7話『ハジメマシテ』
「…陽満?」
尻餅をついたまま驚愕の表情を浮かべた彼女は僕のことを見上げる。
「立てよちひろ、地面熱いだろ?」
「…!あ、あぁありがとう…」
差し伸べた手を掴み、彼女は立ち上がる。
「な、なんで戻って来たんだ?…帰ったのかと思ったよ…」
「帰ろうと思ったけどなんとなくもう少しいた方がいい気がしただけだ。まさかちひろがいるとは思わなかった」
「…そ、そうか……」
「…」
「ちひろと呼んでくれるのはなぜだ?私と付き合う気にでもなったのか?」
「違う。ただ最後に挨拶がしたかっただけだ」
「挨拶?」
本当は、自分でもなぜ彼女のことをちひろと呼んでしまったのか分からなかった。つい口に出てしまったと言った方が正しい。ただ…今ここで彼女との…彼との因縁を終わらせてしまいたいと思ったのだ。
「聞かせてくれないか…ちひろの最後……」
「……わかった」
「ちひろ、今日も遊びに行くの?気をつけてね」
「うん、いってきます!」
あの日もちひろは変わらず公園へと出かけていった。陽満さんと遊ぶために。私は一度ちひろの代わりに陽満さんと遊んだだけだったのに、なぜかもう一度彼に会いたくて仕方がなかった。今思えばそれは家庭環境や学校での生活とは全く違う彼と過ごした時間に対しての強い焦がれと欲求、そして依存心の芽生えだったのだが当時の私はそれこそが恋心だと錯覚していた。いや、それ以降の私の彼に対する想いの増長を考えればそれは恋心と言っても間違いではなかったかもしれない。
「あら?泉も遊びに行くの?」
「ちあきちゃんの家にいくの」
「そう、気をつけてね」
「いってきます」
もう一度彼の姿が見たい一心で私は嘘をつき家を出て、ちひろの後を追った。
公園に着いて、ちひろと遊ぶ陽満さんを見る。幸せだった。ただ触れることができない。それがひたすらに悲しい。ちひろは彼に触れられる。それがひたすらに憎い。なぜ陽満さんの隣にいるのは私ではなくちひろなのだろうと、なぜ私は見ていることしかできないのだろうと…私の中でそんな感情がぐるぐると渦を巻いていた。私の方が陽満さんを想っているに決まっている。私の方が陽満さんと楽しく遊ぶことができるに決まっている。私の方が……私の………方が
次の日もその次の日も私は陽満さんの姿を眺めていた。
そしてしばらく経ったある日、私は公園を出てきたちひろに見つかってしまった。
「なんでいるんだ?泉」
「関係ないでしょ!私もともだちと遊んでたの!それよりほらいっしょに帰ろ!」
「おう」
ちひろが足を踏み出す。でも私はそれには続かなかった。私には見えていた。赤色の光が。
「どうしたんだ泉、立ち止まっ
私の目の前でちひろは車に轢かれた。
幸い車の運転手がちひろの存在に気づいたのが早かったため車に轢き殺されるような凄惨な事故出なかったけど、頭の打ちどころが悪かった。すぐに病院に運ばれたちひろは眼を覚ますことなく寝たきり状態になってしまい私はそんなちひろの代わりに次の日から陽満さんのもとに遊びに出かけた。
楽しかった。虫取りも、かくれんぼも、カードゲームも彼とすることはなんでも…それに近くで感じる彼の匂いや温もりが私の心を満たしてくれた。
そしてついにその日がやって来た。家族でちひろのお見舞いに来ていた時、両親がいないタイミングでちひろが目を覚ました。
「ぅ……ガ…?」
でもそれは、生にしがみつく最後の足掻きだった。
「ちひろ?起きたの?」
「いず…み…く、る……しい」
「苦しいの?大丈夫?あ、ねえねえちひろ陽満さんって誕生日はいつなのかな…それに好きな子とかいるのかな」
「……ハァ…ハ…?」
「そんな不思議そうな顔して…ねえちひろ」
「私がちひろになってもいい?」
すぐにちひろは意識を失ったから私はナースコールを押したけどちひろはそのまま息をひきとった。
「それから母は荒れ、私はちひろとして生活しながら陽満と遊び続けた…」
「……」
僕は言葉を失っていた。想像していたよりもこれは……厳しい。今にもこの場を去りたいほど大きな闇が僕の前に鎮座していた。
「…どうだ陽満、今の話を聞いてやはり私のことを嫌いになったか?」
「……いいや」
嫌いには……なれない。僕の記憶の中の彼、つまりはちひろと伊藤さんはほとんど同一人物だった。見抜けなかった僕にとって、ちひろも……そして伊藤さんが演じたちひろもどちらも大事な友人だったのだ。その友人を嫌いになることは僕にはできない。僕は弱いのだ。
「そうか…君がそう言ってくれたら私は嬉しいよ」
それでやはり、彼女の話の内容は耐え難い。またあの時のように気持ち悪くなって来た。ちひろの死を受け入れられない。彼女の変化を受け入れられない。
「ち……ひろ……」
「…」
「ちひろ……」
涙が溢れる。呼吸が一定でなくなる。
「……うっぐ……ちひろ…」
その場に座り込み、嗚咽まじりに彼の名をつぶやく。
「ごめん、陽満」
伊藤さんはそう言って僕を抱き寄せ背中をさする。
「……あぁ…あぁぁぁあ……」
「ごめん……」
僕はただ泣いた。ちひろがもういないことに対する悲しみが、友達だなんだとのたまっていた自分の無力さが……濁流となって頬を伝う。
「……陽満」
伊藤さんは両手で僕の顔を固定し、キスをした。僕はそれをすぐに引き離そうとするが、離れない。あの時のように、舌が侵入してくるようなことはないが僕は彼女を拒むように口を結ぶ。
「……ごめん、私は弱いから。傷ついた君にもう一度告白するよ…」
「やめてくれ……」
「私は陽満のことが好きだ。初めて会った日からずっとちひろと取って代わり陽満を欲するほどに…」
「やめろ……」
「陽満は私のことも大事な友人と言ってくれたが私はそれでは嫌だ。私はあなたと恋人に…家族になりたい」
「やめろ!頼むから……頼むから…僕のはじめての友達のままで……」
失うのが怖いのだ。ちひろとの繋がりを、伊藤さんという少なくとも友達として接していた存在を失うことが。
「……陽満、君にとって私はちひろか?それとも泉か?」
「……」
「ちひろはもういないんだ。死んだ。私が殺したようなものだ。いや、私はちひろに死んで欲しかった。じゃないと陽満が私のものにならないから」
「……」
「なあ、私では…泉ではダメか?私ではちひろの代わりにはなれないか?」
「……」
「私はどうすれば陽満のものになれる?」
僕は何を言ってあげられるのか…ちひろではなく、彼女に…きっと心のままに罵声を浴びせても彼女は満足してしまう。今彼女が求めているのは許しでも告白でもない。承認だ。彼女は……伊藤泉は欲している。
自己を肯定するでも否定するでもなく、存在を確認してくれることを望んでいる。
ちひろになり損ね、伊藤泉という人格をも犠牲にして別人を演じて僕に接していたのも彼女自身の飢えと苦しみからくるものだろう。彼女には何もかも足りない。愛も欲も、そして人格さえも…人を形成する上で大事なパーツが足りない。
そしてそれは僕もまた同じことだ。ちひろという存在の欠落が僕に穴を開けている。こんなことは許されてはいけない。ちひろの代わりを伊藤泉で埋めることは彼女の望むことだから。それでも…僕は……
僕たちは互いを欲している。
自分に優しくしてくれた男に依存して恋と勘違いして。
一人だった自分にできたはじめての友達…その友達に成り代わった存在を見破れずそのまま親交を深めて。
やり直してはいけない。彼のことを思えばやり直すことなんてできない。
それでも人間は醜い習性を持っている。それは傷の舐め合いとも共依存とも言える。時にそれは誰にも言えないヒミツを共有することも厭わない存在を欲するのだ。
「伊藤さん……」
それは逃げだ。
「僕はこれ以上…友達を失いたくない」
彼に対する冒涜だ。
「だから…」
これ以上口にしては、僕はもう引き返せない。
「最初から…やり直そう。今度は僕と君自身として……」
「…あぁ……私は…伊藤泉は最初から君の友人だ」
伊藤さんが甘い声で囁く。それは望むものを手に入れた者のように歓喜に満ちた声だった。
僕にはできなかった。ちひろのことを忘れることが…伊藤さんのことをないがしろにすることが。だからこそ…やり直す。ちひろとの記憶を残したまま、彼女との新たな記憶を紡ぐ。
「……陽満…私は変わらず君が好きだ。だからこれからも君に寄り添う。だから君もできれば私のことを泉と呼んでくれ…ゆっくりでいい。私の横にいてくれ」
「……い…泉…」
「……えぇ」
「初めまして…陽満さん」




