私の弟へ
「それじゃあ、私帰るね」
「本当に送らなくて大丈夫ですか?」
「えぇ、両親を駅まで迎えに行かなきゃいけないから、家内私のことが心配なの?」
「そりゃあ…まぁ…」
玉波さんが自分の家に帰る日がやってきた。ハル君と玄関先で彼女を見送る。
「その気持ちだけで十分よ。それよりあんた、夜更かししちゃダメよ。ご飯もちゃんと食べて歯も磨くのよ」
「…思緒姉ちゃんみたいなこと言わないでください」
ハル君の言葉を聞いて、玉波さんが私を見る。なにか言いたげなその表情はどうやら私に文句があるようだった。
「なに?」
「なに?じゃないわ、なにそれまるで母親じゃない!」
「玉波さんだって今ハル君に言ってたでしょ。それと同じよ」
「同じじゃないわよ、こいうのは偶に言われるからいいんでしょ!」
「そうなのハル君」
「いや、そんな情報は知らない」
玉波さんの勘違いだったようなので出来る限りの表情を作って鼻で笑っておく。
「…こっの!!……はぁ、まいいわ。家内、今日まで本当にありがとね」
玉波さんはハル君の首に正面から腕を回して、引き寄せながらその頬にキスをした。
「ちょっ!?なにするんですか!」
「お礼よ、お礼」
全身に鳥肌が立つ。全身を掻きむしりたい。今すぐハル君を消毒したい。そんな気持ちが勢いよく溢れてくる。チラリと私を見た玉波さんがすぐにハル君から離れた。…しまった、思わず表情に出ていた。他人に対する他の感情は無くなっても、誰かにハル君を傷つけられたり汚されたりした時に湧き出る怒りだけはどうしても消えない。いえ、歳を増すごとに強くなっている気さえする。
「と、とにかく今度はちゃんと私の家に招待するからその時には遊びに来てね」
「…はい、喜んで」
そう言葉を残して玉波さんは歩き出し、少し離れた所で一度振り向いてからそのまま家路についた。
「良かったのか思緒姉ちゃん」
「なにが」
「玉波先輩ともっと話さなくて、同じ部屋で寝てたし結構寂しんじゃないのか?」
からかうような可愛らしい笑顔でハル君は私に尋ねる。全く、実は私が寂しがっていると勘違いしているんだろうなと思いながら私はハル君の頭を撫でておく。
「さぁ、風邪をひいてしまうわ。中に入りましょう」
「お、おう」
深夜、両親も真実も…そしてハル君も寝た時間帯を見計らって私は目を覚ました。玉波さんが居た頃はできない時もあったけれどこれからは毎日欠かさず行える。足音を立てずに廊下を歩き廊下突き当たりの部屋、ハル君の部屋のドアを開ける。ハル君は基本的に夜寝ると朝まで起きないので多少音を立てても問題ない。それどころか私が真実が起こさないと起きてこない時があるのだから手のやける子だ。でもそれがまた愛おしく思えるのだから私もまた過保護すぎるのかもしれない。
ハル君の眠るベッドの横まで歩いて下着を除いた衣服を全て脱ぐ。少しでも近くにハル君を感じたいのでこれは仕方がない。それに今は季節的にも暑い夜が続いてるので服はやはやり脱がなければいけないと思うから。私は慎重に布団に潜り込んで、ハル君の体に抱きつく。弟の体温が心地よい。私と同じシャンプーやコンディショナーを使うように言ってあるから、私の匂いとほぼ変わらないけれど、若干ハル君特有の…汗なんかの匂いが混じっている。胸に抱き寄せるようにしてハル君の頭を抱えてつむじで深呼吸をする。これをしなくては1日が終わったとは…いえ、始まったとは言えない。
私が寝るのが早いのは、これをするためだ。じっくりと弟成分を補給することでやっと1日分の活力を得ることができる。こうでもしないと、ハル君のいない教室で暇な時間を過ごせない。
そして、こうする内に邪な感情を抱くこともまた致し方ない。こんな近くに自分が唯一愛おしく思える人がいて欲情しない方がおかしいと私は思う。幸い、私がハル君の手や体を使って自慰行為に没頭してもハル君が起きたことはない。もし起きていて知らないふりをしているだけでも構わない。むしろその方が都合がいいかもしれない。知らないふりをするということは拒む気は無いということだから。もしそうなればたまらなく嬉しい。
私は弟の…ハル君の頬にキスをする。玉波さんを上書きしなくてはいけない。協力するとは言っても、やっぱり目の前であんなことをするのは許せない。
「ハル君…私のハル君…ずっとお姉ちゃんと一緒よ……誰にも渡さない…どこにも行かないで……」
耳元で囁く。昔読んだ本に催眠療法や催眠を用いたカウンセリングを取り扱ったものがあった。私はその方法をできる限り全て…まだ幼稚園児と小学生だった頃のハル君に試して見たけれどそれがいい結果に転んだかどうかはまだわからない。ただこうして…毎日のように私の声を聞かせることはきっと大事なことだ。ハル君は優しいからすぐに他の女の子を助けたり構ったりしてしまう。だけど心の奥底に私の存在を感じてくれればいい。私かハル君、どちらかが死ぬ時に私の横にいてくれればいい。
ハル君の足を挟んだ腰が次第に動きを早める。
絶頂に達した体が震えると同時に衝動に駆られた私はハル君の首に噛み付いた。実際に目一杯噛み付いてはハル君が飛び起きてしまうので、薄皮を1枚前歯で傷つける程度の甘噛み。
首に僅かに滲んだ血を舐めて、吸って、咀嚼する。
痛みからか流石に苦しそうな顔をするハル君の頭を撫でながら首を舐める。
今まではこんなことしなかった。自分を慰めることはあっても、ハル君を噛んだりすることなんて…でもふと思い出したあの本が、吸血鬼が私の好奇心を刺激してしまった。他の人間とは違う。私と同じ血が流れているハル君はあの本で言えば私と同じ存在、眷属のようなものだ。同じ血が流れていると言っても真実とも違う。初めて私の心を満たしてくれた。感情を教えてくれたハル君ではないとダメなのだ。血の一滴に至るまで、全てハル君と溶け合いたい。
「ごめんね…痛かったね」
絶頂の余韻と口に残る血の味を感じながら、窓の外で明るくなり始めた空を見た私は布団から抜け出して床に落ちていた衣服を持ち上げ部屋を出る。1階に降りるとリビングとキッチンから光が漏れている。今日は母さんがお弁当当番の日なのでもうこの時間には起きているのだ。
「母さん、汗かいちゃったからお湯沸かしても良い?」
「うん良いよ、風邪ひかないようにちゃんと髪乾かして学校行きなね」
「うん、わかった」
下着姿の私にも母さんが特に何かを言うことはない。私がよく朝シャワーを浴びていることは母さんも知っていることだ。
シャワーを浴びて汗を流した私は念入りに髪を乾かしてそのまま学生服へと着替える。一昨年休学してから2年ぶりに袖を通した学生服はまだ着れないことはなかったけれど、やはり胸回りや丈が若干きつかったり短いように感じた。正直、これ以上身長が伸びて欲しくはない。身長が高いということはそれだけ体重も増える。ハル君におんぶや抱っこしてもらえなくなるまで大きくなってしまっては私は死んでしまうかもしれない。想像しただけで溢れてくる涙を拭きながらリビングに戻ると寝ぼけ眼の真実が降りてきていた。
「おはよう真実」
「おはよ…思緒姉」
「ほら、早くしないと部活に遅れるわよ」
「うん…わかってる〜」
朝食を食べながら着替えるという女子らしからぬ荒技で時間短縮を図る妹は時に驚くほどズボラな一面を見せることがある。本当にこれでお嫁に行けるのか心配になる程だ。できることなら真実には真実を大切にしてくれる良い旦那さんに嫁いで行ってもらいたい。家族としての思いもあるけれど、いつまでもハル君に甘えられても困る。そろそろブラコンを卒業しても良い頃だ。妹だからハル君に好意を抱くことも許してはいるけれどこのままでは本当に独り立ちできなくなってしまうかもしれない。
「真実」
「なに〜?」
「ハル君ももうじき起きてくるから、流石にきちんと服を着た方が良いわ」
「…あっ!う、うんそうだね…ごめん」
めくれ上がっていたスカートや外れていたボタンを整えながら分かりやすく準備のスピードを上げた真実は急いで朝食を食べ終えて歯磨きに向かった。
「全くあの子ったら、ちょっとはおしとやかにできないもんかね…それと思緒、陽満がそんなすぐに起きてくるわけないでしょ。ほらお姉ちゃん、あのバカを起こしてきて」
「わかったわ」
母の言質をとったので、私は喜んでハル君の部屋に戻る。まだ暑い時期とはいえ部屋のドアを開けた時、明らかに違う湿度と室温を感じる。噎せ返るような熱気はそれだけ私が夢中になっていたことの表れでもあるけれど流石に少し汗や体液の匂いが漂っている気がする。まだ登校までは時間があるため、ハル君を早めに起こしてシャワーを浴びてもらおう。壁にかけられた学生ズボンの内側、普段なら確認しないであろう位置にこっそり作った薄いポケットに小型の盗聴器を忍ばせる。それから窓を開けて換気をしてからベッドの横に正座する。
まだ起きる気配のない弟の顔に覆いかぶさるように顔を近づける。私の髪がハル君の顔にかかる。昔私の髪が好きだと言ってくれたことがあったから伸ばしている。手入れは大変だけれど、それもハル君のためと思えば苦にならない。首筋を確認すると、今朝噛んだ場所が少し腫れている。でもまあ本人は蚊にでも刺されたと思う程度だろう。それよりも私は目の前の寝坊助に集中する。
ここまで接近しても、髪がかろうが御構い無しに眠る姿はどこか間抜けではあったけれどそれでいい。それが良い。小さな頃から私と寝ていたハル君は私の匂い、私の言葉、私の感触、私の全てに違和感もなにも感じることなく安心して生きていけば良い。
優しく、ゆっくり毒に犯されるようにと私から離れられなくなれば良い。
眠ったまま、だらしなく開いたハル君の口を唇を重ねて塞ぐ。舌でハルくんの舌に触れると逃げるようにピクリと動くのがたまらない。目は閉じない。ハル君の瞼が開こうとするまで決して目を離さない。
いずれ、息苦しくなったのかハル君の表情が変わり、瞼がピクピクと動き始めたところで唇を離す。糸を引いた唾を舐めとってからはハル君が目を開けるまでずっと見つめ続ける。
私の人生の中であと何回訪れるかわからない至福の瞬間がやってくる。
目を開けると見惚れるほど綺麗な黒真珠のような瞳が僕を覗き込んでいた。
「おはようハル君、今日はだいぶ寝汗をかいたようねご飯の前にシャワーを浴びた方が良いわ。ほら、私が干しといてあげるから」
「おはよう思緒姉ちゃん…」
ぼーっとする頭を必死に働かせながら枕や布団を触ると確かに若干湿っている気がしないでもない。
「うん…ありがと…」
体を起こし、ベッドから降りる。
「いてて…」
「どうしたの?」
「最近よく寝違えてんのか朝起きると首が痛むんだ」
「それは心配ね、今日は学校を休んだ方が良いんじゃないかしら。私も休んで看病をしてあげるわ」
「いいよ…流石に寝違えただけで休んでたら母さんに怒られるどころじゃ済まないだろ」
相変わらず過保護すぎる姉を落ち着かせながら、壁にかけておいた学生服とって部屋を出る。
「あー…眠い……あ?」
「……おはよ」
風呂場へと続く場所、つまりは洗面所。洗濯、洗顔、歯磨きやメイク等女子の多い我が家においてトイレに次ぐ使用頻度を誇る場所に先客がいた。朝、このタイミングでかち合うとはなんとも珍しいこともあるものだ。いや、洗面台に置かれた小型の時計を見るにどうやらいつもより僕が起きた時間が早い。
「珍しいね、兄貴がこんな時間に起きるなんて」
「思緒姉ちゃんが起こしてくれたからな」
「あっそ、で、なにしに来たの?歯磨きなら待ってくれる?今髪整えてんの」
「…いや、俺シャワー浴びたいんだ。すぐに風呂場に移動するからちょっと目つぶっててくれ」
「は、はぁ!?なに言ってんの!?」
真実は癖っ毛なので髪のセットに時間がかかる。別にセットしてもしなくても変わらない。というより元から可愛いのだから無理にヘアアイロンを使ったりしなくてもいい気がするのだけれど、とにかく一刻も早く汗を流したい僕にとって長い妹のおめかしを待つ余裕は無かった。
しかし、こういう時こそ家族の言うことはきちんと聞くべきなのだ。寝間着を脱ごうとする僕を力ずくで止めようと、真実は僕に摑みかかる。そして固まった。
急に動かなくなった真実を不思議に思い、僕はその視線を追う。そして僕も固まる。いや、固まっていた。
それは男子特有の生理現象なので、仕方がないといえば仕方がない。というか、僕に非はない。こいうものだ。男子はみんなこうなのだと、逆に真実にくどくどと小一時間ほど教えてやりたいほどだ。だがそれはできないし許されない。なぜなら気付いた時にはもう涙目になった真実の拳が僕の目の前まで迫っていたからである。
結局、真実がおめかし完了するまで僕は廊下に体育座りをする他無かった。待っていると、僕の布団を干し終えたと思われる思緒姉ちゃんが2階から降りて来た。
「…?ハル君、どうしてそんなところで体育座りなんかしているの?」
「先客がいた」
「…あぁ、真実ね。まだいたのね、それでもシャワーくらいすぐに浴びさせてもらえるでしょうに」
「いや、姉妹と兄妹じゃあ事情が違うというか…」
「…………なるほど、私が処理してあげるわよ」
「は、は?え、はぁ!?」
僕の隣、床に座った思緒姉ちゃんがなにやらいやらしいジェスチャーを僕に見せつけてくる。あれ?思緒姉ちゃんどうしちゃったんだ…こんなこと言ってくることなんてあったか?いや、思緒姉ちゃんだからこそなんの恥ずかしげもなく僕の事情を察したのか!?しかし姉に、尊敬する思緒姉ちゃんにそんなことを言われても正直困ってしまうのできちんと断っておく。僕も一応とはいえ義務教育を終えている身だ。姉弟間でのそういった行為は良くないことだと知っているのだ。
「い、いいから!というかお断りだから!ほっとけば治るから!」
「……!?」
あれ、なんか予想よりも思緒姉ちゃんのダメージが大きいような気がする。固まって動かなくなってしまった。
「ちょっと!ふたりとも朝から何言ってんの!?うるさいんだけど!!!」
「うるさいのはあんたら全員だよ!!とっとと支度しな!!!」
妹と母の怒号が飛び交う中、僕はすでに出かけた父に想いを馳せる。なぜ姉妹なのか…せめて弟か兄どちらかでもいいから男兄弟が欲しかったよ、と。
ハル君と共に家を出て、通学路を歩く。私の前を歩くハル君のつむじは相変わらず愛らしい。身長が高くて良かったと思えるのはこういう時だけだ。目立つうえに周囲に威圧感を与える容姿は、男子にとってあまり好ましくないと本で読んだ。きっとハル君もどちらかといえば守ってあげたくなるような可愛い女子が好みだ。そんなことを考えて、自分で自分を落ち込ませる。ただ、今日はそんな考え事をしている暇も無かった。今日からはハル君とふたりきりの登校だからだ。玉波さんは帰ったし、野美乃莉音はここ最近家まで迎えに来ることはない。ハル君と高校生活を過ごすために休学までした甲斐があったというものね。
「ハル君」
「ん?」
「横に並んでもいい?」
「…?いいけど」
「そう」
ハル君の横に駆け寄よる。手を握るのは少し態勢がきつくなるのでハル君の手首を手で包む。ハル君は何も言わない。ただこうして隣を歩くだけで私をここまで幸せにしてくれるのはハル君だけだ。私は鼻歌まじりに隣を歩く。
私の弟へ、私の気持ちは…普段表に出さないこの喜びは伝わっているだろうか……生まれてきてくれたこと、今まで側にいてくれたことその全てが嬉しい。
今日も私の…私達の1日が始まる。そしてそれはこれから先…どんな時でも変わることがない。永遠の日々だ。




