優毒
「あぁ…眠い」
「しっかりしなさいよ家内、まだ学校にすら着いてないじゃない」
あまりの眠気にたまらず呟いた僕に、玉波先輩が言葉をかけてくれる。有り難いものだ。こうして会話を繋げてくれるだけでも眠気をだいぶ抑えられる気がするのだから。
「ハル君、眠いのなら私がおんぶしてあげるわよ」
「何言ってんの家内さん、恥ずかしいからやめてくれる?」
「恥ずかしいなら私たちから離れて歩けばいいじゃない、貴女はあくまでも居候、一緒に登校する必要はないわ」
「おいおい、朝っぱらから喧嘩するなよ…」
「「してないわ」」
仲がいいのか悪いのか分からない。いや、玉波先輩がウチに初めて来た日に比べれば格段に良くなっている気もする。まぁ、この玉波先輩は基本的に思緒姉ちゃんの部屋で寝ているのでお互いに慣れるというのは当たり前ではあるけれど。
現在、玉波先輩が僕と並ぶようにして歩いており思緒姉ちゃんが僕の後ろについて来ている状況だ。まあいくら人が数人並んで歩いてもまだ余裕のある住宅街の道といえど、高校生3人が並んでいては他の通行人や自転車の邪魔にもなるだろう。
「そうだ家内、言っておかないといけないことがあるんだけど…」
「なんですか?」
玉波先輩が真面目な表情で話題を変える。
「私の両親、四日後に帰ってくるって今朝連絡があったの。だから明後日には一旦自分の家に帰ることにするわ。お母様とお父様にも今夜伝える」
「…そう……ですか」
あまりいい話題とは言えなかった。両親が帰ってくるのだから普通なら喜ばしいことだと喜べばいいのだけれど、先輩の場合は事情が違う。どちらかといえば帰って欲しくないまである。しかし僕にそんなことを言う権利は無い。返す言葉を決めあぐねる僕に変わって言葉を発したのは思緒姉ちゃんだった。
「気をつけて帰るのね、玉波さん」
「…ええ、そうね」
短いやり取りだったが、やはりこのふたりの仲がより深まっているように感じた。これはとても喜ばしいことだろう。
「なに家内、急に黙って…もしかして寂しいの?」
「なっ!?違いますよ!」
「素直じゃないわね!ほらほら手でも繋いであげましょうか?」
「いいですから!ほら急ぎますよ!」
それからも、玉波先輩にからかわれながら僕たちは学校を目指した。
昼休み、僕はいつものように号令とともに席を立つ。廊下に出てすぐに階段方面へと進む僕を呼び止める声がした。
「陽満!」
振り向くと、手を勢い良くブンブンと振りながら駆け寄ってくる泉の姿が見えた。僕の表情は曇る。嫌な予感しかしないからだ。
「なに」
「おいおいなんだ、その態度は?女子に呼び止められたとは思えない表情だぞ」
「いや、僕はもうお腹が空いてるんだ。だから泉に構っている暇は…」
「そうそれだ!屋上に行くんだろ?私も行く!今日こそ一緒にお弁当を食べよう!友達だからな!」
「……え?」
屋上に行っていることがバレている。それになんだか以前よりも明るくなっている?また僕の知らないとんでもないことを口走ったりカミングアウトしてくるものだと思ったけれど、流石に校内でそんなことはしないか?とりあえずお腹が空いていたこともあり僕は泉と一緒に屋上を目指した。
「…あれ」
屋上に出るためのドアがあるスペース、踊り場に3人と女子生徒が立っていた。そのうちの2人は最近良く屋上で目にする桜花姉妹だったが、もうひとりは意外な人物だった。
「莉音?なんでここに」
「私、桜花さんと同じクラスなんです。それで桜花さんがいつもここで陽満君とお昼を食べてるとのことでしたので」
随分と喋るのが上手くなったなと思うと同時に、莉音と桜花姉妹の微妙な距離感が引っかかる。可愛らしい笑顔を崩さない莉音に対して桜花妹は人見知りを発動しているのか姉に隠れたまんまだし、姉は姉でなんだか目が泳いでいる。しかし僕のお腹がもう限界なのか、ぐうっと小さく鳴った。
「…まあいいや、早く弁当食べたいからとっとと出よう」
「えぇそうですね」
最近手に入れた僕の楽園は不良娘に侵略され、その妹が乱入し、ついには莉音と泉まで加わることで完全なる崩壊を遂げたのだった。
『……早く食べたいからとっとと出よう』
『えぇそうですね……』
「家内さん!家内さんったら!」
目を開けると、クラス委員長の剣崎さんが私になにか話しかけてきていた。イヤホンをとって何か用?という疑問の意思を示すために首を傾ける。
「もう!だから学園祭の実行委員の件です!家内さんに会計を頼みたいんですけど」
「…そう、わかった」
話はそれだけだったようなので、もう一度イヤホンをつける。こうしている間にも事態は刻一刻と動いているのだから1秒たりとも無駄にはできない。
「それ、なに聞いてるんですか?私にも聞かせてくださいよ!」
「……あ…」
剣崎さんは私の右耳からイヤホンを抜き取ってそのまま自分の右耳にはめた。
「…これって、家内君の声ですか?」
「そうだけど」
「ちょ、そんなに睨まないでくださいよ…返します、返しますから!それにしても、本当に家内さんは弟君のことが好きなんですね」
私はもう一度首を傾げる。しかし今度はその意味が異なる。疑問を示すためではなく、なにを当然なことを言っているんだ馬鹿か?という意思表示のためだ。わざわざ声に出して会話をするのも面倒くさい。というよりも早くどこかへ行ってくれないかしらこの人。
「ふっふっふ、分からない。という表情をしていますね!でも考えてもみてくださいよ家内さん?弟君の声をわざわざ録音して聞いてるなんてもうそれは恋と言っても過言じゃないよね!」
「過言よ」
それにこれは録音ではなく中継よ。現在進行形のハル君よ。それに恋だなんて…そんなものは私には一切ない…
「あれ、思緒姉ちゃん…待っててくれたのか?」
「えぇ、一緒に帰りましょう」
放課後、午後の授業中に居眠りしてしまったために教科担任に呼び出されていたハル君と下駄箱で合流する。
「ハル君、授業はきちんと受けなければダメよ?」
「げ、なんで思緒姉ちゃんがもう知ってるんだよ」
「お姉ちゃんは弟のことならなんでも知っているのよ」
朝とは違い、私とハル君の間を邪魔するものは誰もいない。
「そういえばなんで思緒姉ちゃん最近俺の後ろ歩くんだ?横歩けばいいじゃん、話すのにわざわざ後ろ向くの結構しんどいんだけど…」
「こっちに向く必要はないわ、前を向いていなさい」
「…?うん」
ハル君の歩みに合わせて揺れるつむじを眺める。他の女には真似できない、ハル君よりも背の高い私だけの特権。このまま鼻を埋めたくなるほど愛おしい。
「そういえば玉波先輩大丈夫かな…帰るのは明後日って言ってたけどなんだかこっちが不安になるよ」
「そうね、でも玉波さんなら大丈夫でしょ」
「…本当に仲良くなったな」
「仲良くないわ」
「はいはい」
こうして、ハル君と話しながらゆっくり歩いて帰るなんていつぶりだろう。心地がいい。ずっとこのままこの時間が続けばいいのに。
「ハル君…」
「ん?」
「お弁当は…美味しかった?」
「おう、美味しかったよ!」
「そう」
その言葉と聞いて、表情を見て体が、そして心がポカポカする。本当にずるい、この子はこの優しさをきっと誰にでも向けるのだ。私以外の誰にでも…でも…今はこれでいい。今こうしてハル君と一緒に下校できているこの瞬間が奇跡のようなものなのだから。
私の中にハル君に対する恋心なんて無い。そんなものはとっくの昔に無くなった。……いいえ、肥大化し、熟し、溢れた。これを恋だなんて…世間の学生が使うありふれた言葉で表現されるなんて絶対に嫌よ。
歩いていると、急に思緒姉ちゃんに肩を掴まれる。驚いたが、引き寄せられたりしたわけではなく思緒姉ちゃんもそのまま歩いているので止まったりはしない。形だけでいえば列車ごっこをしているようにも見えなくもない。
「な、なんだよ急に」
「別に…なんでもないわ」
思緒姉ちゃんが顔を寄せて耳元で囁く。息が当たるからか、それとも思緒姉ちゃんの声が心地よいからなのかは分からないが妙にこそばゆい。
「可愛い可愛い私のハル君、いつまでも…ずっとずっと貴方は私の弟よ」




