クラスメート(3)★
五限目直前の、静まり返った保健室に。
養護教諭であり睦月の伯母にあたる倉田路代の姿はなかった。
デスク上に伏せられた読みかけの本とその上に置かれた眼鏡を見る限り、校内のどこかには居るらしいが。
空のベッド二台と完全に無人の室内を見渡しながら静かにドアを閉ざし、睦月はようやくほっと息をついた。
とりあえずは、情けなく歪んでいるであろうこの顔を誰にも見られずに済んだということだ。
カットバンを口実に二人の前から逃げ出してから、ここに至るまで――。
――『ごめん! ごめんね睦月!』
――『俺らは祝いたいって思うぞ。お前が生まれてきた日なんだからさ』
(……おまえら、何でそこまで……――そんなふうに……思えるんだよ)
反芻される哲哉の言葉と洋海の泣き顔。
あの瞬間。
居たたまれなさに、とっさに二人に背を向けそうになっていた。
見ないでほしい、と。
こんな……本当のことなんかほとんど言えない……おまえらを騙してるような自分なんかのことを――なぜ、そうまでして受け入れてくれているのかと。
脳裏に浮かび上がってくる二人の――信じ切ったようなその笑顔を、あえて掻き消すようにぐしゃりと前髪をかきあげ、固く目を閉じる。
(駄目だ、しっかりしろ……。隠さなきゃいけないことに変わりはないんだから……)
二、三度軽く頭を振って無理やり気を取り直し、足早に部屋の奥に据えられた洗面台へと向かった。
「痛て……あー、ここか」
鏡の前で可能な限り顎を持ち上げると、確かに小さな切り傷があった。
洗顔時からどうも違和感はあったものの、普通にしていると見えない箇所と小ささのため気が付かなかった。
哲哉の言ったとおり、昨夜の「修行」でついてしまったらしい。
柾貴の繰り出す刃先を――あるいはその余波を、完全に躱せてはいなかったということだ。
すでに血は止まっているが、強めに押さえるように触れるとじわりと痛む。
「ちったあ手加減しろよなあ……あンのクソ親父……」
本気で手控えを望んでいるわけではないが、真剣使いでコレだと部位的にかなりヤバかったのでは?と今さらながらゾッとして、思わず両手で覆い隠すように白い首を包み込む。
鏡に写った手首の痣を見て、一昨日竹刀でこてんぱんに負かされた状況まで思い出してしまい、うぐぐと眉をしかめた。
普段はのほほんなあの親父相手に敗北を認めるのは忌々しいことこの上ないが、自分はまだまだ敵わない。
そういうことだ。
周辺背後に人の気配がないことを再確認しながら、未だ引かない腫れをしっかり覆い隠すようにゴツめの腕時計をつけ直し、わずかに安堵する。
伯母――路代が不在でかえってよかったと心底思った。
痣や傷を知られようものなら、また心配のあまり「やりすぎだ!」と道場に怒鳴りこんでくるのは目に見えている。
……にしてもな、と睦月はおもむろに眉根を寄せた。
鏡に向かっていながらも、頭に思い浮かぶのは「稽古」「修行」時の父親の姿。
(なんっか最近、やたら手厳しくねーか……? ここンとこ無傷でいろいろ渡り合えてきてたと思ってたのに……)
単に自分の腕が落ちたのだろうか、といやな心配が浮上する。可能性としてはゼロではない。
――が。
進学するしないにかかわらず、いずれは道場を継ぐつもりでいる身だ。
そんな衰退しているような感覚はないし鍛練を怠っているつもりもない。
驕り、にすぎないのだろうか。
(ま、結局……勝てないうちは何言ったって言い訳にしかならねーか……)
あきらめたように短いため息をこぼし、勝手知ったる備品棚の小箱から絆創膏を一枚取り出した。
別に、負けを認めたくないわけではないのだ。
経験や性別の差を抜きにしても、自分が未熟なのは――未だ父親の足下にも及ばないのは明らかだ。
嫁に行くわけでもあるまいし、傷がいくつ増えようが痕になって残ろうがそれも問題ではない。
それはいいんだけど、ただなあ……と、ため息をつきながら顎のラインに絆創膏を貼り付ける。
現時点でこれ以上見える場所に傷を作ると、虚弱体質という嘘が通用しなくなりそうでまずい。
運動会とか水泳とか休めなくなったらどーすんだ? 女ってのバレたらどーすんだ? 今までの苦労と努力が水の泡じゃねーか、と切実な心配が脳裏を占めているわけで。
(つーか……そもそも男のフリしなきゃいけねーのって、元はといえば親父のせいじゃんか)
遺伝的あるいは突発的な、突然変異か何かの要因に占められてるだろう「銀々」については、さすがに全責任をおっ被せなければ!という気にはならないが。
それ以外の件に関してはすべて、柾貴が元凶と言っても過言ではない……ような気がする。
ふと思いついた原因と理不尽さに、ふつふつと静かな怒りがこみ上げてきた。
心配した伯母に怒鳴り込まれるほど行き過ぎた「稽古」や、気軽に他人には話せない普通ではない「修行」。
それが元でできた痣や傷を隠すこと。
女であることを伏せなければならないこと。
ちょっと待て、なぜ自分ばかりがこんな苦労をしなければ……!?と喚き散らして暴れたくなるのは至極当然のことではないだろうか。
(その上、何つった? 『暗くなったら送ってくれ』だあ?)
いつの間にそういう妙なやり取りがなされていたのか、というのも驚きだが。
そこに普通に応じようとする哲哉の阿呆さも理解できない。
実は体も弱くないと知ってしまっているのだから、『はぁ? 高校男児に何そんなに心配してんですか』と笑ってツッコむトコだろうがそこは!と思ってしまう。
おもいきり眉をしかめて前髪を掻き上げた拍子に、鏡に映り込む手首と顎の絆創膏に目が留まる。
これだけ日々スパルタでシゴき倒して鍛え上げておきながら、まだ心配だとでも言うのだろうか。
確かに未だ父親には敵わないが、そこら辺のちょっとやそっとのキチガイや変態など、おそらくは軽く返り討ちにしてやれるくらいには力はついているはずだ。……試したことはないが。
それなのに……?
頭上で鳴り響き始める五限本鈴を聞き流し、しばらくの間睦月は立ち尽くしていた。
何やら言い表しようのない違和感を抱え、偽りの髪色と瞳をした鏡面の自分を憮然と睨みつけたまま。