1話「ボク」
6月も半ばに差し掛かり、連日の雨の影響かジメジメとした空気が教室を包む。しかし学校生活の中でも楽しみな部類に入るであろう昼休みまであと少し、時計の短針と長針が両方ともてっぺんを指したあたりから生徒たちは浮き足立っていた。
そんな教室の雰囲気とは真逆で、廊下側の窓際一番後ろの席で僕はため息混じりに、ただじっと考える。一体どうしてこんなことになってしまったのか。
「ねえ」
ビクッと体を震わせ、ヒソヒソと声をかけてきた隣の席の女子を見る。《彼女は》普段人前で見せる大人しそうな雰囲気が嘘であるかのように、蠱惑的で艶めかしく微笑み一言だけ発した。
「今日も行くよね?」
……ほんと、なんでこんなことになったんだ…。
ーーーーーー
数日前、同じように空気のベタつく雨の日だった。
昼休みを告げるチャイムと同時に僕は席を立ち、教室を後にする。別に、購買に昼飯を買いに行くとか職員室に呼ばれているだとか、なんとなく1人になりたいだとかそんな理由ではない。クラスメイトは僕のことを気にしない。僕の名前を知っているかすら怪しいほど、クラスの中で僕は空気だった。
勉強は中の下、スポーツもあまり得意な方ではなく友達といえば小学校の頃まで遡らないと覚えがないほどの孤立ぶりだ。ただ、毎日決まって昼休み12時30分から13時20分までの50分、僕にはやらなければならない日課があった。もはやルーティンと言っても過言ではない。それほど僕にとって《それ》は、重大な意味を持っていた。
2年生の教室がある3階から1階まで降り、1年生の教室がある方向とは逆、玄関口を隔ててこの時間誰も使わない特別教室が並ぶ廊下を進み食堂へと続く渡り廊下に出る。しかし雨が屋根にぶつかる音を聞きながら僕は食堂を通り過ぎてその奥にある建物へと向かう。その建物とはこの学校の体育館だ。
僕は誰にも気づかれることなく体育館へと入る。正確には体育館の鍵はしまっているので、裏へと回り込んだ場所にある鍵の壊れた小さな小窓からだけれど。
裏へ回った時少し雨に濡れてしまったが気にしない、傘も持ってきていないのに近くのコンビニへメシを買いに行くやつもいるし、雨の日の廊下はかなり汚れているから濡れていようが気にする者もいないのだ。体育館に入り、出入り口とは反対側にあるトイレや室内運動部の部室の並ぶ廊下へと行きある部屋の中へ入る。
そこは、新体操部の部室。
女子生徒数人で週2回放課後に練習があれば良い方の部活とは名ばかりの同好会のようなものだったが僕にとってそんなことは重要じゃなかった。なぜこの部屋に入ったかといえば、鍵が開いていたから。他の部室は鍵がかかっており、入れなかった。
ここだけ開いていたのも不思議だったけれど、おそらく顧問の先生が女子にかなり甘い数学の宮崎ということも関係があるのだろうか。まあどうでもいい。
本当に偶然だった。ある日教室で寝たふりをしているのも億劫なので暇な休み時間を使い学校の隅々まで見てみようとした僕が見つけた、僕だけの世界。ここだけは外のジメジメした空気も、むせ返るような雨と土の匂いも、なにより僕以外の誰も存在しない場所だった。
ここを見つけてからというもの、僕は昼休みにこの部室に来て一人で弁当を食べ、スマホをいじって時間を潰す。そんな日々を送っていた。でも、僕のヒミツはこの場所そのものではない。
それは本当に偶然、いや出来心だった。
ある日のこと、一度だけひとりの女子生徒が教師の許可を得て忘れ物を取りに来たのだ。体の柔らかさには自信があったからなのかは今でも分からないが、僕は咄嗟に人1人がやっと入れるかと思われるロッカーに隠れて事なきをえた。
しかし、それがダメだった。
部室の中に漂う女子特有の香水だとかの甘い匂いとは違う、もっと濃い
汗や、体臭や、香水や、なにか男子には分からない。
そんな臭いが僕を襲った。
一瞬目眩がするほどの衝撃を受けた。女子というのはこんな香りがするのかだとかいろいろ考えが浮かんだが、とにかく女子生徒が部室を出るまでじっとすることにした。
女子生徒が部室と体育館を後にしたのを確認して、僕は自分が今まで入っていたロッカーを見る。名札には立花と書かれていたが、ありふれた苗字である事以外なんの気も止めなかった僕は先程自分を襲った臭いの正体を確かめるべく扉を開け臭いを嗅ぐ。
正直、物凄く興奮した。今までないほどに息を荒げ臭いを嗅ぐ僕はロッカーの中に鞄が置かれているのを見つけ、手を伸ばす。
ん?待て待てなにをしようとしてるんだ自分は……と思いとどまることもなくただ自分の探究心を得るためだけに鞄のチャックを開けその中から靴下を取り出した。
練習中に履くものだろうか?
そんなことを想像しながら鼻に押し当て、息を大きく吸う。
目の前が真っ暗になった。
それほどの衝撃を受けた。
気付いた時には、鞄の中からタイツやシャツ、タオルなんかを取り出し僕は臭いを嗅ぐことをやめられなくなっていた。
字面だけだと、とんでもないことだが僕にとってはそれがやらなければならない日課として定着するようになった。もちろんこんなこと誰にも言えない。言えば最後、下手をすれば退学だろう。正直、自分がこんなことをするようになるなんて思ってもいなかったがこの行為をするようになってから僕の眼に映る風景は色づいたような、そんな気がしたのだ。
人に言えない、最低で、最高で、恥辱的で、そして生きていると実感できる僕の《ヒミツ》はこうして形成されていった。
あの日までは…………
「ねえ、なにしてるの?」
「うわあっ!?」
扉の開く音とともにかけられた声にバランスを崩しひどく不恰好に崩れながら、声の方を見ると1人の女子生徒がこちらを見下ろしていた。少し太めの眉毛と肩ほどで切りそろえられた黒髪、おっとりとした表情のいかにも可愛らしいといった雰囲気の女子はいつまでも固まったままの僕を見かねたのかもう一度声を出す。
しかしそれは、先ほどまでの雰囲気とは全く違うものだった。口角が釣り上がり、目は細められ、まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供の様な印象を受ける。
それほど無邪気な笑顔と声だった。
「それ、私のタイツなんだけど」