着信
もうすっかり夜だというのに、男は電灯もつけないでいた。部屋の窓から風が吹き込み、月明かりに白いレースのカーテンが揺れている。
自分はなんということを――
男は激しい後悔の念に苛まれながら、テーブルの上で頭を抱え込んでいた。
夜の静寂と闇が男を包み込み、世界の果てに独りぼっちで取り残されているような寂寥感に襲われた。
そのまま長い時間が経った。男は、はっと我に返った。悲しみに暮れているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
そうだ、彼女は――
いや、居るわけがないんだ。
戻ってはくれないだろうか――
男はすっかり混濁した意識のまま、あわてて携帯に手を掛けた。
「ごめん。言い過ぎた」
何度も打ち間違えながら、そう打つと、震える手で送信ボタンを押した。
すると、背後でピロリンと着信音が鳴った。
戻ってくれたんだ!
喜んで振り返ると、彼女のスマホが、テレビの横で青白い光を放ちながら鳴っていた。
そうか、戻ってくれたわけじゃないんだ。いや、戻るはずがない。
大喧嘩したあげくに、俺はなんということを――
男が再び頭を抱え込んでいると、しばらくしてプルルルと音がする。
すぐ間近だ。今度は自分の携帯である。
ぱっと手に取ると、返信が来ている。
すぐに開くと、「ゆるす」の文字。
男はテレビのほうを振り返った。
彼女のスマホはここにある。それなのに、何故?
その刹那、窓辺に置かれてあったスーツケースが、ガタガタと音を立てた。
男はそれを見て、驚きのあまり飛び上がった。
すると、玄関の方角からヒタヒタという足音が聞こえてくる。
男は背中に全神経を集中して、それを聞いていた。
ぱっと電灯の明かりがついたと思ったら、
「もう、何やってんのよ、こんな真っ暗な中で」
と、いきなり叱られた。
「君、帰ってきたのか」
男がぼんやりとした顔でそう聞くと、
「当たり前じゃない、自分の家なんだから」
と妻は笑い飛ばした。
「さっきはごめん。ついかっとなって、心にもないことを――」
「そんなもの、一人カラオケですっきりしちゃったわよ。ハイ、飲む?」
妻はそう言うと、缶ビールを二つ、テーブルに置いた。
「私こそごめんね、連絡しようにもスマホを忘れちゃったから。さ、仲直りの乾杯をしよう」
会社から帰宅してすぐに、些細なことで妻と口論になる。売り言葉に買い言葉となり、ついひどいことを言ってしまった。
しかし、それよりも――
「君、スマホを忘れていったのに、どうして返信なんかできたんだ?」
「何のこと?」
「ほら」
男が画面を見せると、妻は大笑いした。
「ゆるす」と一言だけ返信を送ってきたのは、娘だった。
謝罪のメールを妻ではなく、間違って娘のほうに送っていたのだ。
「あなた、今朝もあの子にガミガミ言ってたものね。父親が娘に口うるさいのは仕方がないことだろうけど、少し気をつけたほうがいいわよ」
と妻にたしなめられる。
最近勤め始めたばかりの娘に、やれ化粧が濃すぎるだの、やれ服装が派手だの口を出しては娘からうんざりされていたのだが、今朝もそれで大喧嘩になってしまったのだった。
「今日も帰りが遅いな」
「今夜は歓迎会だって言ってたじゃない。あの子はもう大人なのよ。もう少し信用してあげたら?」
「う、うん……」
男はビールを一口あおると、思い切って言った。
「あれは、何なんだ。君ひょっとして、この家を出て行こうと――」
妻は、彼の指さした方向を振り返ると、また大笑いした。今度は涙を流してまで笑っている。
「あれは、あの子のスーツケースよ。あなたにはまだ言ってなかったっけ? 今度研修旅行があるからって、私が買ってあげたの」
それは出窓の上に置かれていて、まだ荷物も詰めておらず軽かったので、開け放した窓から吹き込んでくる風にあおられ、ガタガタと音を立てていたのだった。
――了――