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文身(7)

「てめえ、さっきこいつが何て言ったか、聞いてなかったのか? いいか、こいつのおっかさんが死んだのは、ちょうど桜の花が満開の時期だったんだ。だからそれ以来、花が散るのを見るたびに、胸が締め付けられるように悲しくなるんだよ」


「ああ、聞いてたよ」


「だったら、なぜだ? 嫌がらせか」

 ぐいと詰め寄ってくる。


「馬鹿、そんなんじゃない。――いいかい、娘さん」

 権左は男のほうを放っといて言った。

「桜の花があんたを見守っているとは思わないかい? おっかさんのように」


 彼女は、まっすぐ見つめ返してきた。少し眉をひそめ、いぶかしそうな表情で権左の次の言葉を待っている。


 若かりし頃の、おマサの面影が自然によみがえってきた。

 あれは隅田川のほとりだった……。


 満開の桜が両岸のどこまでも続いており、空は青く晴れ渡っていた。こぼれんばかりに花が咲き誇る枝枝の隙間から、陽の光がちらちらと降り注いだ。


 自分のほうから呼び出したくせに、権左はそんなものには目もくれず、黙って腕組みをしたままさっさと歩いていて、ともすれば花見客の雑踏の中に何度もおマサを見失いそうになるのだった。


 引き返すと、おマサは人混みの中に立ち止まり、今権左の眼の前にいる娘と同じように少し眉をひそめ、まぶしそうに頭上を見上げていた。


 桜の花びらがひとひら、ふたひらと彼女のほうに舞いおりていく。こちらが見ていることに気づくと、ぱっと顔を輝かせ走り寄ってきた。


 権左の胸がずきんと痛んだ。いつまでもこうしていてはいけない――。

 思い切って彼女の手を取ると、人気のない川原の方へずんずん連れて行く。


 川の中に幾つも石を投げ込み、なんとか決心を固めると、顔は川面に向けたままおマサのほうをみようともせずに、話を切り出した。


 俺は彫師としてすべてをかけることに決めた。お(めえ)には心底惚れちゃあいるが、こんな俺じゃあ貧乏暮らしでお前を不幸にしてしまうことは間違えねえ。今日を限りに別れようと。


 二人の間にしばらく沈黙が流れた。やがておマサから告げられたことは、権左の思いもよらぬことであった。彼女は身ごもっていたのである。


 権左は驚愕するとともに、自分の迂闊さを恥じた。


 このまま別れてしまったとして、この女はどうやって生きていけばいいのだ。まさか堕胎と言うわけにも行かないし、身ごもったまま他の男と連れ添うわけにも行くまい――。


 石のごろごろしている川原に手を突き、泣いておマサに詫びた。


「いいんだよ、あんた」

 彼女も片膝を突く。


「あんたのことは、この私が一番よく分かっている。彫師でも何でも存分にやんな。そんなあんたに私も惚れたんだから。だから、あんたがどう言おうと、とことんついていくからね」


 その両肩を抱いて、権左は誓った。

「おマサ。俺は日本一の彫師になってやるぜ。そして、お前と子供を必ず幸せにしてやる。きっとだからな」


 彼女は立ち上がると、両岸にはるかに続く満開の桜を見やりながら言った。

「女の子だったら、さくらと名付ける。いいね。男の子だったら、あんたに任せるよ」


「えっ、俺が? そうさなあ、男の子だったら何としようか。しかし、女の子でさくらというのはいいよなあ」


 とっさにそう答えたものの、結局さくらが産まれるまで、男の子の名前は思いつかないままだったのである。

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