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残酷酒場

 周りはすでに出来上がっていた。あちこちから笑い声や嬌声が響いてくる。それにしてもよく響く。頭蓋骨の中で反響しているような感じだ。


 少し頭がズキズキする。何かに締め付けられているような痛み――

 部長が前にきて、酒を注ごうとする。


「済みません、キッパリやめたものですから」

 差し出された徳利をやんわりと取り上げ、逆に相手の猪口に注ぐ。


「俺の酒が飲めないってのか」

 部長がそう気色ばんでみせると、一瞬その場が固まったようになる。

「なあんてね。冗談だよ。ハハハ。今時そんなことを言う奴はいない」

 向こうはそう言うとすぐに横に移り、私の右隣の男と談笑を始めた。


 すると、左隣に座っていた女子社員が言った。

「えー課長、本当なんですか。つまんない。お酒を飲んでる課長って素敵だったのにな」


 媚びたように言う。色っぽい目で見る。背中がぞくっとなる。

 よくもまあ、こんなに――


 横座りになっているせいか、肩が軽くこちらに触れているのが感じられる。

 それにしてもこの感じは――


 斜めにすらりと伸びた脚が、嫌でも視界の片隅に入ってくる。

 少し頭がクラクラする。酔ってもいないのに。


「いやあ、悪い悪い。その分、君が飲んでくれ」

「つまんないの」


 女はまた同じことを言うと、すぐ左横の話題に加わった。


 少しはこちらからも注いで回らねば。

 そう思って座を立つと、視界もそれに伴って移動する。

 自分の身体がぐるりと回転するような感じ。

 いや世の中のほうで回転しているのか。


 四五人で固まっているグループに加わることにする。

 話はおおいに盛り上がっている。誰かの武勇伝のようだ。


 一人がこちらに気づいて言った。

「あっ、課長。聞いたことありますよ、課長の武勇伝も」


 すると、さっきとは別の女子社員が言った。

「わー、すごーい。聞かせて、聞かせて」

 話を聞く前から、何がすごいというんだろう。

「いやあ、若気の至りってやつだよ」


 苦笑いしながら、とりあえずそう答えると、皆に酌をする。

 すると、そのうちの一人が返そうとしたので、手で制す。

「僕はもう本当にやめたんだ」


「そんな無粋なことおっしゃらずに、やってくださいよ。たまにはいいじゃないですか」

 真っ赤な顔で言う。

 私は、いやあ、ハハハと笑ってごまかす。


 すると話題は、さっきの武勇伝に戻り、皆で大笑いしている。

 どうせまた、誰かが酔ってどこかの噴水にどぼんと落ちた程度の話だ。


 早々にその場を離れることにする。

 すると、ひそひそ声が耳に飛び込んでくる。


「酒を飲んでないときの課長って、面白くも何ともないんだよね。話題もあんまり豊富じゃないし」

「そうそう。だからって、そばにいてただじっと話を聞かれていてもさあ」

「そうなんだよ。黙ったままそばにいられると、なんか気になるんだよな」


 どの方向から聞こえてくるのか、はっきりと分かる。

 そちらに顔を向けると、あたりがぐるりと回転する。


 声の主たちはこちらに気づくと、しまったとばかりに肩をすくめ、互いに顔を見合わせている。


 私は何食わぬ顔で、またよそのグループに加わる。

 そうなのだ。私は無趣味な人間で、毎日、会社と家庭を往復しているだけだ。

 おまけに生来の口下手ときている。


 しかし、酒を飲めば少しは舌も滑らかに動くし、冗談も言える。表情だって柔らかになる。

 だから私は酒に頼りすぎた。

 そのせいで大きな過ちを犯してしまったこともあるし、家庭も犠牲にしてしまった。


 それで断酒をする決心をしたのだが、まさかこれほど困難なことだとは――

 宴席で酒も飲まずに人と話をするというのは、大変な苦痛だ。


 仕事の話ならいい。

 時には本音の話を親身に聞いてやって、感謝されることもある。


 しかし、釣りだのゴルフだの旅行だの、そういう話題になったときには、お喋りはほかの人に任せ、傍観者のようにただ口をつぐんでおくしかない。

 

 このような場合の鉄則が、ハウツー本には一様に書かれてある。

 聞き上手になること。相手の話に誠実な関心を寄せて聞くこと……等々。


 私もそのように努力してきた。だが、努力には苦痛が伴うこともある。いくら退屈な話でも欠伸あくびをかみ殺しながら、聞いている振りをしなければならない。


 面白くなくてもガハハと笑う。酒も飲まずに、よくそんな真似ができるものだ。

 我ながらあきれてしまう。

 くだらない与太話に、なぜこちらが誠実な関心を寄せて付き合ってやらなければいけないのだろう。


 しかし、これも付き合いだ。仕事のためだ。家族のためだ。

 そう割り切って、私は断酒を続けている。


 そら、また始まった。際限もない無駄話が――


 すると、突然視界が真っ暗になった。

「はい、御苦労様でした。合格です」という声がする。


 ヘルメットとゴーグルが取り外されると、目の前に、背の高い白衣の男が笑顔で立っていた。男の背後には、真っ白なスクリーン。


「ずいぶん、窮屈だったでしょう」

 男はそう言うと、宇宙服のようなごわごわしたものを脱ぐのを手伝ってくれた。

 宇宙服のような装置とヘルメットには、たくさんの電極やケーブルがくっついていて、天井とつながっていた。

「いかがでしたか、当院が開発したⅤRロールプレイングの出来は?」


 私はつくづく感心して答えた。

「いやあ、一度麻酔で眠らされたとはいえ、そのことはすっかり忘れていました。本当に現実世界のこととばかり――」


「これだけのことをいちいち人を雇ってやったら、大変なコストがかかりますからね。当院が誇る画期的なシステムです」


 私はいまだ興奮冷めやらぬまま、医師に尋ねた。

「で、どうなんでしょう。退院できますか」


 相手は大きく頷きながら、答えた。

「もちろんですよ。これで全プログラムを終了しました。あなたは最後の難関を無事に乗り越えられたのです。もう、ここに戻ることはありますまい」




 病院のロビーで妻が待っていた。髪をきれいに結って、和服を着ている。

 息子が小学校に入学するときに、奮発して買ってあげたものだ。


「来てくれたのか」

「先生が知らせてくれたから……。今までよく頑張ったわね」

「有難う……」

 私は胸がいっぱいになり、それ以上言葉が出なかった。


 つい涙が出そうになったので、あわてて拭うと誤魔化すように言った。

「今日は、えらく、めかしてきたんだね」


「だって、おめでたい日だもの。だから、一番お気に入りの着物にしちゃった。どう?」

「よく似合ってるよ」

 妻の美しさにつくづく感心しながら答えた。


 そして、これほど自分のことを大切に思ってくれる彼女を、どうしてあんなに苦しめてしまったんだろうと、あらためて激しい後悔の念にさいなまれるのだった。


 妻は、私の誉め言葉にぱっと顔を輝かせて言った。

「本当? うれしい。今日は御馳走も一杯してるからね。さあ、早く帰ろう」


「うん……。ところで、あの子はどうしてるんだい?」

 と息子のことを聞いてみた。


「もうとっくの昔に眠ってしまったわ」

「そうか。さぞ、僕のことを待ちくたびれたんだろうな」

「今も待ちわびている……」

「えっ?」


 そうか、いったんは眠ってしまったものの、今頃きっとまた目を覚まして待ってくれているんだろうな、と一人で合点した。



※ ※ ※ ※ ※ ※


 久しぶりの我が家――

 今日から新しい人生が始まるのだ。


 そのせいか、自分の家も庭も、何もかもが違って見える。

 居間に入ると、妻の言ったとおりテーブルにはご馳走がふんだんに並べられている。

「どう? 腕によりをかけたんだからね」彼女が自慢そうに言う。


「すごいよ。いや、本当に有難う」

 心から喜んでいった。妻もうれしそうにしている。


「あの子はまだ眠ったままなのかな? 起こしていいかい?」

「起こしちゃ可哀そうよ。それより、新婚の時みたいに二人でゆっくりしよう」


 息子の顔を早く見たかったが、これまで散々苦労を掛けた彼女の言葉を無下むげにはできない。

 子供に会えないことに一抹の寂しさを感じながら、テーブルに着いた。


 すると妻がはしゃぐように言った。

「さあ、あなたの新しい門出を祝って乾杯しましょう」

 見ると、私の好きだった白ワインの瓶を掲げている。


「おい君、何言ってるんだ。僕はもう一滴も飲まないと決心したんだぞ。今日やっと、アルコール中毒を克服して退院したばかりだと言うのに」


「大丈夫よ」と妻は笑った。

「お医者様も太鼓判を押してくれたんだから、もう絶対戻ることはないって」

「いや、しかし――」私はなおも躊躇した。


「今日だけ。今日だけでいいから。昔みたいにこうやって二人で、夜が更けるまでゆっくり語り明かしたいの。お願い」


「そうなのか……? わかった。君がそう言うのなら」


 余りにも熱心に言うので、とうとう根負けしてしまった。

 それにこれまでの罪滅ぼしもある。


「うれしい」

 妻は私に注いでくれると、「私にも頂戴」と言って、グラスを差し出してきた。

「えっ、君も?」

 昔はまったく飲まなかったので、少し驚いた。


 私の入院中に苦労したから、ストレスが溜まって、いつの間にかたしなむようになったのかもしれない。


 彼女のワイングラスにも注いでやると、「乾杯」と言って一気に飲み干してしまった。

「大丈夫かい?」と思わず心配になる。


「大丈夫よ。だって、私たちの新しいスタートの日なんだから、これくらいやらなくっちゃ」と平気な顔をしている。

「そうだね」と私が言うと、「そうよ」と答える。

 二人一緒に笑う。


「でも本当に今日限りだからね。僕は固く決心したんだ。これまでの罪滅ぼしに、明日からはまたバリバリ働いて家族を幸せにするんだから」


「うん、分かってる」彼女はそう言うと、またグラスを一息で飲み干す。

 私が呆気あっけにとられて妻の顔を見ていると、向こうは恥ずかしそうに笑った。

「いやあね。さあ、飲みましょう。そうそうまだ箸もつけてないじゃないの。私が今朝から腕を振るって作ったんだから。どんどん食べてよ」


「そうだな。君の料理がまた食べられる日が来るなんて、なんだか夢みたいだ」

 それからは、妻の手料理に片っ端から箸をつけた。酒も少し遠慮がちに飲んだ。


「今思えば、アルコールが苦手だなんて言ってないで、私も付き合ってあげればよかったんだ。そうしていたら、お酒に逃げようとするあなたの気持ちもわかってたかもしれないし、あなたも依存症になっていなかったかもしれない」

 彼女は私の顔を見ながら、しみじみとそう言った。少し哀しげだった。


「そんなことはない。すべては僕の弱さから起こったことなんだ。君は妻として、母として立派に責任を果たしてきたじゃないか」

 私がそう言うと、彼女はぱっと顔を輝かせた。

「本当? 本当にそう思ってくれるのね。よかった」


 妻の表情がまた最初のように明るくなったので、安心した。彼女の悲しむ顔は、もう二度と見たくなかった。


 最初は控えめにしていたが、私はいつの間にかひとりで杯を重ねるようになっていた。

 テーブルには、幻の銘酒と言われているような地酒まで置かれている。

「よくこんなのが手に入ったね。これも飲んでいい?」

 そう聞くと、彼女はにっこりとほほ笑んだ。


 今日だけだ――。妻がせっかく今日の日のために用意してくれたのに、これを飲まないという手はない。今日だけは甘えさせてもらおう。



 それからどれだけ飲んだのか分からない。


 はっと気づくと、妻は相変わらず正面に座ったまま、こちらを見ている。顔には能面のような笑みを浮かべている。驚いたことに、まだ和服を着たままだった。


 もう十分だ。明日から新しい一日が始まる。

 私は改めて妻に言った。

「今日は本当に有難う。もう二度と飲むことはないと思っていたんだけど、最後に君の手料理でこんなおいしい酒を飲むことができるなんて――」


 彼女は黙って微笑んでいる。私は続けて言った。

「もうこれで本当に悔いはない」


 すると彼女は急に真顔になった。「本当に? 本当にこれが最後なのね」


 ぼんやりとした頭の中で、「本当に」、「これが最後」、「今日だけ」という言葉が反響した。

 私はこれらの言葉を慎重に避けながら答えた。


「もちろんだよ。酒はきっぱりとやめるんだ。これからは家族を幸せにするためだけに、生きるんだから」


 すると彼女は両手で顔を覆った。

「うれしい。あなたのその言葉が聞けただけで、もう私は思い残すことはない」


「何言ってるんだよ。大げさだなあ」

 そう言いながら、私はふと悪戯(いたずら)心を起こした。


 妻に近づくと、横抱きに抱え上げた。少しふらついたが、大丈夫だった。

 彼女はきゃっと言って、私の首にすがりつく。


「昔みたいだね」

 私がそう言うと、彼女はますます強くしがみついてきた。


「さあ、もういい加減(やす)もうか」

 そのまま寝室に抱いていき、ベッドにそっとおろす。私もすぐ隣に寝て、彼女の肩に手をかけた。


「あっ、着替えなきゃ」

 そう言って起き上がろうとするのを、抱きしめたまま放さなかった。

「駄目よ、大事な着物が皴になっちゃう」

「いいよ。僕がまたバリバリ働いて、こんなのはいくらでも買ってやるから」


「でも……」

「このまま眠りたいんだ。今のこの最高の気持ちのまま。昔みたいに……」


 私はそのまま眠りに落ちた。




 どれぐらい時間がっただろうか。


 あなた、また飲んでしまったのね……

 遠くから響いてくるようなその声に、私は目を覚ました。


 和服を着たままの妻を、私はまだ抱いていた。

 いや違う――


 がばっと起き上がってみると、着物はもぬけの殻だった。あちこちが汚れ擦り切れている。


 私はゴミの山の中に寝ていた。一升瓶が散乱し、部屋中に悪臭が満ちている。

 そこで私は忽然と思い出したのだった。


 息子はとうの昔に、交通事故で死んでいた。まだ小学校三年生だった。何の罪もない妻を、私は責めた。それから夫婦喧嘩が絶え間なくなった。ちょうど中間管理職になったばかりのストレスもあり、酒を浴びるように飲んだ。そのせいで、ある日会社で大きなミスを犯し、解雇されてしまう。


 私は失意のあまり、ますます酒におぼれた。働かない夫の代わりに、妻がパートに出るようになったが、それでは家計が追い付かない。


 車を売り、電化製品を売り、最後には婚礼家具や着物まで売って、家計の足しにしていたのである。


 そうこうするうちに妻も心労で倒れ、とうとう帰らぬ人となってしまったのだった。

 息子の入学式の時に、私が奮発して買ってあげた和服――。妻は、これだけは売らずに、最後まで取っておいたのである。


 誰も袖を通すことがなくなったそれを手に取り、私は呆然と部屋の中を見回したのだった。


 ――了――


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