ゾンビDAYS
ゾンビDAYS
朝目覚めるとゾンビになっていた。
俺は大きく背伸びをすると、ベッドの横のカーテンを閉めて、さっきから肌をチクチク刺している朝日を遮断した。全身がむず痒かったので起き上がるなり、バリバリと体中をかきむしった。すると腕の皮膚がデロっとめくれあがって、鮮やかなピンク色の肉がむき出しになり、そこから透明なリンパ液が染み出してきた。よく見ると全身の皮膚が、水にふやけた紙のようにでろんでろんになっていて、パジャマ代りに来ていたTシャツが血とリンパ液のしみだらけになっていた。Tシャツを脱ぐと、Tシャツに貼りついた皮膚もべりっと一緒に剥がれ落ちたが、特に痛みは感じなかった、といよりむしろ心地よいくらいだった。体全体から漂ってくる生乾きの洗濯物を半年くらい発酵させたような臭いも、今の俺にとっては鼻孔をくすぐる野バラのような香だった。
姿見の前に立つと、そこには全身の皮膚を裏返したような、血管と生肉がむき出しになった一匹の完成されたゾンビがいた。どこからどう見てもゾンビだった。非の打ちどころのないゾンビだった。鼻や耳のあった個所にはぽっかりと穴が開き、髪の毛もほとんど抜け落ちて、落ち武者のようになっていた。全身からはぬめぬめとした変な粘液が、あふれんばかりに湧き出てくる。
(これがゾンビというものか)
俺はなぜか嬉しくなって、テンションがあがりきってしまい、ホラー映画で観たゾンビのように両手を前に突き出して白目をむき「アォァーアァー!」みたいなことを口走りながら、部屋の中をぐるぐると徘徊した。もはや人間ではなくなってしまったという絶望感は微塵も感じなかった。それどころか昨日まで俺を悩ませていた職場での人間関係や、株で二百万ほど大損したことや、持病の痔が悪化の一途をたどっていることもまったく気にならなくなった。俺はゾンビになって人間らしい容姿を失ったが、同時に人間の煩わしい感情やしがらみから解放された。俺は自由になったのだ。
ベランダに出て自由を祝うためのゾンビダンスを踊り狂っていると、ピンポーンとチャイムがなった。おそらく昨夜一緒に朝の清掃ボランティアをする約束をしていたトウコさんだろう。確か今日は三丁目の裏路地を清掃する予定だったはずだ。
トウコさんは今俺が彼女にしたい女の子ランキング第六位の二四歳の外資系会社に勤めるOLだ。深夜のコンビニの駐車場でジャムの瓶のふたが開かないと言って大暴れしていた彼女に俺は一目ぼれをし、その場で瓶のふたを開けながら連絡先を聞きだしたのだ。実は昨夜も十数通メールのやりとりをした。うまくいけば今月中には落とせるだろう。
俺は玄関までゾンビ走りをしながら駆けていってドアを開けた。
「おはよーございまーす!」と元気にあいさつするつもりが、声帯が腐ってしまったせいか、
「おばあうおらいあう」と言葉にならないあいさつをしてしまった。
トウコさんは俺を見るなり十秒ほど硬直した。そしてきっちり十秒後に気絶をした。マンガのようなきれいな気絶の仕方だった。
俺はあたりを見回して誰も見ていないことを確認すると、その場に倒れてしまったトウコさんを部屋のなかに引きずり込んだ。もちろんえっちな事をするためだ。トウコさんをソファーの上に仰向けに寝かすと俺はトウコさんの顔をのぞき込んだ。顔から粘液がしたたって、トウコさんのきめ細かな肌にぽとりと落ちる。トウコさんは相変わらず美しい。肌が白くて、おっとりとしていて、なのに巨乳で、全身からほのかにエロスが漂っていて、見れば見るほど俺の好みのタイプだ。
はやる気持ちを抑えながら、ハサミで服を切り裂いて脱がす。ブラジャーを取ると大きな乳輪が目に付いた。ジャムの瓶のふたくらいあった。俺は少し落胆した。しかし気を取り直して、トウコさんをいただこうと自分のズボンを下ろした瞬間、俺は硬直した。アレがなかった。正確には本体だけがなくて、ふたつの玉がぶらりと垂れ下っているだけだった。
(なんてこった……)
俺は絶望のあまりその場に膝をついた。その衝撃で片方の玉がボトリと床に落ちた。
生殖機能が失われるということは、もはや地球上では不要の生物だということだ。すべての生物は子孫を産み、そして進化のサイクルに乗るために生まれてきたのだ。
(ゾンビには繁殖すら許されないのか)
アイデンティティを失った俺は思わずむせび泣いた。早くも人間に戻りたいと思った。人間に戻ってトウコさんを欲望の赴くままにむさぼりたかった。でも俺はいつまでたってもソンビのままだった。
そうこうするうちにトウコさんが目を覚ました。俺はトウコさんの胸を借りて泣こうと、手を伸ばしたが、トウコさんは地獄の鬼を見たかのような叫び声をあげると、半裸のまま逃げ去ってしまった。泣いている男を放っておくなんて、ひどい女だと俺は思った。血も涙もない。
(どうしてこんなことに……)
俺は自分の手のひらを見つめながら、心の中でつぶやいた。昨日までまともな肌におおわれていた俺の手のひらは、今はむき出しの血肉におおわれている。
(人間に戻りたい……)
俺が悲しみに打ちひしがれていると、玄関がドアがコンコンとノックされた。外から俺の名前を呼ぶ聞きなれない男の声が聞こえる。俺は再びゾンビ走りで玄関へと行き、ドアを開けた。警官が二名いた。黒ぶちメガネの警官と、ヒゲそりあとが青々とした警官だ。後ろのほうに白いコートを羽織ったトウコさんも見えた。
「うわっ!」
メガネのほうが悲鳴をあげて、すばやく後ずさった。
「き、きみ、その気持ちの悪いマスクを脱ぎたまえ」
青ヒゲのほうがしどろもどろになりながら俺に言った。俺はそのぞんざいな物言いになんだかむかっ腹が立ったので、昔見たゾンビ映画の真似をするつもりで、青ヒゲの首筋にすばやくかみついた。トウコさんの悲鳴が響いて、青ヒゲが俺を突き飛ばす。俺は玄関の上に仰向けに転んだ。転んだ拍子に右腕がぐちゃりととれてしまった。
次の瞬間「わああああ!」とメガネが叫びながら逃げ出した。トウコさんと青ヒゲもその後を追うように背を向けて駈け出した。俺は逃がすものかと思い、自分の右腕を拾って後を追った。
しかし足の筋肉も腐っているせいか全然スピードがでない。そこで俺はアパートの駐輪場まで戻ると、通勤用のカブにまたがった。シート下の収納スペースに入れたままのキーを差し込んで、エンジンを始動させる。前に取り付けてあるカゴに右腕を放り込んで、俺はカブを走らせた。長年乗り込んだ愛車だ。片手でも余裕で運転できる。
さっきのメガネが目の前に見えた。俺はメガネの背中に体当たりすると、うつ伏せに倒れたメガネの首筋に思い切りかみついた。メガネは甲高い声で叫びながら俺を突き飛ばすと、再び走り出す。俺は体を起して、よろよろとカブの元へと戻る。ふと後ろを振り返ると青ヒゲが苦しそうな表情を浮かべながら、道端にしゃがみこんでいた。そしてトウコさんもいた。トウコさんは青ヒゲの顔を心配そうにのぞきこみながら、なにやら話しかけている。青ヒゲは白目をむきながら、細かくけいれんしていた。
「どぼござん!」と俺は彼女の名を呼んだ。トウコさんは俺を見るなり、再び悲鳴をあげながら逃げ出した。俺はあわててカブに乗って彼女を追った。自転車に乗った高校生が俺を見るなり、悲鳴をあげながらハデに転倒した。
トウコさんが交差点にさしかかった時だった。猛スピードでやってきたスカイラインにトウコさんは吹っ飛ばされた。トウコさんはあやつり人形のように宙に舞うと、アスファルトに頭から叩きつけられた。俺はカブを乗り捨てると、急いでトウコさんのもとへとゾンビ走りで駆け寄った。
トウコさんの首がおかしな方向に向いていた。首の骨がへし折れてしまったのは一目瞭然だった。
「どぶござん!」
俺は左手で彼女を肩をゆすった。異様に伸びきった首がぐにゃりとしなった。スカイラインから降りてきた中年の男が俺を見てぎょっとしたような表情を浮かべる。
「ぢくじょおおおお!」
トウコさんはぴくりとも動かなかった。俺は彼女を抱きながら雄たけびを上げた。
(なぜ彼女がこんな目に会わなきゃいけないんだ。なぜ、なぜ……)
ふと横を何かが通り過ぎた。さきほどの青ヒゲが俺達のそばをゾンビ走りで駆けていった。
青ヒゲの背中を見ながら、俺が噛んだやつはゾンビになるのか、とぼんやりと思った。そこで俺はハッと気付いた。そうだ、彼女を救えるかもしれない。ゾンビなら首の骨が折れてようが、脳みそが飛び出していようが問題ないはずだ。
俺は彼女の細い首筋にカブリとかみついた。
彼女がめでたくゾンビになったら真っ先に愛していると伝えよう。俺はそう考えながら彼女を強く抱きしめた。
了