襲撃(2)
月明かりに仄白く照らされた、前方にまでしばらく続く混合林。
そういえばこの辺りの木立でもよく「修行」したなと記憶をたどり、頭上の楢の木を見上げる。
調子に乗って枝に跳び乗ったはいいが、降りる度胸も技術もまだ無く半べそをかいて柾貴に降ろしてもらったのは小学校一、二年のころだったか……。
ふっと笑みが込み上げ、そのまま夜空の月を仰いだ。
そう――まさに月のような存在だと、あらためて父を想う。
穏やかで何ごとにも動じず、いつも静かに見守ってくれていて。
「稽古」「修行」になると、とたんに厳しくとことん突き放すようなやり方しかしないが、それに対してももう初めのころのような不安や混乱を抱くことはなくなっていた。
すべてはこの身を守るため。
その想いはしっかり伝わっているから。
行く末を案じ、進むべき道を――生き永らえる道を、ということらしいが――自ら見出だせるようにと、煌々と照らしてくれているようなものだ。
ただ……
やはり、ため息はこぼれ出る。
伝わったからいいようなものの、言葉が足りないにも限度というものがあるだろ、と心底思う。
理由は告げられないまま、今も変わらず続いている裏の「修行」。
本当に必要らしいのは理解できた。
具体的に何が起こるのか、なぜそれを言えないのか、ということになると依然として不明なままだが。
もともと口数の多くない父親がさらに口をつぐんでしまうため、何もわからないまま今日に至る。
かと思うとほんの一部だけとはいえ哲哉と洋海に秘密を明かしたりと、何を考えているのか本当に掴めない。
思わず顔をしかめ、月を睨み上げる。
(しかも暗くなったら送ってくれ、って…………女コドモじゃあるまいし)
いや女か……けどそこらの女と一緒にすんなっての、と一人ツッコミして目線を足下に落とし、ひときわ大きなため息をもらした。
再び歩を踏み出しかけて、ふと目を瞠る。
「――」
瞬時に身を包む、微かな――耳鳴りにも似た緊張感。
葉ずれの音に混ざって、ごく微かにだが耳に――感覚に響いてくるのは……ひとの気配。息遣い。
だがひどくはっきりと向けられてくる、意識――。
(誰だ……? 後をつけられていた? いつから?)
ゆっくりと、何気なく鞄を左手に持ちかえる。
気付いたことを相手に悟られないよう目だけで辺りを窺い、空いた右手でネクタイを弛め、ワイシャツのボタンを一つ外して急な動きに備えた。
突き刺さる視線は左後方……上。木立の中から。
位置的にも状況的にもただの痴漢や変態の類ではなさそうだが、柾貴と違って気配が駄々もれだ。
どこからつけられていたのだろう?
こんなわかりやすい、気配の見本のような存在に気付かなかったとは……。
わずかに眉をしかめ、つい舌打ちしたい思いに駆られた。
昔に浸って回想に耽けり、周辺に注意も払わずのらくらここまで歩いてきたことが今さらながら悔やまれる。
数瞬前に戻って自分の頭を思い切り叩いてやりたい。
それでも、一人でこんな場面に遭遇したことが不幸中の幸いだ。
「ガキじゃあるまいし冗談じゃない」と、引き止める哲哉と洋海をまいて学校を出てきたのはかなり正解だった気がする。
父親が何と言おうと、あの二人を危険に晒すわけにはいかない。
すっと目線を自宅の方向へ定め、鞄の持ち手を強く握り直す。
駆け出そうとわずかに身を屈めかけた――次の瞬間。
「!」
後方で同時に動き出したかに思えた追跡者の影が、息を呑む間もなく追い付き降り立っていた。――文字どおり、目と鼻の先に。
弾かれたように飛びすさりつつ、気配は駄々洩れだが予想外に速い相手の動きに思わず目を瞠る。
「――」
行く手を阻むように目前に立ちはだかったのは、全身黒ずくめの――それこそ忍者装束のような形状の衣を纏った人物。
当然実物を拝む機会などなかったため、そういった装束に見えるというだけの話だが。
目以外、頭部もすっかり黒に覆われ顔も年の頃も定かではないが、体格的におそらくは男。
いかついが柾貴ほど背は高くない。
そして右手には、切先をピタリとこちらに向けて掲げられた刀。
「……誰だ? オレを殺りにきたのか?」
通行人もなく街灯も乏しい夜道をじりじりと後退しながら、もはや訊くまでもなく事実であろうことを口にしてみる。
動き出すと同時に「意識」が「強い殺意」に転じたあの瞬間から、人違いでも通り魔でもなく、この時代錯誤な襲撃者が明らかにこの自分の命を狙って来ただろうことはわかっていた。
わかってはいたが――少しでも時間を引き伸ばしたかった。
相手の正体を確かめたい。あわよくばこのワケのわからない状況の説明をしてほしい。なぜ自分が狙われなければならないのか。そしていざという時のための突破口も探っておきたい。
そういう思いすべてをひっくるめての時間稼ぎ、でもある。
「……なんで、オレなんだ……?」
腰を低く落としどのようにでも動ける体勢を取りながら、抑え込んだ声で問う。
そんな睦月に、黒ずくめの覆面男は無言のまま刀を構え直した。
言葉が通じないのだろうか?
暗がりで覆面の下から目だけ向けられても、まったく表情が読み取れない。
どちらにしても好意的でないことだけは確かであり、言葉なり身振り手振りなりで理由を説明してくれる親切心も無さそうだ。
稽古中ではないため、当然こちらは竹刀も剣も持っていない。
そんな状況下、殺意を持って立ち塞がる相手からは当然――逃げるしかない。
ピンと張り詰めた空気の中、先ほどの動きを思い返しながら隙を突いて飛び出せる箇所を必死で探る。
(確かに速かったけど……)
意表を突かれ思わず面喰らってしまったが、逃げ切れないスピードではなかったように思える。
そのつもりに切り替えてこちらもあたればいいだけだ。いつもどおりに。「修行」時の動きで――。
(これなら、いける)
確信を持って、黒ずくめの向こうに伸びる道を見据えた瞬間。
背後から急激に迫り来る何かに感覚のすべてを奪われた。
「!?」
振り向きざま、とっさに身を庇ってつき出した学生鞄にザクリと重い衝撃が伝わる。
同じように刀を携えた黒衣の男がもう一人、背後から容赦なく斬りつけてきていた。
無残に切り裂かれた革鞄からバサバサと教科書類が滑り落ちるなか――
「――!」
なんと、驚く間もなくさらにまた一人――別の黒ずくめが音もなく真横に降り立った。
(三人……)
愕然と見開かれた瞳。
ゴクリと喉を鳴らして、知らず後ずさっていた。
脳裏に蘇るのは、しつこいくらい言い聞かせられてきた柾貴の言葉。
『必要なのだ』
(――そうだ)
ここのところ急にまた「修行」が厳しくなったのは……。
その一方で過保護かと思わせるくらい、自分の知らないところでこの身を案じるような言動をしていたらしい理由は――。
(親父は何かを――これを、どうやってかはわからないが感じとっていたのかもしれない)
身体中、総毛立っているのがわかった。
認めたくはないが、嫌な感覚がじわじわと足元から這い上ってくる。