捨て目捨て耳(卅と一夜の短篇第17回)
「つまり、雨と雷の音で周りは不審な物音には気付かず、犯行に関わりありそうな人物の目撃者もいるかどうか、望み薄って訳か?」
新村警部は部下に確認するように言った。
「そのようですねえ。被害者は大学生ですから、交友関係や隣近所と諍いがなかったか、その線から調べていくことになりそうですねえ。
部屋が散らかっているので、遺留物捜査するにも新しいものか前からあるものかと仕分けの量が多くなりそうですよ」
警部は部下からの言葉に渋面で肯いた。
古いアパートの一室での殺人事件の捜査である。それも夏の深夜。被害者は男子大学生の左十諭軌也。場所は千代市のJR 千石線沿線の古くからの住宅地、その地区の中の築年数を大分経たアパート。そんな様子の場所なので、アパートに防犯カメラはなく、アパートと並ぶ家々にも防犯カメラを設置しているところがない。数十メートル離れた立派な家に防犯カメラが設置されているが、その場所や角度からしてこの事件に関わりありそうな不審者が写っているか期待はできない。おまけにアパートが面しているのは、一方通行ではないものの、乗用車がやっとすれ違えるかどうかの細い道。五分強歩けばコンビニエンスストアのある大きな通りに出られて、そこまで来れば、道幅も広く、行き交う人も車も多いが、現場のアパートの細道は平日の昼間、ほとんど人通りがない。
コンビニエンスストアに防犯カメラはあるが、犯人がそこを通ったかはそれこそ判らないし、細道から大きな通りに出るまでに、平静さを装っているかも知れない。まずは防犯カメラの映像の提供を依頼しなければならない。コンビニエンスストアからまた五分ほど行けばJRの駅がある。
犯人の逃走経路はこのJR駅側になるか、或いは逆に住宅街の細道を辿っていたのか、交友関係と併せての捜査になる。
「第一発見者は、隣室の会社員だったな?」
「はい、101号室の鷹羽司煕男です。午後9時頃、帰宅したところ、102号室の扉から開け放たれたままだった為に声を掛け、返事がない。男同士の気安さと、ほろ酔い気分の調子のよさから部屋に入ってみてと言っています。
そこで、被害者を抱き起こしてみて、様子がおかしいと、救急車と警察の両方に通報」
新村警部は直接鷹羽司に状況の説明を聞いてみたが、酔いの所為で呂律があやしいくらいで、辻褄は合っているし、会社の勤務時間や飲んだ場所との照合ができれば、アリバイが成立するし、加害者から除外できるだろう。
検視を行っている一人がまた報告に来た。
「被害者は、後頭部を殴られて――多分あそこに転がっている酒瓶――で、昏倒したか抵抗できなくなったかしたところを、後ろから布らしい物で首を絞められたようです。
死亡してから6時間から8時間ほど、と。詳しいところは解剖待ちですね」
「部屋の中、特に争ったような形跡なし、後ろから殴られた。
顔見知りの犯行か……」
今が真夜中であることから、犯行は前日の午後、夕方近くとなるのだろう。まだ明るい時間帯とはいえ、当日に午後3時頃から6時半くらいまで強い雨と雷があった。その雨の勢いや雷で、住宅地で外出している者は皆無に近いだろう。
新村警部が捜査方針を考えているところ、外で大きな声が響いてきた。女性の声。
「ねえ、だいたい終わったの? だったらあたしの話も聞いてちょうだいよ。え? 昼間、ごめんあたし、寝てたんだ。なぁんにも気付かなかったの。日頃からあの大学生、お友達が多いらしくて、しょっちゅう宴会してみるようでいっつもうるさいのよ」
何事かと新村警部が部下に尋ねると、103号室の住人が何か申し立てているという。ただでさえ警察の捜査でご近所に迷惑をお掛けしているのに、市民に深夜に大声出させてはいけないと、警部は声の主の許に行った。
「何かお気付きの点がございました?」
「あ、あなたエライ人なの? あたしね103号室の寿々木三誉子、先月まで会社員してたんだけど、職場環境が悪くて退職したばっかりで無職なの。今日はのんびりしていたのに、夜になってからサイレンがなって近くで止まるんだもの、びっくりよ。
さっきも言ったけど、あたし、昼寝していたから、部屋にいたけど、お隣で何があったかさっぱり知らないわ。
ただ、ここはボロだけど、便利のいい場所だからって、お隣ではお友達がいっつも出入りしていて、騒がしかったわ。昨日の夜だって、お酒を飲んでたんだか、うるさくって眠れやしなかったわ。だから昼寝。
え~、苦情? 男の子が複数人で騒いでいるのに、一人暮らしのオンナが乗り込んでいって注意なんて怖くってできませんよ」
古いアパートの一階に住んでいても怖いのかと、新村警部は胸の内で呟きながら、質問しなくてもぺらぺらと喋り続ける女性の話を聞いていた。
「あたし、ここにね植木鉢を置いていて、朝、午前中はちゃんとしていたのに、ホラ、今見るとひっくり返っていて、土までこぼれちゃっているでしょ? ぜぇ~ったい、犯人が逃げる時に蹴とばしていったのよ。刑事さんもそう思わない?」
寿々木三誉子が指し示す先には確かにひっくり返った植木鉢があり、菊か何かを植えているようだが、土が確かに通路のコンクリート面にばら撒かれている。余程強くぶつかったと見るべきだろう。しかし、土はやはり雨を被っており、半ば流され、ここから犯人の足形が取れそうもないようだ。
「実家に行った時に分けてもらったのに。秋に楽しみにしていたのに、土を盛りなおしたら無事に花が咲くかしら。あたしの実家ってね……」
白岩なのよ、とまだ話を続けている。一人暮らし、昼寝中でアリバイ証明なし、日頃から隣室の騒音を気にしていたとなると、容疑者の一人かと、捜査員たちが無言でメモしているのにも気付いていない様子だ。
被害者の首を絞めたと思われる布らしき物が見当たらず、これは犯人が持ち去ったらしいと当たりをつけ、深夜の捜査はひとまず終わり。夜が明けてから、もう一度現場をさらい、捜査の方向を決め、聞き込みの開始となるだろう。
今時の大家と店子の関係らしく、不動産業者を介しているので、家主は契約書上の範囲でしか、被害者を知らず、不動産業者にも、家賃の滞納やクレームがないことから、やはり同様に書類上のみの情報しかなかった。
前の晩に被害者の部屋で夜通し騒いでいた者たちを洗うは簡単だった。夏休み中に帰省していなかった大学生の中から、左十諭軌也と親しかった者を聞いていくと、すぐに辿り着いた。
棚下登四秋、輪田鍋多可礼、衣島八修史の3人だ。3人とも同じ学科、同じゼミで左十諭軌也と4人でいつも行動を共にする仲間だったらしい。三人とも、前夜被害者の部屋で飲食して、騒いだ後一寝入りし、朝方3人でJRの駅まで行き、それぞれの家やアパートに帰ったと証言し、その様子も聞き込みや防犯カメラで確認されている。
「午後から誰かと約束しているとは聞いていません。トラブル? ないですよ」
「諭軌也にはよくテスト前に世話になっているし、感謝こそすれ、そんな酷いことする理由ないですよ」
「諭軌也は女子からも頼られてたみたいですけどね、誰かと付き合ってたとか聞いてませんね。彼の女がいたのはオレたちの中で棚下くらいですし」
3人とも自宅に戻ってからは、昼間はずっと部屋にいたそうだ。輪田鍋、衣島はその日外出せず、唯一人棚下登四秋が夕刻に雨が上がってからコインランドリーに行ったと言い、これもまたすぐに確認できた。
「やっぱり夏ですし、ほっとくと服が全部汗臭くなっちゃうし、洗濯しても干すのが面倒くさくて、コインランドリーなら本読んでる間に乾燥機まで一気にできますから」
左十諭軌也のアパートとは違い、綺麗に整理整頓されている部屋で棚下登四秋は暮らしていた。
「諭軌也のアパートは千代駅からも近いからと、いつも諭軌也の所に集まってしまって悪いなぁ、今度は俺のとこで集まろうと言ったら、俺の所はいつも綺麗にしているから、汚しに行くようで悪いなあって遠慮するんですよ。でも衣島は親と暮らしているから集まりにくいし、じゃあ輪田鍋んとこにしようよと言っていたんですが、輪田鍋は自分の所はもっと汚くて見せられたものじゃないとか言い張ってて。両隣は社会人の人たちだって、刑事さんのお話で初めて知りました。
だから、こんなことになって、今更ながら諭軌也に甘えていたなあって悔やまれます。輪田鍋なんか、ゼミでも世話になりっぱなしだったし、俺もそういう所に気が付いていればよかったと思っています」
棚下は心底悲しいそうだった。
「確認ですから気を悪くしないでください。皆さんから指紋の採取をしています」
3人の指紋と、足形を取り、昨日履いていた靴やスニーカーを調べた。
「どうでしょうかねぇ、警部。仲良しでも隠れた部分でこじれているかも知れないですし、103号室の女性も個性的ですし。みんなあやしくなっちゃいますねえ」
部下たちから報告を聞き、考え込んでいる所にのんびりと武村刑事から話し掛けてきた。
「お隣さんはお隣さんでいくらでも侵入できそうですし、3人組も一旦家に帰ったとしても、千代市内に住んでいて、公共交通機関を使わなくても一時間くらい歩けば被害者のアパートに戻れるし、それくらい若くて体力がある。第一発見者は勤務時間や一緒に飲みに行った人たちの証拠があるから除外ですけど」
「寿々木三誉子の指紋も足形も102号室から見つからなかった。102号室に痕跡を残しているのは被害者本人と第一発見者、そして仲の良かった3人組だ。
豪雨の中、歩いていた人間を見たという目撃情報は今の所無い」
「寿々木三誉子さんですが、植木鉢に土と堆肥を混ぜたものを入れていたそうです。白岩市の実家が農家だそうで」
「土から、植物まで、実家からもらったのか」
新村警部は顎を撫でた。鑑識でどんな結果が出るのか、期待が出てきた。
別の部下が4人の担当をしていた教授から話が聞けたと報告が来た。左十諭軌也はゼミの仲間の中で起こった事を教授に相談していた。その内容に新村警部は肯いた。
次いで、鑑識から結果報告が出た。
「後は内堀を埋める作業になるかな」
翌日、警部は武村刑事たちを連れ、輪田鍋のアパートに来ていた。
「今日はどんなご用でしょうか」
「いえ、正直なお話を伺いたいのですよ、輪田鍋さん。輪田鍋さんのスニーカーに付着していた土が、左十諭軌也さんのお隣、103号室の寿々木さんの植木鉢に入っていた土と一致しました」
「植木鉢の土なんてそこらへんの物と一緒でしょ。みんな靴にだってついているんじゃないですか」
「いいえ、寿々木さんの植木鉢には農家のご実家で入れてきた堆肥や土が盛られています。左十さんのアパート周辺の土とは違っています。それにあの植木鉢は犯行日の朝には倒されていなかったし、あなた方3人が帰る際にぶつかったと言う人は誰もいなかった。ですから、輪田鍋さん、あなたのスニーカーに植木鉢と同じ土が付いていた理由を詳しく知りたいのです。
犯行日に来ていた服、一昨日の物ですが、洗濯なさいましたか?」
輪田戸はうなだれたまま、何も言わなくなってしまった。
新村警部はそのまま続けた。
「昨日、部下が大学にお邪魔しまして、ゼミの教授から話を聞きました。左十諭軌也さんは、教授に相談事をしていました。
ゼミの仲間で一度レポート提出が遅れそうになったのを助けたら、それ以降自分をアテにして、何かと教えてくれと頼り、努力しなくなっているようだ。友達だからと思っていたが、これではお互いに良くないだろう、なんとか、本人を傷付けないように忠告できないだろうかと。
教授は、その相談を受ける前に、その学生に左十諭軌也のレポートや論文の草稿と似通った点がある、盗用していないかと問いただしていた、と左十諭軌也に言ったそうです。だから、誤解されているかも知れない、気を付けるようにと伝えていたが、この事件と関連があるのだろうかと案じておられました」
輪田鍋はその場にへたり込んだ。
「俺はてっきり先生に諭軌也が言い付けたんだと思って、あれから午後になってから諭軌也の部屋に戻ったんだ。諭軌也は知らない、やっぱり書き方が似ていたと疑われたんだろうと言っていたんだが、嘘っぽかった。あいつは嘘の吐けない奴だった。
ああ、やっぱり言い付けたんだと、カッとなって、転がっていた酒瓶で後ろから殴ってしまいました。もう、おしまいだと、諭軌也の首を絞めて、それで、逃げ出しました。植木鉢を蹴ったのは覚えています。こぼれた土を踏んで、スニーカーの靴跡が付いてしまったから、土を均して、大雨が降っていたから、すぐ解らなくなるだろうって踏んでいたのに、土の質が違っているなんて」
「あなたの証言に基づいて、輪田鍋さん、あなたの部屋の捜査を行うことになります。まずは署までご同行願います」
「はい……」
「あなたがたは法学部の学生さんでしたね。将来法を守る仕事でご一緒できる可能性があったかも知れない方を、このような形で警察署に連れていかなければならないのは非常に残念です」
「俺がろくでなしだったんです。社会に有用な人間を殺してしまったんです。首を絞めるのに使ったタオルは、アパートの細道を辿って歩いて帰る途中、わざと水たまりに落として、通りがかりのゴミ箱に放り込みましたが、服は洗濯していません。そのままあります。
夕立が何もかも隠して、洗い流してくれると思いました。でも、お天道様が雲に隠れていても、地が見ていたんですね、だから土が刑事さんたちに知らせたんです」