兆し(2)
確かに今さら理由を問いただしたところで、どうにかなるものでもない。
出生届云々……は何度聞いても眉唾モノではあったが。
悶々としたまま時折父親を睨みつつ朝食を終え、本格的に身支度をととのえようと、睦月は再度洗面所へと向かう。
いつまでたっても「さらし」が苦しいのと、年一回の健康診断や諸々の測定を学校ではなく掛かり付けの病院で受けたことにするちょっとした小細工の煩わしさ以外、特に現状に不満はない。
たまに本気で実は本当に男だったのではないかと錯覚してしまうほど、このフリにもハマっていたし。
故に、実の性別――女――で生活していく気もその必要性もないわけで。
それに、何よりも自分が「男であること」は周知のことであり、それは今後も変わることなどあり得ない「事実」でなければならないのだから。
「あ……れ? ……また白くなった? 気のせいかな……」
たどり着いた鏡の前で、映し出された自身の顔を食い入るように覗きこむ。
生まれつき肌が白すぎる、というだけならまだ良かったかもしれない。
「女」である事実を隠すため、体育的な行事や授業もほぼ休めるようにと「身体が弱い」としているのにも説得力が加わるというものだ。
それよりも――。
周囲にひた隠しにしている、もうひとつの「重大事」。
なぜか一定の長さ以上には伸びないこの銀色の髪と、同色の瞳。
「……」
あえて鏡面の自分を直視しないように細心の注意を払いながら、カシャカシャと振ったヘア・マニキュアのスプレーを短い髪に噴射する。
『何代か前の先祖が外国人だったとか?』と考えたこともある。
が、柾貴の話では、知る限りにおいてはどうもそういった系の事実はないらしい。
ないならないで仕方がないが、あの父親――
例によって「いや、すまぬ」「仕方あるまい」「何とかなる」などとほざき、のほほんと構えているのはどういうことだ。
製造元のクセにあの言い草……。
何ともムカつく話ではあるが、実際それだけならこれほど神経を尖らせる必要はなかったかもしれない。
本来ならば。
(だって、この髪ときたら……)
フンと音まで付きそうなため息が、ついもれ出てしまっていた。
なぜか――ショートヘアから伸びないばかりではなく(いや伸びないのはいい、伸びないのは。切る手間も省けるし!)、よほど色付けされるのが嫌なのか、何度染めてもどう染めても一日経つとすっかり銀色の輝きが戻ってしまうのだ。
どのメーカーのどんな染髪剤を試しても結果は同じだった。
どうせ落ちるならマニキュアでいいや、と落ち着いたわけだが。
よって、とてつもなく面倒だがこうして毎朝忙しい思いをしながら染めなければならないのだ。
先祖返り説だけならまだしも、この怪事が加わるとなおさら軽々しく周囲には明かせない。
そのため宿泊を伴う行事ごとにはとうてい参加できず、これまで互いの家に泊まりに行き合うような……深い友達付き合いと呼べるような関係も築いてこなかった。
(それは別に……全然、いいんだけどさ)
このことで変に目立って「性別」まで露見してしまうような騒ぎになったら元も子もない。
したがって、これらすべてを迷うことなく隠すことにし、今に至る。
必要以上に目立たぬよう詮索されぬよう、人付き合いは最小限。
「ノリが悪い」「暗い」「すかした奴」とどんなに陰口を叩かれようと後ろ指を差されようと、気にもならなかったし、念には念を入れてとにかく他人とはひたすら距離を置いてきた。
つもり……なのだが。
(……まあ、なぜか例外はいるけどな)
微かに眉をしかめるも、口からもれるのは苦笑だった。
もの凄く不本意ながら「思い出し笑い」という名の――。
気を取り直して黒く染まった短髪を手早く乾かし、カラーコンタクトを指に乗せる。日課となっている手順のため手慣れたものだ。
光の種類と加減によってはわずかに青みがかってさえ見える銀色の瞳も、十数秒後、そこら辺を歩いていても違和感を持たれない程度のそれに変わっていた。
「ふぅ……じゃ今日もバレねーように、行って来――」
何気に視線を落とした腕時計を思わず二度見してしまう。
「げ! 遅刻……っ」
のんびりしすぎたか、いや違うやっぱ親父のせいで!と学生カバンと可燃ゴミ袋を引っ掴んで玄関に走った。
「食器の片付け頼むなー、親父ー!」
いつもどおりの、何の変哲もないように見える朝。
ただ――
「睦月」
「んー!?」
いつの間にか背後に佇んでいた柾貴に軽く驚いた。
が、振り返らないまま「間に合わねーかも」と必死の形相でローファーに足を突っ込む。
「……いや。気をつけてな」
「? うん。……って、やっべ……! 行ってきまーすっ」
だが確かに、この日は何かが違っていた。
それが何であるかは、その時はとうてい知り得るはずもなかったのだけれど。
なぜか……父親の雰囲気がどこか、いつもと違うような感じがした。
でもそれだけだと、思っていた。
「稽古」「修行」時以外は常におおらかで飄々としてさえ見えた父親が、窓辺に佇み、遠ざかって行く我が子の後ろ姿を見送っていたことに気付くことはなく、
「……風が、強いな――」
静かだがどこか探るような顔つきで宙を仰ぎ、そんなつぶやきをもらしていたことなども、当然知る由もなかった――。