鏡
僕には確固たる目標がある。僕はいま、そこに向かって、一歩一歩着実に歩いている。先陣を切って――
しかし、昔はそんなんじゃなかった。刹那刹那が楽しく安穏であれば、それでよかった。
勉強はしなかった。苦痛だったから。
スポーツもしなかった。へまをしたら笑われるから。
男友達は作らないようにした。裏切られるのが怖いから。
女友達も作らないようにした。面倒だから。
しかし、来る者だけは拒まなかった。そんな相手とだけ、傷をなめ合うように付き合った。ぬるま湯が心地よかったのだ。
それもこれも、僕に目標がなかったからである。それは親のせいだ。学校のせいだ。子供の僕を、そのようにちゃんと導いてくれない世の中が悪い。
ずっとそう思っていた。
ある夜、居心地のいい友達とつるんで、ゲーセンで遊んだ。それですっかり遅くなってしまった。
町を抜けると、家までの道のりは堤防に挟まれた一本道。僕の家は、輪中地帯の真ん中に建っていたのである。
道路は街灯の明かり一つなく、あたりは真っ暗だった。おまけに自転車のライトは切れている。
道の左右は、畑が延々と続く。暗がりの中を何の植物か分からないものが、風でさわさわ動く。余り気味のいいものではない。僕は無灯火のまま、一本道を突っ切ることにした。
俺はこれからどこへ向かおうとしているんだろう――?
ふとそんなことを考えた刹那、前方に黒い集団が現れた。道路の端を一列になって、ただ黙々と歩いている。
わっと叫んだのか、ひっという引きつったような声を出したのか。
今となっては、もう覚えていない。
ともかく僕は、彼らの身体をすり抜けていったようだった。
あわてて自転車を停めて振り向くと、その一団は何事もなかったように過ぎ去っていく。
僕はほっとした。
そうか。あの瞬間、自転車のハンドルを右に切ったから、ちゃんとよけることができたんだ。
しかし、彼らはいったい何者で、どこへ行こうとしているのか?
そう訝りながらなおもその集団を見ていると、最後尾の人間がふいにこちらを振り返った。
黒いシルエットしか見えなかったが、まるで托鉢僧が笠を持ち上げてじっとこちらを見ているようなふうだった。
さて、そんな出来事があっても、僕の生活には特に変化はなかった。唯一変わったことといえば、それっきり親や友人たちとの交渉を一切絶ってしまったということぐらいである。
相変わらず人生に何の目標も見いだせず、この世とあの世の境のような場所を、ただとぼとぼと、他人のあとに従いながら歩いてきた。
僕はいつの間にか、この行列の一員になっていたのである。
それにしても変な行列である。
先頭の人間が誰かと出会うと、そいつはこの行列を抜けられる。たまたま行列に出会った人間は、最後尾につくのだ。
そして次に先頭になった人間が、次の誰かを待つ。こうして一つずつ、行列の順位が上がっていくのである。
月が昇り、明けの明星を見る。そして次の日の夜、再び月が昇る。
こうした夜を何度迎えたことだろう。
僕はやっと行列の先頭に来られた。やっとこの行列を抜けられる――
抜けた先がこの世なのかあの世なのか、僕には分からない。
しかし、こんな行列の一員として果てしなく歩き続けるよりはよっぽどいい。
ほら、一人やってきた……大丈夫。君ではない。
えっ、どうしたらこの行列に出会わなくて済むかって?
なに、簡単なことさ。
物事がうまくいかないからって、他人や世の中のせいにしないこと。
目標が見いだせないからって、目先の小さなことをおざなりにしないこと。
目標を自分で見つける努力を怠らないこと。
自分の人生としっかりと向き合うこと。
苦しみを苦しむこと。悲しみを悲しむこと――
くれぐれも言っておこう。
その正反対をやってみようなんてイタズラ心は、決して起こさないほうがいい。
そんなことをやったが最後、君は人生ではなく一枚の鏡と対峙することになる。
鏡の向こうには、行列が。
行列の先頭には、君そっくりな人間が……。
あっと気づいても、時すでに遅し。
すでにそいつが、君と入れ替わっているって寸法だ。
――了――