何処より(1)
「あぶねえ、睦月!!」
突如響いた警告どおり、剛速球で飛んできたサッカーボール。
ひょいと首を捻って容易くそれを躱した睦月のもとに、ジャージ姿の哲哉が半ば呆気にとられて駆け寄ってくる。
「……いや、確かに声はかけたけど……。軽く避けちゃ駄目じゃん、おまえ」
バックネットで跳ね返って足元まで転がってきたボールを拾い上げ、「いろいろバレたら困るんだろ? エセ虚弱とかさ」とヒソヒソ耳打ちしてきた。
(哲哉こそあんま寄るな……いろいろバレる)
制服姿で座り込んだ芝生の上でさりげなく哲哉から距離をとりつつ、困るって何が……とぶつぶつこぼしながら体育中のグラウンド内を見る。
……と。
クラスメートの男子たちがギョッとした顔でこちらを見て固まっていた。
(あ)
少しばかり、しまった……と反省するも時すでに遅し。
虚弱と偽ってこうして体育を見学しているにもかかわらず超身体能力の片鱗を見せたらマズいだろう、と哲哉は心配してくれていたのだ。
ごもっともで。ぼうっと考え事してたら素で普通に避けちまってました。と心の中で反省。
だが。
気遣いは有難いのだが、
「あー……ちょっとな。実は今、これ以上ケガしてらんねーんだ」
憮然として右足首の包帯を指差してみせる。
自身に何が起きているのか、あの黒ずくめたちは何なのか。
知りたいし知らなきゃいけない。どんなにひた隠しにされようとも。
余計なケガを増やして座り込んでいるわけにはいかないのだ。
なんと言っても命がかかっているのだし。
三人の刺客はもとより、よく考えると「龍」と名乗ったあの青年だって……。
思い返して眉をひそめ、思わず下唇を噛んでいた。
助かったには助かったが、と。
殺そうとしたり助けたり……結局何がしたいのかわからない。
気が変わっていつまた襲ってきてもおかしくはない状況だと、無駄な期待はしな――いや……警戒しておくに越したことはないのだから。
「どうした? 運動神経の塊な睦月がケガ、ってよっぽどのことだろ」
先週よりいっそうエアリーになったように見える髪の毛を揺らして、勢いよく哲哉が目の前にしゃがみ込む。
「……」
これが、かけたいと騒いでいたクセ毛風パーマヘアとかいうのだろうか。それともただのアレンジか。
……どうでもいいけど近いんだって、この洒落男……と心中で不平を漏らしながら、またじりじりと仰け反るように、なるべく哲哉から身を離す。
「何があったんだよ?」
気付いているんだかいないんだか、いつになく心配そうに哲哉は食い下がってくる。
――が。
「哲」
「ん?」
「ほら。早く戻んねーと」
試合を中断してボールと哲哉を待っている体育教師とクラスメートたちを指差してやった。
げ、とあわてて戻りかけ、一度だけ大きくぐるりと振り返る能天気男。
「後で話せよ? 絶対な? わかったな?」
一方的に約束を取り付けて「悪い悪いー!」と満足そうにチームに戻っていく後ろ姿を眺め、ため息がもれる。
(言えねーんだって……)
どんなに心配されたって。
話したところでどうにもならないだろうし、下手に関わらせてこんな危険な状況に巻き込んでしまうわけにもいかない。
そもそも自分自身さえよく――いや、まるでわかっていないのだ。
話せるわけなんてない。
再度薄くため息を吐きながら、それにしても……と肩をすくめる。
ヘラ男の哲哉でさえあの様子だ。
父親にはとうてい見せられるものではないな、とあらためて痛めた右足首に視線を落とす。
そもそも柾貴の言うことを聞かずに家から出て、この体たらくだ。
心配のあまり今後しばらく家から出してもらえなくなるのは明白だ。
やはり昨日は帰らなくて正解だったかもしれない。
(……いや、待てよ。でも路代さんから話だけは伝わってる……はず。ということは)
恐怖が先延ばしになっただけじゃんか、と思い直して一瞬だけ身を震わせ、睦月はガクリと項垂れた。
あきらめと同時に一気に襲い来る疲れに、黒く染まった髪をぐしゃりと掻き乱し、息をつく。
昨夜は昨夜で、実際大変だったのだ。
あの後――。
土や錆にまみれたズタぼろの着衣で、しかも片足を引きずるようにして倉田家を訪れた姪の姿に、さすがの路代も卒倒しそうになっていた。
すかさず柾貴に連絡をとろうとするところを必死に押し留め、まずは何でもいいから知ってること何もかも話してくれ、と強く頼み込んだ。
何ごとかと驚いた顔でしばらく押し黙っていた路代だったが、
『…………私も、すべてを知ってるわけじゃないのよ』
捻挫の処置をしてくれながら、ようやく重い口を開き始めてくれた。
「あなたたち二人が、大谷の家と直接血の繋がりがないのは前に話したわね?」
「うん。親父を養子に迎えてくれた、って……」
「そう……なんだけど。それも子どものころに、とかいう話じゃなくて……実はあなたが生まれた後のことよ」
「――」
初耳だ。
てっきり家族事情か何かで幼少のころに養子縁組がなされたものとばかり思っていた。
「それ以前はあの人……柾貴さん、がどこで何してたのか、とかは実はまったく知らないの」
(……その前を知らない?)
あの普通ではない「修行」の数々からして、何かあるのだろうと漠然と思ってはいた。
が、もともと口数の少ない父親だし、好んで過去にふれようとしない様子から、あえて自分も踏み込まずにきたのだ。
だが義理の姉弟とはいえ、まさか路代も何も知らないとは思いもよらなかった。
「あのころ……病院実習でね、ちょうど詰めてたんだけど。ある日、真夜中にお腹の大きな女性が運ばれて来てね。道で倒れてたところを通行人が救急車を呼んでくれた、ってことらしいんだけど……」
「母さん……?」
「そう、美野さん。そして、それに心配そうにずっと付き添っていたのが柾貴さん」
二人とも身元を証明するような物はなぜか何も持ってなくて……。
でもまずはそれどころじゃなくてね。
そう言いながら、路代の表情が徐々に翳ってくる。
当然スタッフ皆で懸命に、母子ともに助けようとしたのだという。
そして赤ん坊はなんとか無事に生まれたが、母親のほうはすでに弱り切っていて……まもなく息を引き取った。その直前に撮った一枚きりの写真を残して。
位牌の前に置かれている写真のことだ。毎晩静かに柾貴が対話しているのだと哲哉に教えた、あの……。
それが路代の手で撮影されたものであることはすでに聞かされて知っていた。
余計な口は挟まず、睦月が黙ってうなずく。先を促すように。
女性が息を引き取った後、それまでずっと付き添っていた男性は乳児を抱いて途方に暮れていたようだった、と路代は続けた。
「『あの女性は奥さんですか? この赤ちゃんはあなたの子ですか?』って尋ねたら、そうだ、って。でも自分のことは『マサキ』という名前以外はまったく覚えてない、って……」
「記憶……喪失?」
「ホントかどうかはわかんないけどね」
目を伏せたまま路代は少しだけ笑った。肩を竦めて。
たぶん、嘘だろう。
自分の名前と子の父親だということ以外、何も覚えていない……なんて不自然すぎる。
おそらく路代もそれに気付いていただろうに――
「……んな胡散臭い親子連れ、よく受け入れてくれたね」
「本当よねえ。でも……なんか、なんとなくあの時は運命的なものを感じちゃって。名前も『マサキ』だし、時期的にも、ね」
そういえば、だいぶ前に病気で亡くなった叔父が同じ名前だった、と聞いていた気がする。記憶違い……でなければ。
それを問うと、えらく優しげで儚げな笑みを浮かべて路代はうなずいた。
「そう。そのころ、少し前に雅紀が……本当の弟が死んで、父はそうとう気落ちしてたの。もうこんな道場もどうなってもいい、って自棄になるくらい」
記憶は正しかった。が、ちょうどそのころの出会いだったのか……と思いながらまたもやうなずく。
「私も結婚間近で、家を出ることは決まっていたし。ただただ心配でね……」
捻挫の処置をとうに終えて、気分転換とばかりに路代が「お茶飲む?」などと訊いて立ち上がるが、適当に返事をしてとにかく話の続きを待った。




