えるべきか?いやでも…そういえば最近良く朝起きると窓が開いている。まあ、それは思緒姉ちゃんが開けているんだろうけれどその行動も僕の匂いが原因と考えれば納得が……あぁ、なんか考えれば考えるほど僕自身にダメージが…
…聞いてみるか?それとなく、バレないように…いけるか?……無理無理、そんな勇気無いない。
自分の部屋に戻り、ベッドの上で丸まった布団を引き剥がす。
「…寒い。…どうしたのハル君、お姉ちゃんと一緒に二度寝する?」
「いやしねーよ?それより部屋の掃除するから」
「…どうして?」
「休みの日にしないといつまで経ってもやらないだろ?ほらほら、俺の部屋から出てってくれ」
「…私も手伝うわ」
「い、いいから!ほら!思緒姉ちゃんはゆっくりしててくれ」
「は、ハル君?」
思緒姉ちゃんを無理やり立たせて、部屋から出す。
「…よし、これで邪魔者はいないな。……まずは部屋全体の匂いを確認するか」
その場で何度か鼻で空気を吸ってみるが、それらしい匂いはしない。というか自分の匂いがなんなのかよくわからない。次に、ベッドのシーツを確認する。確かに少し汗臭く感じるかもしれない。けれどどちらかといえばいい匂いの方が勝っている。これはまず思緒姉ちゃんの香りだ。休みの日など、偶にさっきみたいに思緒姉ちゃんが潜り込んでいることがあるので、僕のベッドから思緒姉ちゃんの香りがしても不思議ではない。ではやはり思緒姉ちゃんの言うシャワーを浴びた方がいいと言うセリフは僕に対して向けられたもので、僕自身からなにかしらの匂いが……出ている…?
い、いやでも…おかしい。そう、おかしいのだ。僕自身の体臭、それが臭いのならそれはもう仕方がない。けれど今まで両親や思緒姉ちゃん達にはなにも言われてこなかった。なにより、あの真実がなにも言わないのであれば気にするほどでもない気がする。そしてなにより僕は思緒姉ちゃんと同じボディソープで体を洗い、シャンプーとコンディショナーで髪を洗っている。これは思緒姉ちゃんにこれを使うようにと、キツく言われているのでそうしているけれど…ハッ!まさか僕が臭いからこそ同情して同じシャンプーを使うように!?
その時、部屋のドアが開いて思緒姉ちゃんが恐る恐る顔を出す。
「……ハル君?お掃除の途中悪いけれど、とりあえず一緒に朝ごはんを……」
「し、思緒姉ちゃん!!!」
「ど、どうしたの…なにか怖い虫でも出た?それなら私が代わりに…」
「俺…そんなに臭いかな……!!!」
「!!!???」
衝撃が走った。まさか、ハル君からそんなことを聞かれるなんて思っても見なかったから。確かに、最近私はハル君に起きるたびにシャワーを浴びるように催促してきたけれど、それは別にハル君が臭いからではなく、私がハル君に残した痕跡を消したかったからだ。しかしそんなこと恥ずかしくて言えるはずもない。
「そ、そんなことはないわ。ハル君は臭くなんてないわ。だってほぼ私と匂いは変わらないもの。朝にシャワー浴びてって言ってるのはあくまでも汗を流すためで…」
「ほ、本当に!?大丈夫だよな!?」
「大丈夫よ、お姉ちゃんの言うことが信用できない?」
「そ、そうだよな…うん、そうだよな…」
……危ない。少し間違えればハル君にとんでもないトラウマを植え付けるところだったわ。…これからは回数を抑えて添い寝する程度で済ませないとダメね。
「…ごめん、落ち着いたよ。それよりなんだっけ?朝ごはん?」
「えぇ、一緒になにか作りましょう。久しぶりにハル君が作ったものが食べたいわ」
「えぇ…思緒姉ちゃんが作った方が美味しいだろ?」
「お姉ちゃんを助けると思って、ね?」
「…はいはい」
キッチンに移動して、ハル君の横に並んで料理風景を眺める。
「思緒姉ちゃんはなに食べたいんだ?」
「ハル君が作るものならなんでもいいわ」
「…なんだそれ、とりあえずなんか言ってくれよ」
「そうね、それじゃあ卵焼きとウインナーをぐちゃぐちゃに炒めたものが良いわ」
「……おい、それって…」
「ほら、お姉ちゃんが食べたいものを作って?」
「はぁ…」
とても楽しい。ずっとこれでいい。わざわざ学校に行く必要があるのだろうか?社会に出て働く必要があるのだろうか?まぁ、生きるためには必要なことだけれど。
しばらくして朝ごはんが出来上がり、ハル君とふたりだけの食卓を囲む。
「…あの時よりも幾分か綺麗ね」
「当たり前だろ…」
「ふふふ……」
「なにがおかしんだよ」
「美味しいね」
「塩胡椒振って炒めただけなんだから誰が作っても同じだろ」
「違うわ」
「…早く食べてくれよ洗わないといけないんだから」
「すぐに食べてしまったらもったいないわ」
「……あっそ…」
随分と恥ずかしがり屋になってしまったけれど、ハル君は今も昔も変わらない。私のお願いを聞いて、まだ小さい時に初めて私へ作ってくれた料理を今もこうして作ってくれるのだから。私は幸せだ。
「ごめんくださーい」
「……」
「あれ、今の声」
「ハル君、こういう時は居留守を使うものよ。今日は疲れてるでしょ」
「え、いやでも…」
「いいから。お姉ちゃんは休みの日にまでハル君以外の相手をするのは御免よ」
「家内ー?いないのー?今日お母様達いないんでしょー?あれ、寝てるのかな…」
「やっぱり玉波先輩だよあれ、ふつうに出ればよくないか?」
「絶対イヤ」
「イヤって……」
「…ってなんだ、ちゃんと起きてるじゃない。なんで出てこないのよ」
呼んでもいないのに、玉波さんは人の家にズカズカと入り込んできた。これは減点ね。
「す、すみません玉波先輩。朝メシ食ってて気づきませんでした…」
「……なぜ来たの?」
「昨日の帰りたまたま夕飯のお買い物をしているお母様に出会って、今日は家内と貴女の2人きりだって聞いたから……遊びに来ちゃった」
私の思い浮かべていることに気づいているのかいないのか、玉波さんは私を見ながら笑顔でそう言った。




