6話「ヒメ❷」
いつの頃からだろう。私の左目が見えなくなったのは。全く見えないわけじゃないけど、そう…最初は色の判別がつきにくく感じるようになった。次第に目に映るものがぼやけるようになって、最終的にはほとんどなにか分からなくなった。このことを両親に相談しようとは思わなかった。右目でものを見ることはできるし、絵を描くことにも困らない。少し遠近感や平衡感覚が狂ったり、左側で動くものなんかに対する反応が遅れてしまうことはあっても人生に影響はないと考えたからだ。なにより、このことを相談した結果さらに両親から突き放されるのを恐れた。しかし、子供がこんなことを隠し通せるはずもなく小学校の身体検査で異常が見つかり、両親へと伝えられた。怖かった。もしかしたら親に捨てられてしまうんじゃないかとさえ思った。
…………現実は…現実は、想像を超えるほど残酷で当時の私を傷つけた。父と母は、私の目に対してなんの反応もとらなかった。絵を描くことができるなら、片方の目が見えていようがいまいが彼らにはどっちだっていいのだ。もはや私に信じられるものなんて無い…それでも…一度だけ私にも大切な人ができたことがあった。
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『中学3年生、ホワイトデー。翌日に卒業式を控えたその日、あっけないほどいつもと変わらない授業と卒業式の練習、SHRを終えた私はクラスでの思い出を振り返ろうと担任が企画した集まりをサボって独りトイレで泣いていた。特に感きわまるようなことも、いい思い出も無かったはずなのになぜか右目から流れる涙。理由も分からず泣いていると、女子トイレの窓の外から声がした。
「誰か知らないけど、泣いてるのか?」
慌てて窓を確認すると、まだまだ肌寒く気を抜けば粉雪の舞う天気にも関わらず窓が開いていた。窓から外を見渡しても、声の主は見当たらない。「下だよ、下。」また声が聞こえたから下を覗くと、男子生徒のつむじが見えた。その男子生徒は後者の壁にもたれるようにして座っていた。
「な、なんでそんなところに……ここ女子トイレだよ?」私の問いかけに男子生徒は答える。
「これ。」男子生徒は右手に持ったあるものを私に見せる。丁寧に包装された箱?ああ、ホワイトデーのお返しだろうか?
「ありえないだろ!?普通ホワイトデーってのは男子から女子にバレンタインのお返しをするんじゃないのか!?それなのになんで僕の下駄箱の中に手紙とチョコが入ってるんだ!」
そう言いながら左手に持った手紙をヒラヒラと揺らす。
「あっ…そういう……」
「っ!?ち、違うぞ!断じて男子からのものじゃない!手紙には綺麗な文字でここで待ってると書かれているんだ!こんな綺麗な文字を男子が書くわけないじゃないか!」
男子生徒は慌てておかしな理論を並べるが流石に無理がないだろうか……
「……どっちにしろ、私がここで泣いてたら邪魔になるよね…場所を移すよ」
「いや、そこにいてもらって構わないぞ」
「…え?」
「この手紙…本当は2時間前に待ち合わせだったんだけど未だに待ち人現れずだ。」
「に…2時間!?雪が降ってる中ずっとそうしてるの?」
「もしかしたら、なんか理由があって遅れてるだけかもしれないしな…」
「そ、それはないんじゃないかな…さすがに…」
「だぁーーーーーー!やっぱりそうだよなぁ…からかわれただけなのか…?」
「ぷっ…あははっ君はおかしな子だね」
「…やっと笑ったな」
「あっ…」
「なぁ、あんたなんで泣いてたんだ?」
そういえば、私はなんで泣いていたんだろう。気づけば右目から流れていたはずの涙は止まっている。
「うーん、わかんないやっ」
「ふーん…」
そう言って、男子生徒がこちらを見ようと態勢を変えようとしたのが目に入った。
「ダメ!!!!」
「え!?」
「あっ…ごめんね…でもダメ。」
「そ、そっか。そうだよな。そもそもそこ女子トイレだしな」
少し強く言いすぎてしまっただろうか…もしかしたら怖がられてしまったかもしれない。
「なぁ、コレやるからこんなところで泣いてないでもう家に帰った方がいいぞ。今日はこれからもっと冷え込むらしい」
男子生徒は右手で持った箱の包装を雑に破いて、箱に入ったチョコレートを差し出す。
「くれるの?私に?」
「あぁ、本来男子が女子に渡すって日ならこっちの方がきっと正しい」
「な、なるほど…あ、ありがとう……」
生まれて初めて男の子からもらうプレゼントが、知らない誰かからのチョコレートだとは私も思っていなかったけれど、この時私の心臓は急激に跳ねる感覚を早めていた。こちらにそっぽを向く形だからか、少し取りにくかったもののチョコレートを一粒もらった私はそのチョコをおもむろに口に放り込む。
「…………どうだ?」
「……すっごく苦い…………」
「そっか……」
チョコを噛むたびに、少しずつ歪んでいく風景。熱くなる左目。私は泣いていた。いつしかものを見ることを諦め、涙すら流れなくなった左目で。人の…人の優しさに触れることとはこんなにも暖かいものだったんだ……
「綺麗だな」
急に発せられた男子生徒の言葉に、私はびくりと体を震わせる。
「き、急になにを!?」
声が震えた。
「いや、ほら雪だよ。」
「え!?………あっ……」
パラパラと舞っていた雪がいつのまにか空を覆うほどの量になっていた。
「やっぱり、白が一番綺麗だよな!」
「へっ…………!?」
「白が一番好きだ!」
自分のことではない。そんなことはわかっていても、私の顔は勝手に熱くなり心臓の鼓動も早くなる。この気持ちは…いままでに感じたことないものだったけど、これがなんと言うのか私は知っていた。
……ここで…こ、告白なんてしたら……もしかしたらokをもらえたりしないだろうか…………いや、ダメだ……もし告白を受け止めてくれたとしても私の姿を見たらきっと……
でも……
「なぁ」
男子生徒が声をあげる。
「多分、あんたが泣いてた理由って明日卒業するからだろ?たしかに友達とかと高校が別々になったら寂しいだろうけど、新しい友達だってできるよ」
違う……
「僕もさ…小学生の頃学校は違うけどよく遊んだ親友がいたんだけど…中学に入る前に相手が引っ越して結構落ち込んだ覚えがあるよ」
違うの…………
「でも!今こうして僕とあんた…先輩?は結構仲良くお喋りできてたよな?」
私が泣いてるのは、卒業が寂しいからでもましてや両親とのことが原因でもない……
「だからさ、そうくよくよすんなって!また僕みたいなやつが先輩に声をかけるからさ…そしたらその時はそいつに思いっきし甘えればいいんだよ!」
君が…………
独りぼっちの私を見つけてくれたから……
…………………………だから。
「君が…」
「え?」
「君がいい…。私は…君に見つけて欲しい」
「…へ?」
「どんなに時間がかかっても、どんなに寄り道したって良い」
感情が溢れ出すままに、言葉の意味を咀嚼することなく口にする。
「君に私を……本当の私を見てほしい……。」』
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初恋だった。一生に一度。今までも、そしてこれからも。あの男子生徒だけのことを思い私は生きて行くんだろう。
…あの時、自分が言った言葉に恥ずかしがって女子トイレから逃げ出したりしてなければ今頃私はあの男子生徒と付き合ったりしていたのだろうか……いや、そんなに上手く行くはずがないか。
でも……あれがきっかけになったことには変わりない。私は高校生になってから少しずつ自分を変える努力をした。残念ながら今でも友達はいないし、両親との仲も最悪と言って差し支えない。それでも、あの男子生徒に次会う時に…ただ見つけてもらうのを待つだけなんて嫌だから。
今度は…今度は私が彼を…
「それじゃあ今日の授業はここまで。学級長挨拶頼む」
しまった。つい昔のことを思い出してたら授業がいつのまにか終わってしまった。
「起立、礼」
私の礼に合わせて、クラスメイト達が挨拶をする。成績と普段の授業態度…私の場合は多分目立つからというのも理由に入っているんだろうけど。ほとんど喋ったこともない生徒たちのために、私は今日も真面目に努力家の委員長を演じる。先生や他の生徒から話しかけられた時に、素の私が出てしまわないように硬く、何層にも塗り固めた嘘をついて。授業が終わり、私が部長を務める美術部の部室へと向かう。
まあ、部員は私一人だけだけれど。
何度も賞を受賞している功績があるからこそ認められている部は私の唯一の誇りといっても良い。急いで部室へと向かうため、早歩きで歩いていると階段へと続く廊下の角でひとりの生徒とぶつかった。
「きゃっ!」
「うお!?」
慣れてしまってつい忘れがちになってしまっていたけど、そういえば私の左目はほとんど見えてないんだった……
「すみません。ついよそ見をしてて…」
……………………いや…
「気にしてないわ、大丈夫だから」
そんなはずは…………でも…この声…自分の考えがまとまらないまま、とにかく前へ進もうとした私は男子生徒の足へつまづく。
「危ない!」
男子生徒が咄嗟に手を伸ばして私を受け止める。私を前から抱きかかえる形になり、互いの顔がほぼ接する寸前まで近づく。その時、今までほとんど見えなかった左目に異変が起きた。
ほんの一瞬。
ただの気のせいかもしれないけど、一瞬だけ左目と彼の目が合った気がしたのだ。
「ご、ごめんなさい!もう大丈夫だから!」
「あ、すみません!つい…」
急いで彼から離れて階段を駆け上る。すると、恐らく彼のものだと思う声が下から聞こえた。
「ものすごく、綺麗な人だったな…」
瞬間、私の左目から涙が流れる。名前も、学年もクラスも分からないけど………………………間違いない。あの声は、あの時の男子生徒と全く同じだった。
「…………見つけた。今度は…私が………………」
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その後、部室に着いてからも興奮が収まらなかった私は一旦落ち着くためにトイレで顔を洗った。よく考えれば、声が似ているだけの別人だってこともありえるし…
「はぁ…戻ろ……」
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部室へと帰る時、不審な男が部室を覗いているのを見つけた。その後ろ姿、どちらかというとつむじを見てさっきまでの私の悩みは完全に消える。
「君、美術部へ何か用?」
「うぁ!?」
急に後ろから声をかけられてビックリしたようだ…なんだか可愛い。
「うぁ!?って、随分と失礼な挨拶ね」
「あ!す、すみません…」
何度聞いても、やっぱりあの時の男子生徒と似た…いや、同じ声。なにか私に伝えることでもあるのかな?も、もしかしら告白……そんなわけないか…
「それで?ここへはなにしに?」
しまった…いつも先生やクラスの人達にするような少し低めの声で話しかけてしまった…威圧したとか思われていないだろうか…
「あっ、さっき階段のあたりでぶつかった時に落としませんでしたか?」
すると男子生徒は手に持った白いハンカチを私に見せる。スカートのポケットに手を突っ込んでハンカチが無いことを確認した。
さっきぶつかった時!?
自らの失態に一気に恥ずかしくなった私は彼のもとまで進んでから、ハンカチを受け取る。せめて、感謝の言葉だけでもちゃんと伝えないと彼に嫌われてしまう…久しく使っていなかった表情筋を総動員し、精一杯に可愛い笑顔を作る。
「ありがとう」
あまりにも恥ずかしいのでこの場は一旦終わらせようと思い、彼の左横を通り過「痛っ!」
彼の左半身にぶつかった。わ、私の左目!もう少しだけ遠近感をちゃんとしてよ!お願いだから!
「ご、ごめんなさい。それじゃ…」
すぐに体勢を直して、部室に入い「痛っ!」
今度は部室のドアにぶつかった。……もう、彼の顔を見ることができない…でも、少しだけ気になって後ろを向くとやはり彼は私がドアにぶつかったところまで全て見ていたようだった。
「こ、これは君とこのドアが悪いのよ!私は悪くないわ!」
なんて苦しい言い訳だろう。自分のドジを認めないあたりに、私の醜いプライドかなにかを感じる。これじゃあ、ただ失敗を認めたくないわがままな女じゃない…彼に向かってほんとのことすら言えない自分が恥ずかしくて、顔が沸騰するかと思うほど熱くなる。彼を見ると、少しの間ポカーンとしていたけどすぐに笑顔になってこう言った。
「はい、そうですね!」
……あぁ…やっぱり…ダメだ。私は…………
私は彼のことを、どうしようもないくらいに好きなんだ。




