4話「キンダン」
久しぶりに雨が降ってジメジメとしたこの日。僕は授業に全く集中できないでいた。理由はもちろん、最近めっきりしなくなっていたアレである。あきからの命令を聞くことの方が割合的に多くなっていた僕はついに、新体操部の私物の匂いを嗅ぐという僕の《ヒミツ》に対する禁断症状を発症したのだ。シャーペンを持つ手が震えて、うまく板書がとれない…動悸がして息も苦しい…早く、早く部室に行かなくては……時計を見るとあと数分で昼休みに突入するが、僕にはいくつかの試練が課せられていた。ひとつ目は僕の隣の席でスヤスヤと眠る立花あき。
僕のヒミツを知る数少ない人物の1人で、そのことを黙っている代わりに彼女の命令をなんでも聞くという《契約》を結んでいる。
おそらく今日も僕の後から部室にやってくるのだろうが、残念なことに今日は1人で集中したい気分なのだ。ふたつ目はあきと同じく僕のヒミツを知る野美乃莉音。基本的に朝と放課後以外で彼女の方からやって来ることはほぼないのだが、昨日の中庭でのこともあり油断はできない。
そしてみっつ目、これについては全く予想できないイレギュラーとしか言いようがないが3年生でつい最近知り合った玉波姫。昨日もそうだがその行動原理が全くわからない。僕のことを気に入ってくれてはいるのだろうが、一体なにが目的なのだろう…少なくとも、この3人から逃げ切って部室に行かなくては僕に安寧は許されない。
秒針が頂上に達すると同時にチャイムがなり、委員長の号令で授業が終わる。それと同時に僕は教室を脱出して、真っ直ぐ階段を目指す。2階へと下る階段に差し掛かった時、僕に衝撃が走った。
「あら、奇遇ね家内」
ある意味一番会いたくなかったお姫様の手を見ると、昨日と同じくピンクの手提げ袋を持っている。……まさか教室であれをやる気だったのか?……恐ろしい子。だが、好都合。ここで先輩を振り切れば不安の種がひとつ減ることになるのだから。
「すみません先輩!今急いでるんで…」
「なっ、ちょっと待ちなさい!」
横を通り過ぎる僕を追うように、先輩が手を伸ばそうとするが……
「きゃっ!?」
濡れた階段で足を滑らせ玉波先輩がバランスを崩す。あぁ、そういえばこの人ドジっ娘だったな…僕はそれをお姫様抱っこの要領で受け止めて、しっかりと先輩を自分の足で立たせて立ったことを確認してからその場からすぐに立ち去る。
「それじゃっ!先を急ぎます!」
「だから待ちなさいってーー!」
上から聞こえる先輩の声を聞き流し、僕は再び部室を目指した。
玉波先輩を躱して1階まで一気に駆け下りると、ちょうど僕の目指す方向から莉音が姿を現わした。どうやらこちらに気づいたらしく、パッと笑顔になる莉音。しかし、すでに僕には莉音に構っているほどの余裕が無かったので手短に「ごめん、また放課後な。」と、ひとこと言い残してその横を通り過ぎ………
ガシリ。
そう擬音が聞こえたと錯覚するほどの鈍痛が僕の右腕を襲った。ミシミシと軋む腕には彼女の手が握られている。
「莉音!?痛い!痛いって!」
【どうして、通り過ぎようとするのですか?】
スケッチブックとペンを持ち合わせていなかった莉音はスマホのメモ機能を使って僕に意思表示をする。
「あ、いや…それは…」
果たして、どこの学校のどんな男子生徒なら女子に向かってこれから女子新体操部の部室に忍び込んで犯罪行為に手を染めようとしていることを白状することができるというのか。もしそんなヤツがいるとすれば、そいつはとんでもないバカ野郎だろう。もじもじしながら返答に困る僕を見て、なにかを察した莉音は再びスマホに文字を打ってから恥ずかしそうにそれを見せてきた。
【…もしかして、溜まっているのですか?】
一瞬…というより、数秒の間僕は目の前に提示された文言の意味を理解することができなかった。溜まる?いったい何が?アレか?
【ですから、欲「違うぞ!!!!!」
目の前の女子生徒が伝えようとしたとはおおよそ思えない文字を、僕は全力で否定する。いや、正確に言えば合ってるっちゃ合ってるし、莉音は結構性に関して僕なんかよりもよっぽどガツガツとした面があるので案外その意味も理解しているのだろうけれど…若干襲われ気味ではあったがすでにキスをしてしまっている僕が言うのもなんだけれど、なんというか…まだ付き合ってもいない男女がそのような話をおおっぴらな場でするのはどうかと…
童貞特有の貞操観念を遺憾なく発揮した僕は、この状況に恥ずかしさすら覚え始めた。周りを見ると、購買やコンビニに昼食を買いに行く生徒や職員室に戻る教師などちらほらと人影も見え始めており、あまり目立ちたくない僕にとっては最悪の状況になりつつあった。
今日は…諦めるしかないのか………
「あぁ、いたいた!野美乃!お前今日日直だったよな。夏季体験学習の追加資料作っておいたから、教室まで運んでくれないか?」
絶望に飲まれていた僕を救ったのはひとりの教員だった。
声をかけてきたこの教師は…確か、2年3組の担任だったか?なるほど、莉音は3組なのか…
すると莉音がスマホを教師に見せてなにやら抗議をしているようだ。…普段もああやって意思疎通しているのか?
「なんだ?野美乃、やけに元気だな。ん?あぁなるほどそういうことな!やるなあ野美乃〜」
教師は僕と莉音を交互に見て、なにやらニヤニヤしてから莉音を茶化す。
「でも、日直の仕事はちゃんとやってもらうからな。」
そう言って教師は莉音の首根っこを掴んで連行する。
莉音は涙を浮かべながら僕を見るが……………すまない莉音、今の僕に君を助けることは……できない……。
断腸の思いで、僕は莉音を見捨てた…
ここは振り返らずに、莉音達とは逆の方向へ進んだ方がカッコよかったりするのだろうけれど残念なことに僕の目的地は彼らと同じ方向にあるので、ゆっくりその後をついて行くことにした。
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職員室に連れて行かれる莉音の顔を思い浮かべると若干の罪悪感が浮かばないこともないが、とうとう僕は目的の部室へとたどり着いた。あとは、あきが来る前にコトを済ませれば全てが解決するんだ。
ドアノブに手をかけてゆっくり部室のドアを開く…………
「やっと来た。」
ドアを開けた僕を待っていたのは、部室の真ん中で椅子に腰掛けるあきの姿。
「え!?なんでもうここに…」
「ふつうに別の階段から降りて来たんだけど、陽満くん遅いんだもん…待ちくたびれたよ。」
……やはり、時間をかけ過ぎてしまった…これではもう僕の目的は果たせない…
「ねぇ、今日は一段と急いでたみたいだけど、もしかして目的はこれかな?」
そう言ってあきは自らのロッカーから鞄を取り出して、その中から一枚の布切れを取り出す。それは、少し汚れが目立つ靴下だった。
「な、なんでそれを…!」
自分の企みがバレた僕は汗をダラダラとかいて明らかに動揺してしまう。
「ふふ…私ね、陽満くんの考えくらいすぐわかるのよ。」
なに?それはマズイ…普段考えているヤバめなことも筒抜けだったら僕は恥ずかしくて引きこもってしまうかもしれない。
「ま、それは冗談だけど。」
「……それで…。」
「ん、なに?」
「…今日の命令はなんなんだ?」
「ああ、それね。」
僕の問いにあきは少し考えるそぶりをしてからニヤリと笑う。あの笑顔の時は大体碌なことを考えていないが、僕は僕でその笑顔に対して期待を抱いてしまっている節があるのでお互い様である。
「あの時、あの娘とやってたことをわたしにもしてもらおっかな。」
「な、なんのことだ?」
「とぼけちゃって、屋上で手錠。これだけ言えばわかるでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間僕は屋上で莉音に手錠をかけられ、その鍵を探したことを思い出す。
「で、でもここには手錠なんてないだろ?………あるのか?」
この女なら、立花あきなら持っていそうでもある。
「いやだなあ、流石に私も手錠なんて持ってないよ。」
その言葉を聞いて、少し安心する。
「じゃ、じゃあいったいどうするんだよ?」
「まあまあ、とりあえず目…瞑って。」
既にこれは立花からの命令が始まっていると考えて、僕は大人しく目を瞑る。
少し経って、僕の顔になにかが巻きつけられる。つまりは、目隠しをされた。
「目隠し?」
というか、なんだこれ?妙に肌触りがいいな。
なんだかいい匂いもするし
「そそ、目隠し!ちなみに素材は私のレギンスね。」
……なるほど。
「あの時と違って、陽満くんは手も自由に使えるけど目隠しを外すのは禁止だよ。今から私がこの部室のどこかにこの靴下を隠すから、5分以内に陽満くんが見つかればご褒美をあげる。」
「……?ご褒美?5分以内に見つけられなかったらどうなるんだ?」
「その時は、きっつい罰を受けてもらうから覚悟しててね。」
なんてこった…こりゃあ大変なことになったぜ。
「それじゃ、今から靴下隠すから。」
真っ暗な中、あきの声だけが僕の頭に響く。
手を使ってもいいというのは案外楽な条件なんじゃないのかと思うが、全く前が見えない状況で手探りというのは結構辛かったりするのだろうか…
ガチャガチャとロッカーを開く音がする。ん?開けすぎではないか?……あぁ、ひとつに絞らせないために全部を開けておこうって策か!なんだか、ゲームっぽくて少しやる気が出てきた。それに、これはチャンスだ。探すついでにロッカー内の匂いを堪能することも可能ではないか?
「…………じゃあ、今からすたーと。」
「うは!?」
僕がつまらんことを考えていると、急に耳元であきが囁いた。その妙にこそばゆい感触に、たまらず変な声を出す。…おちつけ。とにかく5分間で靴下を探すんだ。鼻息を荒げ、気合いを入れた僕は暗闇へ1歩を踏み出す。
「よし、それじゃ行くぞ!」
覚悟を決めて暗闇へと一歩を踏み出した僕は、まず足を使って足元を探る。流石に障害物をわざわざ設置したりはしないだろうが、元々この部屋に置かれている机や椅子にぶつかっていてはタイムロスが大きくなってしまうからだ。おそらく、あきは靴下をロッカーの中にある鞄のいずれかに隠したと予想して行動しなければ5分以内に靴下を見つけることは不可能だろう。
幸い、あきの靴下の匂いなら嗅ぐことさえできれば判別可能だ。ある程度ロッカーに近づいたと思った僕は手を伸ばして確かめる。すると指先に冷んやりとした感触を感じたため、それを頼りに歩を進める。なんとかロッカーの手前にたどり着いたら、今度は手探りで鞄を探しチャックを開ける。しかし、本来チャックを開けて確かめる必要性は全くない。そもそもあきが隠した時、ロッカーの開く音はしてもチャックの音なんて全くしなかった。
それなら、なぜ今僕はチャックを開けているのかといえばこう言う他ない。目の前に、女子の私物、それも一度着て脱いだものが入った鞄がありチャックが閉まっています。開けますか?開けませんか?
答えは簡単、開ける。だ。
チャックを迷わず開け、中を探るといくつか布製のものやプラスチックのようなものが入っていることがわかった。
「………………これだ!!!!」
なにかは分からんが布製のものを手に持った僕は一気に引き抜き、それを鼻へ押し当て一気に息を吸う。その瞬間、スパンッといい音をたてて僕の頭をなにかが叩いた。
「は、はずれだよ」
「む、はずれか〜くっそ〜」
「……わざとでしょ…」
「えぇ?いやだな〜目が見えないんじゃこうして匂いを嗅いで確かめるしかないじゃないか」
「ふん、まあいいや。あと3分だよ」
な!?やはり目が見えないというのは不自由なものでひとつひとつの動作をとるのにも恐怖心が多少ある。このままではあっという間に時間切れだ。
「仕方ないか…うりゃ!!」
横に数歩思い切って移動した僕は、手探りで鞄を探してからチャックを開けてその中へ顔を突っ込む。一つ気づいたことがあるのだが、目を隠した状態だとなんだかいつもより嗅覚や触覚が研ぎ澄まされた気がする。まあ僕の場合は単なる気のせいだろうが、実際目の不自由な人の中にはそれ以外の五感が機能を補うように発達するなんて事例もあるそうで、あながち僕の嗅覚も気のせいではなく本当に研ぎ澄まされたりしているのかもしれない。そんなことを考えながら先ほどと同じ要領で一気に息を吸った僕は頭に衝撃を覚えながらも、匂いの分析を怠らない。
これは…柑橘系の香り?制汗剤かなにかだろうか。その中に…なんだろう……なんか懐かしいような…うーん……
「はい!時間切れ!もう終わり!顔を離しなさいって!」
力ずくでロッカーから離された僕は目隠しを外してあきの方を見る。
「まったく、なんで迷わずロッカーに一直線なの!?ちゃんとヒントもあげたのに!」
「ヒント?」
そんなものあっただろうか…
たしか彼女が提示したのはこの部屋のどこかに隠すってことと目隠しをすることだけであとは何も……
「あの時と同じようにって…」
そう言いながらあきはスカートのポケットから靴下を取り出した。
「あっ……」
あの時と同じように……
確かにあきは言っていた。
「……どうせ、私よりもロッカーの中身の方が魅力的よ……どうせ…」
これはまずったな……まさか本人がそのまま持ってるなんて…多分あきの狙いは彼女が隠し持っている靴下を僕が手探りで探すというところにあったのだろう。いくらあの時の再現といっても、そこまで張り合わなくても……
少し拗ねてしまったあきを慌ててフォローし、そのままご機嫌をとることに費やすこととなった僕の昼休みは……これだけでは終わらなかった。
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あきの機嫌をなんとか直して、解散となったが授業まではまだ時間があるので自販機にでもジュースを買いに行こうと思った僕は1階の職員室前から購買へと続くドア付近を歩いていた。
「探したぞ!陽満!」
僕を呼ぶその元気な声は、玄関口方面からかけられた。声の主は伊藤泉。あきの友人で誰とでも仲良くするスポーティな元気っ子だ。伊藤さんは僕の近くへ駆け寄ると
「さっき、落ち込んだ様子のシロ先輩を見たが心当たりはないか?」
と質問してきた。
シロ先輩?ああ、玉波先輩のことか。心当たりならすんごいあるな……まじか…先輩落ち込んでたのか、悪いことしたな。
「そ、そうなんだ…先輩どの辺にいた?」
「3階だ!」
3階?2階じゃないってことは美術部の部室に向かったのか?
「ありがとう、僕探してみるよ。」
「ああ!そうしてくれ!私は遅めの昼飯だ!」
そう言って彼女の隣を通り過ぎる時、どこかで嗅いだ覚えのある柑橘系の香りがした。




