1話『アラシ』
「ハルちゃん…」
夢を見た。知らない少女、ぼやけて顔が分からなかったという方が正しいが、とにかく少女に名前を呼ばれるという夢を。歳はかなり低そうだったが…まさか僕はロリコンにでもなってしまったのか?夢に幼女が出てきてしまうほど求めているのか?……いやそんなまさかな…あー怖い怖い。自分のまた夢についてくだらないことを考えながら目を開ける。
「……」
「……」
僕は寝ぼけ眼を擦りながら目の前で微動だにしないふたつの黒い瞳を見る。
「おはようハル君」
「いや、おはようじゃないが?」
ベッドの横に腰を下ろした思緒姉ちゃんが僕の顔を覗き込んでいた。その黒く長い髪が垂れて僕の顔中にかかっている。…いい匂いだなあ。
「今日から学校よ、早く準備してね。玉波さんがご飯作ってくれているから着替えたら降りてきなさい」
「ん」
そう言って思緒姉ちゃんは部屋から出て行く。今までも思緒姉ちゃんが起こしてくれることは度々あったのだが、最近は特に頻度が増えているような気がする。まぁ、そのおかげで寝坊の心配もないのでこちらとしてはありがたい限りだが。それにしても今日から学校か…あぁ、嫌だなあ…ずっと夏休みなら良いのに…なんでこの世には学校なんてもんがあるんだ?
母が用意してくれたクリーニング済みの制服に着替え、リビングに移動するとすでに部活へと行ったのか真実の姿はなく机に座った思緒姉ちゃんと料理を並べる玉波先輩の姿だけが僕の目に映った。
すっかり慣れてしまったけれど、先輩の両親は何時ごろ帰ってくるのだろうか…先輩の話を聞いた限り普通の親ではないが…それでもひとり娘を置いてこんなにも長い期間家を空けるとは…
「おはよう家内」
「あ、おはようございます先輩」
料理を並べ終えた先輩が朝の挨拶をしてくれた。相変わらず笑顔は下手だ。引きつった頬がピクピクと動いているのが少し可愛らしいと思えてしまう。でも先輩人前モードだと作り笑顔とか結構やってるのになんで普段はこんなに笑顔が下手なんだ?まさかまだ緊張しているのだろうか…
「ハル君、ぼーっとしてないで早く座っていただきましょう」
「う、うん」
こうして3人で朝食を食べて、それぞれの準備をしてから玄関を出る。しかし朝のイベントはこれだけでは終わらなかった。
「……あっ…」
玄関を出た僕たち3人の姿を見て、目を白黒させながら驚愕の表情を浮かべた莉音の姿がそこにはあった。
「お、おはよう莉音」
「……お…おはようございます…え?玉波先輩がなぜ…」
「あら、野美乃さん貴女喋れるようになったの?良かったわね」
「あ、どうも……」
あの夜に比べてもかなり上達している。最近は僕もしゃべる練習としてあの喫茶店に呼び出されて会話させられていたし、なにより莉音は別に元からしゃべることができなかったわけではないらしいので当然といえば当然なのだが…いやしかし莉音に言うのすっかり忘れてたな…
僕は莉音に事の経緯を説明しながら通学路を歩いて学校へと向かった。
教室に入ると、あきと目があった。久しぶりに見るあきは少し日焼けしている。
「おはよ、陽満くん」
「ん、おはよ」
短い挨拶を済ませて席に着く。今日はHRと始業式だけなので鞄からは特に何も取り出さないで済むのが楽チンだ。
「夏休み、ちゃんと休めた?」
あきが続けて話しかけてきた。夏休み前は教室でこんなに話しかけてくる印象はなかったのだが。
「ぼちぼちだな、どこかに旅行とかも行ってないし」
そういえばあきは夏休みをどのように過ごしたのだろう。夏休み中に彼女から連絡が……命令が下されることはただの一度もなかった。正直色々ありすぎて命令が下されなかったことが少しありがたかったが、なにかこうお預けを食らわされた気分も少なからずある。
「おはよう、陽満!立花ちゃん」
「あ、おはよう泉ちゃん」
一瞬、僕の心臓が止まる。その声を聞いた瞬間に寒気がしたのだ。それは恐怖というより不安だった。教室へとやってきた伊藤さんに目を向ける。そこにはいつもと…夏休み前と変わらない笑顔を見せる伊藤さんが立っている。その姿を見て、僕は少し息を吐いてから挨拶をする。
「お、おはよう伊藤さん」
しかし、それがダメだった。伊藤さんの表情が一瞬無表情になったと思ったらまた笑顔に戻る。でもそれはどこかいたずらな…なにかもっと別の感情を表面に出しているような……
「どうした陽満?私のことは名前で…泉と呼んでくれるんだろう?」
「えっ!ちょっと!?」
伊藤さんは僕の膝に座り、肩に腕を回して僕の顔を彼女の体に引き寄せる。それを見てざわつくクラスメイト達の声が聞こえる。え?なにこれ、どういう状況だ!?
「ほら、言ってみて?い・ず・みって」
「〜〜〜〜!?」
耳元で囁かれ、思わず体が震える。やっぱり今までの彼女じゃない…
「い、いずみ…」
「………あぁ、泉だよ。おはよう陽満」
満足したのか、いと……泉は立ち上がって自らの席へと移動した。
「…な、なんだったんだ……ん?あき?」
「……」
隣の席に座ったあきは口を開けてぽかーんとしている。彼女のこんな表情な見たことがない。あきはこうもっと酷い顔…そう人を玩具か何かだとでも思っている顔の方が似合うのだが。
「あき?」
「あっ…ごめん……えっと…今のなに?」
「いや…僕にもさっぱり…」
素っ頓狂な声をあげたあきから質問されるが僕には答えることができなかった。
HRが終わり、始業式のため体育館に移動した僕を待っていたのは衝撃の展開だった。…衝撃の展開多すぎない?
「えぇー、ですからして夏休み中に工事を行ったためこの体育館も含めて校内の修繕がより進んでいると思います。この学校ももう古いですから、壊れた鍵なんかもありましてね、そういったものを少しずつ修繕していますので皆さんも是非丁寧に備品等を扱ってください」
壇上に立ったおっさんが何か訳のわからんことを言っている。えーっ、確か校長とか言ってたか?あのおっさん…え?鍵やらなんやらの修繕?どこの?ここの?え?嘘でしょ?
まさにそれは、雷にでも撃たれたかのような衝撃だった。もしこの体育館の鍵が壊れていたとすればもう新体操部の部室に忍び込むことは出来ない?あきと密会することも…?いやまて、まだあの窓の鍵が治ったとは限らない。始業式もこの後のLHRも終わったら自分の手で確認すれば良いんだ…
そんなことを考えていると、体育館の中が妙にザワザワとしていることに気がついた。見れば、もうすでに壇上に校長の姿はなく、代わりに気弱そうな女子生徒が立っている。確か校長の次は生徒会長の挨拶とか言っていたからあの子が生徒会長か…なんだか大人しそうな子だな。それにしてもなんだこのザワつきは。しかしそれもすぐに止むことになる。一気に静まり返った体育館に音を響かせるのはただ一人だけだ。
「み……皆さん、おはよう…ございます」
本人が喋ったかどうかわからない。ただマイクが拾ったということは彼女が喋ったのだろう。それほどまでに消え入りそうな声が体育館に響く。その瞬間、またも体育館がザワつきに包まれた。
「今日も可愛いな生徒会長!」
「あぁ、守ってやりたいぜ」
「おい、録音できたか?」
「ダメだ小さすぎてあんま聞こえねーよ」
小声で男子生徒達が口々に何か喋っている。その小声があまりに多すぎてこの騒めきを作っているようだった。いや、それだけではない。
「……チッ……」
「カーッ……ペっ…」
見れば女子達が見るからに不機嫌な表情を浮かべている。貧乏ゆすりで体育館が若干揺れていると感じるほどだ。
……なにこれ怖い。
その時だった。体育館後方の扉が開き、生徒と教師が一人ずつ入ってきた。先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように静まり返った体育館。どうやら皆んながその入ってきた人物を見ているようだ。僕も気になったので後ろを見ると、そこにはギャルが歩いていた。
ギャル…いや不良?とにかくスカートが短く制服もなんだかはだけている。それにバッチリ校則違反の明るい髪色。すげー!この学校にもあんな人がいるんだなと僕は密かに感動する。髪色でいえば玉波先輩も大変美しい白色だが、彼女の髪は地毛であり校則違反ではない。だが今入ってきた女子生徒の髪はいかにも染めましたと言わんばかりに輝いていた。そしてなによりあの不服そうな表情だ。きっと注意にも屈しない下克上精神の賜物だろう。いや〜カックイイなあ。
……おっと、いかん。ヤンキーやら不良やらに憧れてどうするんだ。今はそれよりも体育館の鍵の件が優先だ。
僕は待ちきれない気持ちを我慢しながら時間が過ぎるのを待った。
そしてLHRも終わり放課後、僕は体育館裏にやって来た。しかし……
「うんともすんとも言わん……」
悲しいことに、僕の楽園への道は固く閉ざされていた。どうしよう…これじゃあ明日からの昼休み僕はどこに行けばいいんだ?途方にくれながら僕は悔し涙を浮かべる。
「君、こんなところでなにをしているの?」
「……え?」
突然かけられた声の方を見ると、ひとりの女子…生徒?が立っていた。なぜ?なのかと言うと、それは彼女の身体的特徴に起因する。…デカい。そうデカいのだ。その身体の全てが余すことなくデカい。身長はウチで一番高い思緒姉ちゃんよりも高い。そしてなによりその胸部。僕が今まで見て来たどんなモノよりも巨大で雄大なものがそこにはあった。一見ぱっつん前髪のボブカットのように見える黒髪は後ろで結ばれており腰あたりにまで長いポニーテールが揺れている。
「…だ、誰だ?」
僕の問いに女子生徒は優しい笑顔を浮かべながら答える。
「私は3年で風紀委員長の剣崎嵐です挙動不審な君が上履きのままこっちに来ているのを見てつけて来たの。そしたら君今そこの窓開けようとしてたでしょ?もしかして体育館の中に入ろうとしていたの?」
「ま、まさか……」
しまった、見られていたのか…まずいぞ…しかも風紀委員長?この学校そんなものまであったのか…相変わらず学校への関心意欲の低い自分に腹がたつ。
「それで、ここでなにしてたの?」
「え…えっと…」
どうすればいい?どうすればこの状況を抜け出せる?
一歩、また一歩と彼女…剣崎嵐は近づいてくる。
ボトッ……
そんな擬音が聞こえた気がした。
「…………え?」
「………………」
僕ににじり寄って来ていた彼女のスカートから何か棒状…というかなんだか見覚えのある形のものが落ちたのだ。
……というか…え?アレってアレだよな?え?どういうことだ?アレをアレしてたってことか?え?え?
「……見たわね?」
「ひっ!?」
俯いた剣崎先輩が低い声で僕に尋ねる。僕はなぜかそれに体をビクつかせ弱々しい声を出してしまった。怖がっているのだ。僕の脳が…僕の純情が言っている。「逃げろ」と。
「ねぇ、見たよね?」
「!?」
一瞬だった。地面に落ちた棒を拾い上げた剣崎先輩に一瞬で距離を詰められ肩をつかまれる。もちろん片方の手に握られた棒は僕の顔に向けられおり僕は恐怖のあまり泣きそうだった。
「…君、家内君でしょ?」
「な、なんで名前を…」
「私…君のお姉さんと同じクラスだから…以前一緒に帰宅しているところを見たことがあるの」
「そ、それが今なんの関係が!?」
「関係なんて無いわ!ただの名前の確認だから!」
「えぇ!?」
なんだこれ…というかなんだこの人…気づけば少し剣崎先輩の呼吸が荒くなっている気がする。心なしか頬も赤い。
「ね、ねぇ…この窓から入ってなにするつもりだったの?」
「だ、だからなにも…」
「口に突っ込むわよ」
「ひいっ!?」
先輩が左手に持った棒を僕の頬に突きつける。生暖かい滑りけのある謎の液体が頬に着く。
「……し…」
「し?」
「新体操部の部員に…忍び込もうとしてました…」
服の匂いを嗅ぐだとかの詳しい行為は伏せ…あきの名前までは出さない。罰を受けるのは僕だけでいい。ヒミツは守らねばならない。しかし最低限自らの身も守らなければならないのだ。
「部室?そこでなにを?」
「……」
言えない。こればかりは言えない。くそ…僕ももうここまでか…
「……ふふ、良いよ言わなくても」
「……え?」
突然剣崎先輩が笑みを浮かべる。というよりなんだかゲスい笑いに見える。
「分かってる。男の子だもんね、ヤルことはひとつだけね…ひとりでね…ぷぷ…ナニを……ぷぷぷ」
「……」
「ふひひひ……ごめんね急に。大丈夫、君のことは誰にも言わないから。だから私のこれも内緒にしてね?」
「は、はぁ…」
「あっ!」
一旦離してくれた剣崎先輩が僕にくっついて顔を寄せる。手のひらを口元に当てニヤニヤした彼女の顔はなんというか…
「もしかして好きな子が新体操部にいるの?その子の荷物使ってるの?ねえ!ねぇ!どうなの?お姉さんに教えてよ!」
この人……
「そうだ!今度オススメの女優さん教えてよ私前から男子がどんなの見てるのか知りたかったの私もおススメ教えるから」
「男子高校生か!!!!!!!!」
新学期の学校、その体育館裏。蝉の鳴き声が響く9月のお昼頃。僕は出会った。嵐のような変態に。




